ep035.『狂気の眼窩』

 安全を確認した矢先、そこに無かったはずの音が不意に現れた。


 後ろから聞こえたしわがれた声に、美雪と落憑たちは血の凍るような寒気を覚えながら振り返る。

 そこには異様な風貌の老人が一人、ぽつんと佇んでいた。


 濃色の奴袴ぬばかまに高麗納戸の狩衣。肌の見える部分は夥しい数の文字が彫り込まれ、あまつさえ、両の瞳すら眼窩と見まがうほどに埋めつくされている。


 目の前の老人が代行者だと知らなかったとしても、その狂気が故に必然と答えにたどり着く。



「狂信者……」



 美雪の言葉に返す身内はいない。否、返せない。

 当然だが落憑たちにそんな余裕はない。

 それは突然見知らぬ誰かが現れたからでも、その風体が異様だったからでもない。ただひとえに、言い知れぬ危険――言いも言われぬ狂気を感じるが故だ。

 弱者にできることは唯一つ、捕食者の目に止まらぬようにじっと縮こまる事だけだった。


 そんな中、美雪だけが異変に気付き、後ろ――すなわち進むべき方に顔を向ける。



(挟まれた!)



 そこにいたのは多くの解魂衆と正気とは思えない群衆。

 怒りの形相を浮かべた右腕のない徒人たちが、丁度美幸と落憑たちの間を塞ぐように現れた。

 

 狂信者に解魂衆、それに狂相を浮かべる徒人と野蛮人ヤクザ

 いなかった筈の彼らは一体どこから現れたというのか。

 解魂衆の傍には人数分の早そうなバイクが止められているが、それでこの場に駆け付けたのだとしたら、美雪がその音に気付かないはずがない。


 ――隠形。


 人の認識から姿を隠すその御業は、最凶足るコンにしかできない所業という線も僅かにあったが、どうやらそんな都合の良い話はないようだ。

 挟まれている現状が想定通りとは口が裂けても言えないが、代行者にも隠形ができる可能性は頭の片隅にはあった。それだけに意表に隙を突かれるなんて無様を晒すこともなく、冷静に状況を観察できる。


 罠があること自体は想定通り。

 代行者が待ち受けていることもまた想定通り。

 ただ誤算があるとしたら――、



「ハイエナって随分多いんだね」



 主要道路を塞ぐようにして迫ってきていた大量の車両。奴らの他にまだこれほどの解魂衆がいたのは予想外だった。狂信者がどんな恩恵を持っているかわからない中で、落憑たちを守りながらこの数を相手にするのは控えめに言って無理がある。



「なに簡単なことだ。本隊に見せかけた揺動隊の殆どは一般の警官だ。奴等には衆の者の言葉に合わせて同じように相槌を取るように命じておったのよ。何事も、一つの面で判断してはいけないと言うことだな」



 トントンと耳を叩きながらタネを明かす狂信者。

 だがその言葉を素直に受け入れるのは難しい。

 

 なにも煽るようなしぐさでお説教をされたから拗ねているわけじゃない。

 言われた内容に関してはこの狂悪な見た目の老人のいう通りだ。耳や勘に頼り過ぎている事実は反省すべき点だろう。でもそうではないのだ。



(なんかおかしい……)



 何かがおかしい――というよりは引っかかるの方が適切だろう。

 仮に、狂信者の言う通り主要道路に来ていた隊の殆どが一般警官なのだとしたら、なぜそちらの方角から代行者に並ぶほどの嫌な予感がしたのか。

 確かに、代行者じゃないからといって、無尽蔵に相手できるほど普通のハイエナが弱い訳ではない。そこそこ強いのもいれば、どれほど数が集まろうと敵にならないくらい弱いハイエナもいる。

 だとすると、搖動隊に混ざっていた全てのハイエナが丸ごと手練れだったとでもいうのだろうか。



(今そんなこと考えてる場合じゃない)



 そうだ。考えても答えの出ないことにいつまでも時間を掛けてはいられない。

 先ずは挟まれているこの状況をどうにかしなくては。



「私が時間を稼ぐから皆さんは来たところから出てて、探偵社に向かってください」


 

 目の前の狂信者を警戒しつつ、後ろの連中の音に注意を払いながら落憑たちに指示を出す。



「あんなやばそうな奴ら相手に一人でやるってのか!?」

「あなたがいなくなったら誰が私たちを守るのよ!?」



 美雪の言葉に駆と黒内がそれぞれの反応を見せる。

 当たり前だが何の解決にもならないたわ言に取り合っている余裕はない。

 

 そもそも駆たちがいたところで、並みの解魂衆相手に精々数分の時間を稼げるかどうか。代行者相手ならば美雪未満がどれだけいたって話にならない。

 玄内に至っては、最初から可能な限りの護衛という話だ。そしてその可能な限りという条件は、代行者が出てきた時点で振り切っている。



「灰牧さんの恩恵を使ってはどうでしょうか?」

「俺たちで時間稼げるような温い相手じゃねぇ! 嬢ちゃん以外にゃ止められねぇんだよ!」


 

 何も答えない美雪の代わりに、基本持っているフィギュアにしか興味を示さない暗道が珍しく意見を出すも、その案は灰牧の正論によって実現する前に白紙に戻る。



(やばい……!)



 思い思いのことを口にする落憑たちに美雪は焦る。

 正直、いまここで戦力外に残られても足を引っ張られるだけなので逃げてほしい。

 それに、このままここで言い争いを続ければ、こちらの意志が統一できていないと相手にバレてしまう。


 力も手も時間も足りないこちらが主導権を握られれば敗北は必至だ。

 全てにおいて優勢な相手がそれを理解していないはずがない。だというのに、こうしている間も何もせずジッとしているのが不気味でならない。



「灰牧さんの言う通りです。私だけなら簡単に逃げられる。それに私が本気で蹴れば、皆さんは衝撃波に耐えられません」



 これでうまくいかなければ落憑たちを囮にする。そんな最悪の結末を考えながら落憑たちへ再度の指示を出す。ついでに狂信者に対し、美雪が切れる最大級の攻撃をチラつかせて揺さぶりをかけて見るも、浮かべた余裕の色が落ちることはなく、残念ながら小細工の効果は得られなかった。



「わかった。みんな行くぞ!」


 

 が、狂信者の余裕に変化がない代わりに状況は動いてくれたようだ。



「ここからは守れませんから、気を付けてください」

「あんたもな」



 短いやり取りをした後、駆たちは来た道に引き返し、解魂衆たちに塞がれた道を迂回しながら探偵社へと向かった。そして、遠のいていく車の音を耳で聞きながら美雪は自己嫌悪する。



(「気を付けてください」ね……)



 見捨てることも考えてたくせに、どの口が言うのだろうか。


 憑神遊戯このゲームに参加すると決めてから、何をしてでも己の"願い"を叶える覚悟をした。それでも心が痛まないわけじゃない。


 罪のない一般人には手を出さないようにしてきたし、救える命は救ってきた。親友と弟、遠くに逝ってしまった両親に顔向けできるように美雪なりに努力をした。


 それが甘えだということは分かっている。自分の為に人を殺しておいて何を今更という話だ。心だけでも善人面して、この期に及んでまだ自分を守ろうとしているのが気持ち悪い。


 でも仕方ないだろう。そもそもこの弱い心は揺れやすいのだ。

 少し長く話しただけで情の一つや二つ湧いてしまう。探偵社の人たちともなれば、大切な二人に手を出されるとかでもない限り、殺せと言われてもできないと思う。


 そうしてこのゲームで殺さない相手を選ぶということは、それだけ自分の首を締めることになる。だからこそ一人で行動していた。

 それでも探偵社に入ったのは、恩人である『神童』に強く勧められたからで、本当は関わる予定などなかったのだ。


 その辺、黒狐コンはきっぱりと線を引いていた。

 甘さを捨て最短で"願い"に向かっている。

 だから、黒狐コンと手を組むと決めた時、その醜い自分と区切りを付けることにしたはずだった。



(弱気になるな私)



 コンと初めて会った時、隠形しているかどうかは勘に影響しなかった。にもかかわらず今回は、狂信者が姿を現わしてから急激に嫌な予感が強くなった。しかもそれは刻一刻と強くなっている。逃げるか戦うか、選択するなら今しかない。


 こんな状況の時はいつも逃げを選択してきた。危なくなる前に逃げろとコンにも言われている。

 でも今は逃げない。『後がないと』言われているから、お前ならできると託されているからだ。

 今この場にいるのは、無力で弱い少女みゆきではなく、黒狐の協力者ラビットフットなのだから。



「フゥー……」



 短く息を吐き呼吸を整える。

 吐き出した弱音の代わりに据えた、強い決意をもって狂信者を睨む。



「ふむ。そろそろいかな? 状況を理解できない愚か者とは、くも手間を取らせる」

 

「わざわざ待っててくれてありがとう。ついでにお茶でもしながらのんびりしたいんだけど、どうかなおじいちゃん?」



 心にも思っていない言葉を不敵に返し、少しでも時間を稼ぐ。その間に周りを囲んできている狂った徒人と、相変わらず道を塞ぐように列を成している解魂衆の数を確認。


 

(狂人は14、ハイエナは24人)



 狂った徒人には女も混じっている。だからといってそれが何か有利になるという訳じゃない。なぜなら――鉄パイプ、バッド、角材、ナイフ、すべての狂人が何かしら武器を手にしているからだ。



「老い耄れの話に付き合ってくれるというのは喜ばしいことだが、儂も残り短い時間を急ぐ身でな――兎狩りは儂らでやる。お主らは落憑共を追え」

 

「御意」



 道を塞いでいた解魂衆たちが一斉にバイクに跨る。



「行かせな――」



 追わせまいと美雪が脚に力を入れた瞬間、


 ――チリン


 鈴の音が聞こえた。



「――あうッ?!」



 直後に美雪を襲ったのは無理解。

 わかったのは蹴り飛ぼうとしてバランスを崩し、その場に倒れたことだけ。

 

 打ちつけた体が痛みという苦情を訴えてくるも、それにすら気付く余裕がない。

 体の訴えてくる原始的な警告も入る余地がないほど、美雪の頭を埋めつくしたのは純粋な疑問だった。


 ――なにが?


 処理できない状況に一杯一杯な美雪の脳に、続く事態がさらなる困惑に叩き落とす。



「爺さんの言う通りだな、クソガキが良く見えるようになった」

「アンタのせいで……アタシたちは!」

「楽には殺さねぇ」

「娘の、俺の腕を返せぇえ!!」



 狂人たちが美雪を認識している。

 徒人は憑神を認識できないはずなのになぜ?


 起き上がろうとして、ふと視界に入った自分の手に違和感を覚える。


 違和感に従って目線を落とす。

 そこに映るのは病的な白い手ではなく、血色の良い健康的な普通の手。

 だというのに、肩からさらりと落ちた髪は、耄碌したように白いままだ。


 答えを探して鈴の音の聞こえた方を見やれば、そこには見たこともない法具を持った狂信者の姿があった。



「儂が貴様らの下らぬ言い争いをただ聞いていただけとは思うまいな?」


 

 手を出してこなかったのには理由があった。

 それはどうやら恩恵を使うための時間稼ぎだったらしい。



「兎に飛ぶ力はない。後は貴様らの好きにせい」



 狂信者の恩恵が何かは分からない。だが想像は付く。



(恩恵を封じられた……?)



 ということは、兎脚も耳も回復力もない。この人数相手に、何より代行者相手にそれは不味い。そこまで考え思い至る。今の自分には耳がないことを。

 


「どこミてんだガキィ!!」



 近くまで走り迫ったヤクザの足音でようやくそれに気づく。

 咄嗟に倉庫の方へと飛ぼうとするが少し遅く、ヤクザの脚は深々と美雪の腹を抉る。



「ぅ゛ぐッ!?」



 跳躍に失敗し、打ち付けた体を持ち直したばかりの美雪は、四つん這いの姿勢のままがら空きになった横っ腹にもろに蹴りをもらい、弾むようにして地面を転がる。



「ドコにイこってんだぁ?」

「ゴホッ、くっ……!」



 内臓を絞られるような痛みに耐えながら何とか起き上がり、なりふり構わず倉庫へ向かって走り出す。



(お願い、早く来て……!)



 少女の願いとは裏腹に、日は落ち、闇もまた弱者の敵へと回る。

 薄暗い倉庫を怒声が木霊し、そんな狂人たちの宴を忌避するように太陽は水平線へと顔を背けた。 


 追い込まれた兎を見つめる眼窩のような瞳が、人知れず狂喜に歪む。



「まだ多少は恩恵を扱えるようじゃて、油断せんようにな」



 少女と狂人が集う倉庫に暗い夜が訪れた。

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