第32話 努力の方向性

「すっきりした?」

「……はい」


 リリーシュの涙が止まるまでは、ほんの短い間だったが、泣いたことで憑き物が落ちたように、気持ちはすっきりしたが、子供みたいに泣いたことは恥ずかしく思った。

 ロードバルトの胸に顔を埋めて泣いたので、彼のシャツを濡らしてしまっている。


「すみません、服が……」

「気にしないで。暫くすれば乾くから。それより君に胸を貸すことができてよかった」


 そう言ったロードバルトの笑顔が、リリーシュの腫れぼったくなった目に染みるほど眩しくて、彼女はぎゅっと目を固く瞑った。


「リリーシュ?」

「すみません、気にしないでください」


 意外に逞しかったロードバルトの胸や腕。騎士なのだから当たり前なのだが、彼が一人の成人男性だという事実が、彼女を混乱させていた。

 それに加え耳に響いた声の心地良さや自分に向けられる彼の思いやりに、これまで彼に対して抱いていた好意が別のものに変わりつつあるのを感じた。


(だめよ。彼は期間限定の相手なんだから)


 そう思いつつ、ギルド長のボウが追加で言った条件を思い出す。

 三年で終わりではなく、三年後に契約をどうするか改めて話し合うというものだ。あれはどういう理由で出されたのだろう。

 ロードバルトは、その話を知っているのだろうか。


「リリーシュ、目をどうかしたのか?」


 リリーシュがぎゅっと目を閉じたままなので、訝しげにロードバルトが瞼に軽く触れたのがわかり、慌ててリリーシュは目を開けた。


「わ!!」


 不意にリリーシュがカッと目を見開いたので、ロードバルトはびっくりして声を出した。

 目を大きく開いて驚くロードバルトの顔が、すぐ目の前にあって、リリーシュの心臓は激しく鼓動する。


(だめ。目を開けていても閉じていても彼の顔がちらついちゃう)


「リリーシュ、大丈夫か? なんだか顔が赤いが、熱でもあるのか」

「だだだだだ、だいじょーぶれしゅ」


 動揺して挙動不審になり、舌まで噛んだ。

 

「リリーシュ、これからは私の前でその言葉は口にしないでほしい」

「その、言葉、って? どの言葉?」

「『大丈夫』という言葉だ。それを言われると、なんだか距離を置かれた気になる」


 固い表情でそう言われ、リリーシュは困惑する。


「でも……」

「今度私の前でその言葉を使ったら、その口を強制的に塞ぐ」

「強制的に……ど、どうやって?」

「もちろんこれで」


 ロードバルトが人差し指を自分の唇に当てる。


「……!!」


(そう言えば私、伯母さんの前で彼とキスしたんだった)


 突然その光景が脳裏に浮かんで、鏡を見なくても自分の顔が確実にもっと赤くなったのがわかった。


「まあ私としては、そっちでもいいが」


 それは罰なのかご褒美なのか。リリーシュにとっては拷問に近い気がする。

 今にも心臓が飛び出そうになる胸を押さえ、「ど、努力します」と、どっちの方向に努力すると言っているのか自分でもわからず、そう呟いた。


(この人、こんな人だったの?)


 女性を避けて、学園長の部屋に雲隠れしていた人と同一人物とはとても思えない。一体どっちが本当の彼なのか。

 

(人って変わるもの? それともはじめからこういう性格だったのかな)


 ロードバルト・クライスナーという人物がわからなくなる。

 

「もしかして、『こんな人だと思わなかった』とか、思っているのか」

「ど、どうし……あ、その」


 考えていることを言い当てられ、どきりとして取り繕うの忘れて反応する。


「気にしないでいい。学園在学中に君が知っていた私は、私のほんの一部に過ぎない、ということだ」

「は、はあ……」


 自分が見ていたロードバルトは、彼の一部でしかない。確かにそうかもしれない。今のところ、学園在学中の数年間で彼と交わした会話より、確実にここ数日で交わした会話の方が多い。

 当然自分が知らない彼の一面もあるはずだ。


「これからも、色々な私を見せてあげよう。楽しみにしていてほしい」

「……は、はい……」


 そう答えたが、リリーシュはもうすでにいっぱいいっぱいのような気がする。

 

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