第9話

 コポコポと、口から酸素が流れ出る。


 やっぱり海は怖いな。


 でも。海に出れば、また彼女に会えるんじゃないかって予感があった。


 そう、今みたいに。


 イーちゃんが、夜の海を潜って。


 そうしておれの襟をつかんでグイグイと信じられないような力で持ち上げられる。


 ガバッと海面に出た瞬間、たくさんの空気を飲み込んだ。


「まったくもう!! ほんの少しだけ目を離しただけなのに、きみはすぐそうやって簡単に溺れるんだから!!」


 怒られた。でもおれ、今は死なないんでしょう?


「まぁ、そうだけど。夜の海は怖いのよ? 食べられちゃったら、死んじゃうことくらいならわかるよね?」


 まるで小さい子供が叱られているみたいで、息が整ったおれは、足がつったんだと訴えることしかできない。


「わかったわ。このあたりが急流なのをすっかり忘れていたわ。ごめんなさい。さぁ、さっきの岩場に戻りましょう? まだ泳げる?」


 うん。


 それなのにイーちゃんは、おれを怒ったわけじゃなく、心から心配してくれた。


 夜の海は真っ暗で。ふいにブルっと寒気がした。


「……いい? なにが起きてもわたくしの側から離れないでくださいね? わたくしを信じてくれる?」


 うん。けど、なにが起こるんだろう?


 その時。真っ黒な背びれが波打って、こっちに近づいてくるのがわかった。


「またか。本当に懲りないわね」


 それまでより急に砕けた口調のイーちゃんは、おれの前に泳ぎ出ると、バッと両手を広げた。


 うわっ。今度こそシャチだっ!!


「悪い遊びはそこまでにして? この子は人間だから、食べちゃダメだよ?」


 え? イーちゃんもしかして、シャチと話している? まぁ、おれの声がわかるんだから、あたり前か。


『夜だっていうのにどこかの恋人がいちゃついてるから、どんな阿呆かと思ったら、本物の阿呆を引き当てたか』

「ふん。なんとでも言いなさい」

『いいのか? そんな口をきいて。たしかまだ、平和協定を結んで長くないとは思ったが?』


 ヒィィィ。シャチのおっかない目が、おれをロックオンしてる。


 ってか、あれ? なんでおれ、シャチの言葉もわかるんだ?


『なぁ〜んだ。まだにえの話しをしてなかったのか。いいか、人間。おまえはなぁ――』

「もうやめてよっ!! わたくしが、わたくしから話して聞かせる。それでいいでしょう!?」


 贄って、生け贄のことだよな? おれが、生け贄?


『おっとぉ。こいつは過去の記憶をすっかり忘れちまったみたいだぜ? だったらちょうどいいじゃねぇか。そいつをおれに食わせな? そうしたら、しばらくはイルカを食わずにいてやる』


「うっ。うぇ〜ん」


 突然、イーちゃんが泣き始めた。過去がどうとか、食うとか食わないとか、そんなのどうでもいいっ!! 


 イーちゃんを泣かせたことを後悔させてやるっ。


『ほう? どうやって?』


 しまった。頭の中で考えた言葉は筒抜けだった。


 どうするんだ、おれ。どうもこうも、なにも持ってないじゃないかっ。


 つづく


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