ノア・ユノ・クォーツラム・ウォント・リノア ──箱庭世界で終幕を──
四月朔日燈里
一章【人形届かぬ白日】
一節〈咲き誇る緋、広がる蒼〉
今日より幸せな日は、もう二度とないのかもしれない。
桜舞う季節。
視界の端々に映る薄紅色と、晴れ渡った蒼穹に目を細め、■は心の中でそう吐露する。
今日は、■がこの世界に生まれ落ちた日だった。
苦節二十年。
短いながらも、人より酸いも甘いも噛み分けたこの人生。
その幸せの最高潮が、恐らく今なのだ。
何故ならば──世界で一番愛している人と、将来を共にすることを誓った日だから。
右手に繋がれた、■■の左手。
その薬指に嵌められた銀色。
それは紛れもなく己が彼女に送ったもので、己と彼女の幸福の証拠でもあった。
悩みに悩んで決めた婚約指輪には、蒼空を閉じ込めたようなブルーダイヤモンドが鎮座している。
陽光を浴びて、その輝きを十全に示す姿は。
それを身に着ける■■の姿は、溜息が出るほど美しい。
洗練された美に目を奪われる■。
その視線に気付いた■■が、微笑みながら『どうしたの?』と問うた。
────僕は、幸せ者だなあって。
身に溢れる愛と幸福を、零れないよう抱き締めて。
しみじみと、そう呟く。
己は罪人なのだ。救われてはいけないのだ、と。
暗い闇の中、蹲っていた■。
それでも、■■は手を差し伸べた。
君が自分を赦せないのなら、私が赦す。
誰も君を救えないのなら、私が救う。
夜の帳を抉じ開けて、月の光が■を淡く照らした。
絶望に閉ざされた世界から、希望に満ちた世界に導くように。
それを聞いた■■は、珍しい紫の瞳を何度かぱちくり開閉して、そして花のような笑顔を咲かせた。
────なら、明日はもっと幸せになれるよ! 私と一緒に生きるんだから!
桜が咲く街路。
風が吹く度に、花弁が舞う。
愛する人が桜に攫われてしまわないように、一層強く手を握った。
────■■。
呼ぶのは、愛おしい君の名前。
拙い笑顔で、けれど心からの笑顔で。
君に、愛を告げるのだ。
────世界で一番、君を愛している。
この世界で誰よりも、この世界の何よりも。
僕は、君を愛しているのだと。
満開の桜に負けない笑顔。
滲むように細めた大きな瞳。
仄かに色付いた唇が、お返しとばかりに大きな声で叫ぶ。
────私も■のこと、世界で一番愛してる!
互いに見合って、抱き締め合って、更に笑い合う。
ああ、幸せだ。幸せだったんだ。
■が手に入れられるはずのなかったもの。
身に合わない希望と幸福。
だからこそ──壊れる時も、一瞬だった。
目蓋を開ける。
まだそれほど時間は経っていないというのに、永遠のように感じてしまう。
やはり、彼女のいない世界は絶望に満ち溢れているのだ。
唯一遺った■■の左手を強く握り、■はそう確信した。
ふと、空を見上げた。
あれほど澄み渡っていた蒼空は罅割れ、その隙間から『黒』が顔を覗かせている。
それは、『純黒』としか表しようがなかった。
事の始まりは一時間ほど前。
突如として、空が
誰もが見間違いだと、
当然、人々は混乱の渦に叩き込まれる。
あれはどうなっているのだ、と口々に騒ぎ出した。
が、しかし。それも直ぐに静まる。
誰かが答えを言った、誰かが静かにさせた。
そんなわけではない。
皆が見上げていた蒼かった空。
割れて覗く純黒。
そこから、『怪物』が現れたのだ。
一言で例えるのなら、それらは『異形の脚』だった。
深淵と同じ純黒色の体躯。
ぼこぼこと皮膚を泡立たせながら、粘性のある液体を滴らせて。
幅数十メートルはあるであろう指を、十も
そんな人智を超えた、冒涜的な怪物は──虫を潰すように、全てを殺戮し始めた。
頑丈なはずのビルはいとも容易く薙ぎ倒され、轟音が響く。
地を走り逃げ惑う人々は虫のように圧し潰され、鮮血を撒き散らす。
勿論、その魔の手が■たちに迫らないわけなかった。
いや、そもそも。
■が怪物の存在を認識したのは──。
ぎり、と奥歯を噛み締めた。
口の中が切れてしまったようで、血が味覚を支配する。
■の右手に繋がれた左手。
しかし、その先に主は存在しない。
そこにあるのは、ただ虚無のみ。
千切れた断面は、赤黒い液体がこびり付いている。
柔らかく靭やかだった指は、氷のように冷たく固くなっている。
相も変わらず薬指に通されたままの婚約指輪が、厭に輝いた。
とどのつまり──■■は殺されてしまったのだ。
他でもない、かの怪物によって。
見るも無残に、抵抗することも許されずに、肉体すらまともに遺らずに、屍と化されてしまったのだ。
得物を握る、左手の力が強くなる。
一度落ち着かせたはずの激情が、再び己の意志を侵蝕してくる。
早くあれを殺させろ。彼女の敵を討たせろ、と。
けれど、まだ時期尚早だ。
■が左手に握る短剣。
怪物と正反対な純白のそれは、あれを殺すために造られたものらしい。
何故、そんなものを■が持っているのか。
それは、とある機関が彼の能力と資質を見出し、世界を救う救世主として選び出したからである。
とある機関──《世界神秘管理機関》と名乗った黒ずくめの彼らは、■■を奪われ、その肉塊と共に茫然自失と彷徨っていた■を舞台上に引き摺り出した。
────貴方に、世界を救っていただきたいのです。
そうして、この剣を授けたのだ。
ばきりと一際大きな破砕音が響く。
ずっと見上げていた空。
己の丁度真上の空。
そこにぽっかりと空虚な穴が出来ていた。
────ああ、やっと。やっとお前を殺せるよ。
夕焼けの空よりも、血潮よりも深く、鮮やかな
余すことなく緋色に染まったいくつもの瞳が、■を見据えていた。
世界を喰らう、終末装置。
──《
それこそが、憎き怪物の名だった。
■が耳に掛けていたインカムに通信が入る。
聞こえたのは事前に決められていた作戦開始の合図。
どうやら、あれは間違いなく彼女の仇らしい。
────……了解。
大きく息を吸い、呼吸を整えて冷静を装う。
上手く取り繕えていただろうか。
端が釣り上がって弧を描き、歪んでいく口角を男は自覚していた。
至って自然な、されど不自然な笑顔。
嬉しくて笑っているような、どこか哀しくて泣き出しそうな、そんな
それには燃え滾る復讐の炎が宿っていた。
短剣を、■■と共に絡めて三手で握る。
祈るように、願うように。
純白の刀身が指し示すのは、自身の心臓。
際限なく高鳴り続ける鼓動そのままに、一直線に突き立てた。
躊躇いなどというものは端から存在していない。
■の中にあるのは、■■への愛と怪物への復讐心のみなのだ。
ケーキでも切るように簡単に貫通した刀身は、純白を覆い尽くすように赤に染まり出す。
時を数える隙もなく、決壊したダムのように粘度の高い血液が溢れ出した。
既に■■の鮮血で染められた衣服が、更に緋に染め上げられていく。
二人の血が混ざり合っていく。
常人ならば痛みに喘ぎ、力なく横たわってしまうのだろう。
だが、既に狂った■にとって、そんな些細な痛みなど蜘蛛の一噛みにも満たなかった。
■■は、それ以上の痛みを味わったのだから。
彼女の仇を討つというのに、こんなところで挫けていられないのだから。
だから、嗤いながら空を見上げ続けた。
胸に突き刺された短剣が輝き始める。
■の身体が動力源として運用され始めたのだ。
全身から光の粒子が宙に舞い、それらが短剣に吸収されていく。
短剣はまるで成長しているかのように大きくなり、瞬く間に八十センチメートルほどの直剣へと新生した。
身体に剣が刺さっているならば重量を感じるものだが、男は感じることができなかった。
普通の剣ではないからだろうか。
やがて、それは独りでに動き始めた。
血を撒き散らしながら■の胸から刀身を抜き、緋に濡れたまま宙に浮かぶ。
眼前で浮遊する剣は、鮮明な輝きを放っていた。
────き、れいだなあ……。
自分の血で濡れているというのに、男は呑気にそれの美しさを褒め称えた。
その余裕は、もう結末が決まっている故のものなのだろう。
太陽の如き光を持って、剣は怪物に牙を剥く。
切先を瞳に番えて、ありもしない殺意を抱いているように。
闇夜よりも深い純黒を宿す悍ましい怪物と、相反する純白の姿は、悪を討ち滅ぼす英雄そのものだった。
剣は一直線に飛翔する。
軌跡を描いて空を斬り、行く先を阻む
死んでしまえ、消えてしまえ。
世界の果て、星の彼方まで塵一つ遺さずに。
ありったけの
叶えろと、剣と世界に祈り願った言葉。
音として響かせなくても、きっと聞き届けてくれたのだろう。
時間にして三秒。
それは、剣が怪物を貫くまでの時間。
一段強く光が輝き、同時に耳にしたことのないような絶叫が木霊した。
絶叫と言っても、口なんてどこにも付いているようには見えない。
そもそも、これが本当にあれの声なのかも分からない。
しかし、■は確信していた。
あれは怪物の断末魔だと。
ぼろぼろと怪物の身体が崩れ落ちる。
蠢く黒脚も瞳も、全てが腐敗した大木のようにばらばらになっていく。
それらの欠片は空中で光に分解されて、零れ落ちる体液諸共、塵も残さず消えていった。
────終わった、のか……。
■■を殺したあの怪物は滅びた。
男の願い通り、塵一つ遺さずに。
────ざまあ、みろ……クソ蜘蛛野郎。
慣れない悪口。
悪意を込めて他者を貶すのは、初めてだった。
ああ本当に、碌でもない。
乾いた笑いが口から漏れ、同時に大量の血液を吐き出した。
脳に分泌されていたアドレナリンの興奮作用が切れたのだろう。
激痛と倦怠感、目眩に襲われる。
そして、■は足から力が抜け、前方に倒れてしまった。
■が今まで立っていたのは、東京で一番高い天空の塔の頂上だった。
そこならば怪物を向かい撃てると、機関の人間に連れてこられた舞台。
そんなまともな足場が殆どない
■の身体は重力に従い、天を衝く塔から大地へと真っ逆さまに落ちていく。
人間が高度六三四メートルから落ちた場合、地面に到達するまでの時間は約十一秒。
激突の衝撃に耐えることはできず、死に絶えることは明白だ。
だが、その前に男は死ぬ。
その死因は失血死でも落下死でも、他のどれでもない。
■は世界を救う対価として、肉体を捧げた。
世界を救う兵器であった、あの短剣。
それを刺した際に発生した光の粒子は、■の肉体を分解してできたものだ。
使用者の全身を光に分解し、その光をエネルギーとして剣が怪物を討つ。
差し出された
そういう仕様で造られているのだ。
《
再び目蓋を閉じる。
過るのは大切な人たちとの思い出。
たった一人の肉親である可愛い妹、親代わりになってくれた心優しき男性、こんな自分でも親しくしてくれた友人たち。
そして、世界の何よりも誰よりも愛している彼女。
もう会うことはできない、大切な人たち。
守りたかったもの。
視界に色が戻る。
割れた空は継ぎ接ぎの玩具のように修復され、黒は影すらも残されていない。
雲一つない蒼が足先に広がっていた。
■はこの世界を守った。世界は守れた。
しかし、一番守りたかったものは奪われてしまった。
ならば、何の意味もないではないか。
きらきら輝く光の粒子。
頭の天辺から爪先まで、全て光に変わっていく。
世界に溶けていく。
薄れゆく意識の中、■は一つ決意をした。
────愛しているよ、■■。
次があるならば、絶対に守ってみせる。
この蒼空に誓おう。
生命を全て懸けてでも、君だけは救ってみせると。
────だって、僕はどうしようもないほど……──。
流れる緋と正反対な蒼穹は、泣きたいほどに美しかった。
二〇二〇年四月一日、午後十二時〇〇分。
世界はある一人の人間によって救われた。
罅割れた世界は狭間に揺蕩う破片から修繕され、新しい世界へと生まれ変わる。
数百、数千、数万年。
永劫と続く世界へ。
その礎となった名も無き英雄の勇姿は誰にも知られることなく、徐々に存在を忘れられていく。
それこそが本当の死であるとでも言うように。
肉体無き魂は天に上る。
薄汚れた魂を漂白し、新たな生命として生まれ変われるようにする。
だが一つ、想定外のことが起こった。
とある魂の漂白が正常に行われず、記憶の大半を残したまま次の生命へと移り変わってしまったのだ。
稀にあるという事例、俗に言う《転生者》。
その強き意志で世界の法則を超えた者たち。
人の枠を超えて尚、人としてあり続けようとする者たち。
名も無き英雄もまた、その一人だった。
魂が送り込まれたのは、とある箱庭世界。
既に終焉を迎え、残された破片を繋ぎ合わせただけの歪な世界。
その中の一国家、永遠に続く理想郷とも言われる《アリステラ王国》。
■■■はレイフォード・アーデルヴァイトとして生まれ変わった。
いや、レイフォードに記憶を継承したと言う方が正しいだろう。
もう、■■■という名を持つ人間はどの世界にも存在しないのだから。
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