第一章/人の背には糸がある 3

 ロザリロンド・ベタンクールの瞳に、アウラ大聖堂のステンドグラスを通じて舞い降りた日差しが、七色に瞬いている。世界とは隔絶された神の領域に最も近い聖堂の中は、外界よりも僅かに冷たく、浄化された聖域さながら清らかな空気に覆われていた。


「我は敬虔に非ず。されど御身に吹きさすぶ災いを振り払う一本の剣なれば、たとい死の谷の路を歩もうとも、怖れることなどありません。我らが捧げし一刀、御身のためあらば、あらゆる罪を背負いましょう」


 神天院福音伝達部、ローザンヌ修道騎士会を束ねる会長ロザリロンドは、視線を虚空にたゆたわせながら、胸にひとつの杭を打つようにただ唱える。それは、神に仕えながらも神を守る大義が為、悪の名を冠した者たちを殺してきた彼女のひとつの懺悔。主を守るが為、悪を断ち、悪を殺し、悪を滅ぼし、己が魂すら捧げることを本懐とする、信徒の極地。


 祭壇を見上げ、今日もまた主と同じ朝を迎えられた感謝を胸に十字を切る。立ち上がった肩から、編んだ髪の房が滑り落ちる。かつては一本だったそれは、いまは二本の尾になっていた。ロザリロンドが前会長から今の立場を引き継いだ時に結ったものだ。


「会長、良い朝ですね」


 振り返ると、ロザリロンドと同じ濃紺の衣装に身を包んだ青年が佇んでいた。片眼鏡を掛けたシャルルが、いつ何時も絶やさない柔和な微笑を湛えていた。普段は剣呑な表情でいることが多いロザリロンドも、彼と接している時は石のように固まった顔を少し和らげる。


「ええ、悪くないわね。あなたも朝の祈り?」


 シャルルの笑みが濃くなる。


「いいですね。ただ残念ながら、ご一緒という訳にはいきません。フィアラル法院長が修道騎士会本部にてお待ちです」


 半弧を描いたロザリロンドの唇が引き結ばれる。


 今年三十になるロザリロンドは、修道騎士会に就いてから女としての己を捨てた。だから必然的に、その口調は主を守り敵を屠る狩人のそれへと変貌する。己を捨てずして、ローザンヌ修道騎士会は務まらない。


「分かった。すぐ向かおう。伝達ご苦労だった」


 祭壇へ深く一礼し、ロザリロンドが大聖堂を出る。白の街を冴え渡らせる朝日を浴びながら、大聖堂から離れた本部へ足早に向かう。


 神天院の建物に入り、ローザンヌ修道騎士会の本部とは名ばかりの滅多に使われない部屋へと入る。常時掃除されているのか、ロザリロンド自身殆ど使用することのない部屋は教会のように埃ひとつなかった。応接間へと続く扉を軽く叩くと、中から老婆の声が返る。一礼してロザリロンドが応接間に入ると、黒地に金の刺繍が施された法衣を纏う老婆の姿があった。神天院の法院長フィアラル・エーフィだった。


「朝早く呼び出してごめんなさいね」


 無駄に豪華な椅子に腰を沈めたフィアラルが、慈愛ある柔らかな声を掛ける。


「いえ、何用ですか」


 対して、ロザリロンドの返答は硬い。


 ローザンヌ修道騎士会は、アレラルが国教たる神天教の委細を決定する神天院に属する。だが、組織的に福音伝達者を管轄とする福音伝達部になるから、通常直接の命令主は福音伝達部の部長だ。修道騎士会が神天院そのものを統括する法院長と直接やりとりする機会は基本的にない。だから、この呼び出しは例外だった。


 ロザリロンドの佇まいが自然と冷たいものになる。


 穏やかな微笑を消したフィアラルが口を開く。


「私は無駄な口上を嫌います。端的に伝えましょう。先ほど緊急の最高国務評議会が開かれ、国家非常事態宣言が発令されました。ストラストにて第一級施術災害が発生、施術災害対策本部が設置されます」


 産まれた僅かばかりの衝撃をすぐに噛み殺し、ロザリロンドが一度瞑目。己の立ち位置を見つめ直し答える。


「難儀なことですね。法院長自らの情報提供は感謝します。しかし、ローザンヌ修道騎士会に関わりはありません。我々はいついかなる時でも現福音伝達者システィーナ猊下をお守りするのみ。例えそれが、国家滅亡の時であろうと変わりません。話はそれだけですか?」


 フィアラルがゆっくりと首を振る。ロザリロンドにとっては予想済の反応だ。神天院の長が、修道騎士会の本分を知らないはずがない。


「いいえ、ロザリロンド。これだけならば私はあなたを召喚しません。今の話はただの前提、本題はこれからです」


 フィアラルが指先で着席を促す。立ち話では済まないと暗に語っていた。ロザリロンドはこれに従い対面に腰を下ろす。


「結界は?」とロザリロンド。


「人払いは既に済んでいます。下手に結界を張って注目を集めることの方が不都合です」


 わざとらしくフィアラルが咳払いする。


「あなたにはやってもらいたいことがあります」


 法院長の口から語られる。それは、現状において確かにローザンヌ修道騎士会たるロザリロンドしかできないことだった。


 応接間に窓から朝日が差し込み、ふたつの人影が伸びる。


 威厳に満ちた老婆が告げた。


「先に話したとおり、此度の件は我々神天院も動きます。ロザリロンド、あなたは手はず通りレセナ・グランジャを回収した後、ストラストへ飛びなさい」


 ロザリロンドが、端正な顔立ちに映える眉をひそめる。菱形状の乱れ髪から伸びる、二房に束ねられた尾が僅かに揺れた。


「背景は分かりました。しかし、当のレセナ・グランジャは現在、国家保安院公安部および施術士特別査問法院に監視されています。下手に接触すれば気取られますが、いかが致しましょうか」


 神天院の長たる老婆フィアラルが即答する。


「公安は構いませんが、査問法院に気づかれる訳にはいきません。福音情報部は施術災害対策本部に置かれて動けませんから、神官護衛騎士会の協力要請および転移の許可を出します。陽動方法は任せます。転移についてはシャルルを使うと良いでしょう。それから“王立騎士団”への要請も行っています。最悪の場合は“あれ”の使用許可も出しましょう。全責任は私が負います」


 ロザリロンドがぎょっとしたように目を剥く。ロザリロンドは、アレラルが誇る最強の護衛集団ローザンヌ修道騎士会を束ねる会長だ。今年三十を迎える彼女は、年齢に見合わぬほどの戦歴を持つ歴戦の超高位施術士だ。フィアラルが告げた言葉の中身は、そのロザリロンドが己の感情を表に出さざるを得ないほど凶悪な毒薬だった。


「下手をすれば地図上から街がひとつ消えますよ? よろしいので?」


「使えるものは使う。それが私の主義です。あれほどのもの、埃を被らせておくほうが無駄でしょう?」


 ロザリロンドは答えず、無言を返す。フィアラルが続ける。


「安心なさい。二重の意味で、レセナ・グランジャを連れ出すのですから。あの子が王立研究所に入った理由が“それ”ですよ。だから私が目を瞑っています」


「ですが――」


 反論しようとしたロザリロンドをフィアラルが遮る。その仕草ひとつに、異論は一切挟ませない威圧があった。


「私には嫌いなものがふたつあります。ひとつは不相応な地位を得た無能者。もうひとつは有益な物を危険だとし無闇に鍵を掛けること。貴女の働き次第で、このふたつを解消できます。素敵だと思いませんか?」

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