才能と輝き

 普段よりも緊張して階段を昇ったからか、思ったよりも時間がかかってしまった。慌てて躓きそうになりながらもなんとか部屋の前にたどり着いた。部屋の中から聞こえてくるのは何十、何百回と聞いた一曲目だからどれくらいの時間で終わって、どれくらいの長さのインターバルが挟まるのかは私は自然とわかっていた。配慮なんて考えをしなくても、そのわずかな隙間だという風に認識して、部屋のドアをあけた。


「お待たせ、これ。買ってきてくれたケーキと紅茶」


「あ」


 ……


「何してんの?」


 綾香が返事をしなかったから、私はすぐポケットから携帯電話を取り出した。


「待って待って、違うよ。そういうことじゃない!」


「家主が不在の間に箪笥の、それも下着が入っている段を漁っておいて何が違う?」


 圧に負けたのか、海老原綾香容疑者はすぐさま縮こまりながら五体投地の姿勢になっていた。なんだかすごく胸がすっとする。


「でも、そういういかがわしい気持ちじゃなくて。ほら、お泊り会とかしたらこういうのって通過儀礼というかなんというか」


 お泊り会という言葉をすぐに飲み込めなかった私は負けた気がした。当然だけど、私はそう言う経験がないからわからない。お泊り会はしてみたいなら、こういうのは許容できるようになるべきではないのだろうか。


「そうなの?」


「まあ、その、お互いにお勧めしあったりとかかな?」


 なるほど、そうなのか。それは知らなかった。


「でも、勝手に触るのはやめてね」


「はい……すみませんでした」


 素直に綾香が謝ってきたので、許すことにした。ただ、要求はつける。


「ケーキを食べて用事が終わったらすぐに帰る。いいね?」


「はい……」


 綾香はすぐに正座をし、ケーキを食べ始めた。私もそれに続いてケーキを口に運ぶ。ケーキの甘さで先ほどまで強張らせていた頬が緩むのが自分でもわかった。しかし、すぐにそれを引き締めなおす。綾香が買ってきたケーキということもあって付け込まれかねない。数秒間、二人の間に沈黙が流れ音楽だけがこの部屋に存在している、綾香は平気そうだけど私はどんどん気まずくなるから先に話しかけた。


「それで、今日はどうしたの? わざわざこんな場所まで」


 私の家は学校から近いわけでもないし、それこそ買ってきてくれたケーキは都心部へ行かないと売っていない。ここまでくるのには一時間ほどかかる。


「いや、昨日の話だよ。バンドを組むでしょ? 名前決めたり、拠点決めたりとかいろいろしないと。あと、二人だとさすがに迫力もないしさ」


 なるほどそういうものなのか。私はこれまで、誰かとバンドを組むということを考えてこなかった。ピアノを弾くのは好きだし、ジャズは好きだけど自分が誰かと音楽を合わせて奏でるということは頭になかったのだ。それは、いつの間にか自然と抜け落ちていた。バンドの経験があって顔も広そうな綾香がいてくれるのは心強い。


「でも、名前を考えるのはいいけどメンバーを集めないとどうにもならないでしょ」


 それはその通りだ。何かあてでもあるのだろうか。


「メンバーって、そもそもジャズのバンドで少人数で組むってなるとどういう楽器がいるの? メロディーはどの楽器がするのかとか」


「まずはピアノ。これは私がやるから考えなくてもいい。あとはドラムかベースかあるいは両方。これでメロディーを支えるのが基本的なトリオの編成。ピアノとベースとドラムでも編成できるけど、これなら基本的にはピアノが目立つ」


 ピアノトリオは少し恥ずかしいからできるだけ避けたいけれども。それでも嬉しさはあった。自分がメインでいられることなんてこれまでの人生では無かった。自分からそれを壊して主役になろうと行動したこともなりから文句はないけれども、こういうチャンスも無かった。だとしても、伊藤莉愛トリオは誇らしい反面で恥ずかしい。


「なるほど、ベースとドラムの立ち位置はロックバンドとは変わらないのか。でも、管楽器が入っているのは?」


「管楽器だとほとんどその楽器がメインになる。サックスとかクラリネット、トロンボーンとかね。ちなみに綾香は何の楽器ができるの? とりあえずトリオならもう一人をその楽器ができる人で考えればいい」


 もともとのバンド『Rong boots』ではボーカルとベースだということは知っているけど、ジャズをやりたいということは何かしらそれに関係のある楽器に少しぐらいは触れた経験があるだろうと思って私は聞いた。そんな常識は衝動には通じない。


「え? あたし、歌うことしかできないよ?」


「はぁあああ?」


 綾香が部屋に来てからこれまで最大のボリュームの声が自然と生まれた。


 前半は驚きで、後半は溜息交じり。がくりと肩が落ちる。


「そんな風に落ち込まれたって、仕方ないじゃん。試しにギターとか触ってみたけどわかんないんだもん。もちろん、ドラムもできなかったよ。管楽器はさすがにわかんないけど、私は楽器だけは苦手なんだよねえ」


「でも、ベースは」


「あれ、ほとんど間に合わせなんだよ。歌がいいから置いてもらえていただけで、ベースは下手くそって何回も言われてた。センスはないみたい」


 へらへらと笑う綾香に呆れそうになる。けど、無理なら仕方ない。


「じゃあ、綾香はバンドを組んで何がしたいの?」


「ん? そりゃもちろんボーカルだよ。さっきみたいなジャズも好きだけどいろんな音楽と混ざったジャズも恰好よくて好きなんだよね」


「ボーカルかぁ」


 ジャズというのは様々なタイプがあって、もちろん歌がついているものもある。莉愛自身はどちらも大好きだからそれで構わないけれども、ジャズの歌い方は『Rong boots』の音楽とは違う。


 歌に対して詳しいわけじゃない私が全てを説明できるわけじゃないけれども、明確に素人でも聞いただけで理解できるくらいには違う。ポップスやロックの声は放つみたいだけど、ジャズは広がる。私はそう思っている。それが果たして、すぐにできるようになるのかというのは疑問だった。綾香の歌は上手いそれはわかる。


 スカウトされるくらいだからそれは他の人も評価するほどなんだけど歌い方の使い分けはほとんどのプロでも難しいだろう。ポップスで売れた有名な歌手が晩年にジャズの曲を出すのはあるけれども、どれも一時代を築いたクラスの歌手ばかりだから。


「ジャズの歌、なにか歌える?」


「なんだろう、『Fly Me To The Moon』とかなら覚えてるよ」


 『Fly Me To The Moon』はジャズの代表的な曲だ。落ち着いた曲調で、カバーされた数も多いからそれぞれに味があるぶんだけ、綾香自身の味も出しやすい。選曲をしてもらった立場としてはすごくちょうどいい曲だと思った。


「演奏は必要?」


「うん」


 私は綾香の返事を聞いて、当たり前にCDケースの中にあるそれを取り出した。くるくるとラジカセの中で回って音を奏でている。すぐに歌が始まった。綾香は慣れていないのか、曲の入りをミスして二小節目から合奏になった。


「いい」


 聞いてすぐに、私の口からそんな声が漏れた。綾香の声は確かにジャズの歌い方で演奏された歌だった。声が喉の奥から広がって滑らかに動いている。そのまま体全体を包んでくれるようで、綺麗で、暖かかった。


 まるであの頃を思い出すみたいだった。


「どうだった? 自信がないわけじゃないんだけど。それでも頑張ったんだけど」


 綾香が歌い終えて、すこし恥ずかしそうに聞いてくる。私はそれに対して窓の外に、綾香から顔を逸らしたかったわけじゃないけど窓の外から隣の青い屋根を見ながらぽつりとつぶやくように言った。


「良かった。わたし、綾香のために演奏したくなった」


 それは私の知る限りで最大の賛辞だった。むこうはプロ注目で、こっちは別に大したこともない。ピアノのコンクールで賞をとったようなわけでもないから本来なら私の方から頼み込んで一緒にやってもらう側だし、言葉尻だけを捉えれば失礼なのはわかっているけれども、この言葉しか思いつかなかった。


 誰かのために演奏するとかじゃなくて、ただ自分を守るために自分の思い出に浸るためだけの演奏だった。お父さんもお母さんも音楽を続けてくれたと嬉しそうだったけれど、その笑顔を見るのは良かったけど。


 それは本質じゃなかった。


 伊藤莉愛という人間の本質は、小学生の頃の悲しみに取り残されていた。


「そっか。なんだか照れるね。普段は褒めてくれなさそうなのに。莉愛ってツンデレちゃん?」


「ツンデレ?」


「普段は冷たい態度を取っちゃうけど、本当は私のことが大好きで~みたいな?」


「は、はぁああ? 調子乗らないで!」


「あはは、照れてるの可愛い。ほらほら、こっちおいで~」


 久しぶりに騒がしいこの部屋。その奥に残るのは、わずかな哀愁だった。


※※※


「ん? この歌って」


 同時刻、別の場所。いや、別の場所と言っても音の届く範囲。リュックの中にドラムスティックを携えた少女が、今日も同じ場所へと仕事に向かう。仕事道具はドラムスティックで指定された楽譜に合わせてドラムを叩くだけ。つまらない仕事だった。興味のない音楽に引っ張られないようにするのは簡単だから達成感もない。ただひたすらにお小遣いを稼ぐためにサポートをしてる。


「ああ、そうか。やっぱりいい曲だな」


 そんな彼女だから、久しぶりに聞いた好きな音楽を思い出すのに時間がかかってしまった。不器用な自分の耳に対して少しばかりの悲しさを感じながら、スティック状のチョコレートを一かじりしてから笑う。


「そうか、ここの女の子も一緒にジャズを教えてもらってたっけな。懐かしいな」

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