第38話 おじ戦士、ツケが回る

 この宿屋に帰ってきたのはいつぶりだったか、ラルフはすぐには思い出せなかった。かつて毎日のように出入りしていたはずの建物なのに、今では妙に感慨深い思いすら感じてしまう。

 吸血鬼退治を終えて街に戻ったのは半月ほど前になる。

 あの日以来、ラルフはずっとヘレンの家で同居生活を送っているため、この宿に戻る理由は特に無くなっていた。

 宿を空けていた期間は、実日数にしたらそう長くはない。冒険でもっと長期に渡って街を離れることなど、これまでに何度もあった。だが、今のラルフにとっては、これまで以上にこの宿が遠い場所に感じられた。


「……結構、年季が入った建物だったんだな」


 自分が暮らしていた宿屋を改めて外から眺め、ラルフはポツリと呟いた。

 今まであまり気にしたことはなかったが、よく見れば壁などはそれなりに濃い汚れが目立つ。暮らしている間は特にそれが気にならなかったのは、それだけ店内の手入れが行き届いていた証拠だろう。

 掃除はこまめにされていたし、女将が作る飯もそれなりに美味かった。

 改めて、良い宿だったと思う。

 とはいえ、この先ほとんど使わない部屋に対して宿代を支払い続けるのも無駄である。よく行く冒険者の酒場から程近いため、拠点としては便利な立地なのだが、部屋を維持する理由がそれだけではさすがに弱い。

 だから思い切って、今日中に部屋を引き払ってしまうことに決めた。

 今日は大きな予定は入れてない。私物と呼べるものは、剣や鎧の他には冒険道具一式くらいしか持っていないため、引っ越し作業は半日もあれば終わるだろう。


「気が変わらぬうちに終わらせるとするか」


 心機一転する気持ちで、ラルフはかつての寝床を訪れようとしていた――が、宿の入り口側に回ったところで、その顔に怪訝そうな色を浮かべた。

 宿屋の前に、一頭の葦毛の馬が待機していたからだ。

 馬上には高貴な服装をした男性が跨っており、ちょうど従者の助けを借りて馬から下りようとしているところだった。

 わざわざ従者を伴って馬でやって来ているということは、王都に常駐している騎士ではないはずだ。後ろ姿なので顔は確認できないが、おそらくは地方から王都に来た貴族か何かだろう。それがこの平民向けの宿に何の用があるのだろうか。

 ラルフはそんな考えを巡らしながらも、気にせず宿屋に入ろうと歩みを進めた。馬の横を通り過ぎる際に、顔くらいは拝んでやろうかと何とはなしに視線を向けたところ――馬から下りた男性と、ばったり目が合った。


「――ラルフ!? 貴様ッ!」

「なんだ兄貴か、何の用だ?」


 顔を合わせた瞬間、互いが互いの存在にすぐに気づいた。

 もう何年も会っていなかったが、一目見ただけで誰だか分かった。

 自分とよく似た顔に、同じ色の髪、貯えられた髭の色も同じ、より深く刻まれた顔の皴だけが年齢差を物語っている。

 ラルフにとっての実の兄、ミハエル・オブライトだ。

 ミハエルはラルフの姿を見た途端、馬の手綱を従者に投げつけるように預けると、足早に弟のもとへと駆け寄った。


「何の用だ、ではない! 今日でもう三度目だぞ! 待てど暮らせど、お前が一向に戻らぬのでこちらから赴いてみれば、今度はいつ来ても宿にいないとは……一体どういう了見だ!?」

「あー、そういうことか……悪かった、俺が悪かったから少し落ち着いてくれ」


 噛みつかんばかりに顔を近づけてくる兄を、ラルフは両手で押しとどめた。

 冒険者をしている自分が宿にいないことなどしょっちゅうなので、こういう文句を言われても正直困るのだが、とにかく今は興奮を静めてもらうために素直に謝っておくことにした。


「何か用があって来たんだろ? 人に聞かれたくない話なら、ひとまず場所を変えよう。俺の部屋に行かないか?」

「……よかろう、ここでは確かに落ちつかぬな」


 少し冷静さを取り戻したミハエルは、周囲に視線を巡らせると、バツが悪そうに顔をしかめて頷いた。往来の真ん中で半ば喧嘩腰に大声で怒鳴ったため、他の通行人たちから一斉に注目を浴びてしまったのだ。

 ラルフは兄を伴って宿に入ると、二階にある自分の部屋へと向かった。

 久しぶりの自室に入ると、しばらく留守にしていたため部屋の中は少しだけ埃っぽかった。ラルフはまず窓を開けて、外の空気を室内に取り入れた。

 その間、兄のミハエルは部屋の中に置かれている剣や鎧や冒険道具など、弟が使っていると思わしき品々に目を向け、しげしげと眺めていた。


「……本当にこのようなところで一人暮らしているのだな」

「まあな、住めば都――実際、ここは王都だしな。はっきり言って、田舎にいた頃よりずっと快適な暮らしができているよ」


 多分に皮肉を含んだその言葉に、田舎領主であるミハエルは憮然とした表情を浮かべた。

 ラルフは素知らぬ顔で、部屋に一つしかない椅子を兄へと差し出し、自分は寝台の端に腰を下ろした。


「それで、実際のところ何の用で来たんだ、兄貴?」

「その前にこちらが聞きたい。お前はなぜ帰ってこなかった? 書簡を送ったのだが、届かなかったか?」

「書簡?」


 何のことだろうかと、ラルフは首を傾げる。

 特に思い当たる節は――あった。


「これのことか?」


 テーブルの上に乱雑に積まれていた物の中から、すっかり忘れていた封筒を引っ張り出して見せた。


「貴様……封も切っておらぬではないか!」

「すまん、このところ忙しくて見ている余裕がなかった」


 額に青筋を浮かべて怒りを露わにするミハエルに対し、ラルフは表情を変えずに淡々と頭を下げた。

 ミハエルは苦虫を噛み潰したような顔で弟を見ていたが、やがて諦めたかのように大きな溜め息を吐いた。


「もうよい……その書簡の中身は、お前への帰還命令だ。お前には今すぐ領地に戻ってもらいたい」

「断る」


 ラルフは下げていた頭を上げると、間髪入れずに拒否した。その表情には先ほどと変わらず何の感情も見えない。

 領地の話題を出した途端、あまりにもはっきりと拒絶の意思を示され、ミハエルは思わずたじろいだ。ラルフは畳み掛けるようにもう一度同じ言葉を重ねた。


「断る、そういう話なら時間の無駄だから帰ってくれ」

「……せっかく身内がこうして遠路はるばる訪ねてきたのだぞ。せめて話くらいは最後まで聞こうと思わぬか。断るのはそれからでも遅くないだろう?」


 そう言ってみたものの、ミハエルはこの段階でもう半ば説得を諦めかけていた。今からする話を聞いたところで、おそらく弟が心変わりすることはないだろうと。

 ミハエルは今度は小さく溜め息を吐くと、弟にオブライト領の近況について説明しはじめた。

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