第32話 おじ戦士のエピローグ

 目が覚めた時、薄汚れた白い布地がまず目に入った。

 それが野営のために陣に張られた天幕であることに気づくのに、しばらく時間がかかった。

 背中に当たる感触は柔らかく、ほのかに甘い干し草の匂いが鼻をつく。どうやら自分は、干し草が敷き詰められた簡素な寝台の上に寝かされているようだ。


「気がつきましたか?」


 ぼんやりとした思考をはっきりとさせる、優しい声が聞こえてきた。

 一緒にいた間は、その声を聞いているだけで不思議と気持ちが落ち着いた。俺の好きな声だ。


「セーラ……」


 声がするほうに首を向けると、いるはずのない彼女の姿がそこにあった。

 セーラは俺が横になっている寝台の脇で、木箱のような簡素な椅子に腰をかけている。


「……どうしてここに?」

「ラルフさんにも、分からないことがあるのですね」


 いつものように優しげな笑みを浮かべながら、セーラは穏やかな声で言った。


「祝福の儀式を行った僧侶には、その加護を得た相手がどこにいるかまで、常に視えているのですよ」


 それは確かに初耳だった。

 僧侶ではない俺には、祝福の儀式はかけられたことしかないため、かけた側にそんな力が働いているとは知らなかった。

 その力を頼りに、セーラは俺の後を追ってきたというわけか。途中から周辺警備隊に迫ってきた不審な気配の正体は、どうやら彼女だったようだ。

 ただ、それは俺が聞きたかったことではない。


「それは、君が今ここにいる理由にはならないだろう?」


 俺の居場所が分かることと、セーラが俺を追いかけてきたことは別の話だ。


「あなたを救うために来ました」


 セーラの顔から、微笑みが消えた。代わりに僧侶にふさわしい威厳に満ちた表情となった。


「私が毒の治癒をしなければ、あなたはここで亡くなっていたはずです」


 俺の体に降りかかっていたあの奇妙な症状は、やはり毒の類だったのか。

 毒といっても色々ある。それに応じた適切な解毒を行わなければ、体を蝕む毒素が消えることはない。

 ただし、僧侶の回復魔法だけは話が別だ。

 毒の種類を問わず、あらゆる毒を即座に治癒することができる。解毒というより、魔法で毒そのものを浄化しているのだろう。


「……セーラが俺を助けてくれたんだな」

「はい、ラルフさんの体を蝕んでいた毒は消え去りました。もう何も心配することはありません」

「それについては感謝する。しかし、一体どうしてそんなことを――」

「自分の心に従った結果です」


 俺の問いかけに被せるように、セーラは強い口調で言い切った。

 普段から温和な態度を崩さない彼女からはあまり見ることがない、自信に満ちた力強い返事だった。


「ラルフさんに言われたように自分に素直になることにしたのです。そうしたら、あなたを助けたい、あなたの命を守りたいという気持ちだけが、はっきりと心に生まれてきました。その結果、私は今ここにいます――私、もう我慢はしません」


 そう言うと、セーラは俺の首に両手を回して抱きついてきた。

 俺は全く身動きが取れないわけではなかったが、まだ手足が鉛のように重く、とても自由には動けそうにない状態だった。

 それでも、抱きつくセーラを声で制することくらいはできたはずだ。

 その時の俺には、なぜかそれができなかった。このセーラの素直な心に、もっと触れていたいと思ってしまった。その気持ちに抗うことができず、ただ為されるがままになっていた。

 間が悪いことに、まさにその瞬間にアルベルトがこの天幕に入ってきた。


「――っと、すまない、お邪魔だったかな?」

「待て、せめてその後の状況くらいは伝えていけ」


 気を利かせてすぐに天幕から出ていこうとするアルベルトに対して、俺は状況報告をするように促した。

 その間も、セーラは俺に抱きついたまま離れようとしなかった。こんなに強引な娘だったか……?


「あの戦いからすでに半日経った、今はもう真夜中だ。部下の兵士たちがお前を陣まで連れ帰った後、そちらの――旅の僧侶殿がやってきてお前を癒してくれたと聞かされたときは、私も胸を撫で下ろしたよ」


 アルベルトは軽く咳ばらいをしつつ、俺に抱きついたままのセーラに気を遣いながらも、あの戦いの後に起きたことを説明してくれた。


「ラルフ、お前は体が回復次第、王都へ帰還してくれて構わない。この作戦のその後については、お前が気にかける必要はない。後のことは万事、私に任せておけ」


 ではごゆっくりと、最後にいらん一言を付け加えてからアルベルトは天幕から出て行った。

 天幕の中は、再び俺とセーラの二人だけとなった。


「……セーラ、このままでいいから話を聞いてくれるか? 沢山、話したいことがあるんだ」


 すべてを伝えなければならない。

 俺がこの三十年間、戦士としてどんな生き方をしてきたのかを。

 あの日、セーラと別れてから、礼拝堂で再開するまでの間に何があったのかを。

 俺には今、愛する女性がいるということを。


「聞かせてください」


 セーラはいつもの穏やかな声で、小さくそう呟いた。


 ※ ※ ※


 一日休んだら、俺の体は元通りに回復した。

 アルベルトに言われたように、ここにいても俺にはもうすることがないため、回復したその日のうちにセーラとともに王都への帰路についた。

 そのわずかな旅の間にも、セーラとは色々なことを話した。

 彼女と過ごしたその時間は、俺がずっと求めていたものを再び与えてくれた。

 もう二度と会うことができない、かつての冒険者仲間たちと、もう一度旅をすることができたかのような感覚だった。

 セーラという存在は、もはや俺が導くべき対象ではなくなっていた。

 この先を俺と共に歩んでくれる、かけがえのない仲間となったのだ。


「それでは、ヘレン様によろしくお伝えください」


 南門から王都に入ったところで、セーラはそう言いながら静かに頭を下げた。


「伝えはするが、彼女がうんと言うかは分からないぞ?」

「構いません。あなたに想い人がいるのであれば、私もその方に対して誠意で向き合うまでです」


 セーラは毅然とした表情で、俺の目をしっかりと見つめてきた。

 強すぎる。

 これが本当にセーラの素の姿なのだろうか?

 彼女が自分を見せてくれるようになったこと自体は喜ばしいことなのだが、なんか俺のせいで変な方向に成長してしまったのではないかと、今更ながら不安になってしまう。


「分かった、しかし今の仲間たちのことも忘れないようにな。今は彼らこそ、君のことを必要としている」

「承知しております。私は冒険者の僧侶ですから」


 セーラはそう言いながら微笑むと、もう一度頭を下げてから、僧院がある方向へと去っていった。

 それを見送った後、俺も街のほうへと歩きだした。


 もう数え切れないほど歩き、毎日のように見てきた街並みだ。

 ただその街並みは、一度として同じときは無かった。

 毎日、ほんの少しずつだが変化しているのだ。

 その中で、俺は生き続けてきた。

 誰かの中で、生かされ続けてきた。

 これから先もそれが変わることはないのだろう。


 歩き続けると、自分が寝床にしている宿屋の前に辿り着いた。

 少し前までなら、ここが俺の道の終点だ。

 しかし、今はもう少し先まで道が続いている。

 そのまま宿屋を素通りして、その先にある閑静な住宅街のほうへと向かった。

 最近になって、よく訪れるようになった家の前までやってきた。

 今の俺が、帰りたいと思うことができる場所だ。

 そして、会いたいと思える人がいる場所だ。

 家の玄関に近づくと、俺が来るのを待っていたかのように扉が開いた。

 彼女は俺の姿を見ると、最近よく見せてくれるようになった微笑みを浮かべて、静かに言った。


「おかえりなさい、ラルフ」


 その言葉に、俺も自然と微笑みで返せるようになっていた。

 その言葉を聞くために、今日を生きたいと思えるようになった。

 良いものだな。

 帰る場所があるというのは。

 ただいま、ヘレン。

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