第504話 勝利の代償
バラギウムという男は人間としての死に際で幸運を得た。
神奥域の第二回廊に存在する腐原領域は、第三回廊と繋がる特別な領域であった。ただし毒の滝を降ることによって第三回廊へ到達するという性質上、無事ではいられない。だがバラギウムと彼に従う男たちは死ななかった。落ちた先に七仙業魔の一角、睡蓮魔仙バステレトがいたのだ。
「我こそが真の王! 真なるサンドラ人の王者だ! 我は紛い物の繁栄を許さぬ。滅びよルキウムの末裔! 滅せよ穢れに従う者ども!」
魔石に致命的な傷を付けられ、僅かな命となったバラギウムは残る力の全てを使って
このまま暴走が続けば、
無制限に膨張し、暴れる
「我は呪うぞ! 紛い物のサンドラに滅びあれ!」
「お前が滅びろ」
後ろから聞こえた囁きと同時に、バラギウムは身体のあらゆる感覚を失う。そして視界が激しく回転し、いつの間にか地面に倒れていた。
(違う。首から下が……吹き飛ばされた?)
ありとあらゆる力が消失していくのを感じるバラギウム。
同化も解けてしまい、全てを理解する頃には彼の魂は解放されていた。魔物と交じり合い、憎悪と誇りだけで生きてきたバラギウムという人物は終末を迎えた。
もはや抜け殻となった首を掴み、持ち上げる人物。それは下層から戻ってきたシュウであった。
「これで
劫火すら霞む復讐心も、山より高い誇りも、冥界の王を前にすれば小さなことでしかない。
哀れにも『予定のため』という理由でバラギウムは最期の足掻きすら砕かれたのだった。
◆◆◆
あれほど激しく、絶望を何度も感じた戦いも終わりはあっけない。魔族と吸血種は互いに潰し合い、大きな被害を出していた。当たり前だが旧サンドラ領域に住んでいた人間は全滅である。魔族に殺され、あるいは瘴血の霧で中毒死した。それらは吸血種たちの糧となり、その耐えがたい吸血衝動を癒すことになった。
「正直、助かったよ。僕では手に負えなかった」
「一番強そうだったから勝手にバラギウムだと思ったが、合っていたようで何よりだ。この首は
「それも
「いいのか?」
「サンドラには強くなってもらいたいからね。それに使いこなせるかどうかはまだ分からないよ。かなり強力で負荷の大きい
「なるほど。どうせ使いこなせないから、ということか」
ある意味、
「それで、ハーケスは?」
『黒猫』は何も言わず首を横に振る。
そして指をさした方向に目を向けると、すっかり朽ちた人型の何かがあった。もはや原形を留めていないそれこそ、ハーケスの遺体である。
「あれは?」
「
「限界を超えて魔力を使ったか。それで自分自身を赫魔細胞に喰わせてしまったと」
生き残った
そして
これからを生き抜くための価値を手に入れた。
「予定通りサンドラに取り入るのか?」
「そうするしかないと僕は思っているよ。そもそも
「まぁな。より正確には動物の血肉でも構わないが、その性質を取り込んでしまうのが問題だ。獣の血を吸えば、
「結局は同じ事だよ」
「どういうことだ『黒猫』! こんなに仲間たちが死ぬなんて聞いていない! それにハーケスも! お前のせいで!」
「やめろジョリーン」
「お前もだバラギス! どうしてアンタがいながらハーケスが死ななきゃならなかったんだ!」
「……すまない。どんな言葉も受け入れる覚悟だ」
バラギスは素直に謝るが、それで止まるような感情ではない。怒り、悲しみ、失望が交じり合った複雑な思いだ。
そんなジョリーンの姿を見た他の者たちも、堰を切ったように感情を吐露する。『黒猫』を責めるような言葉であったり、仲間を失った嘆きであったり、自分自身への絶望であったりと様々だ。
彼ら
この戦いに臨んだのは仲間のため。
ハーケスを信じていたからこそ命を懸けた。
その結果ハーケスは死に、他の多くの仲間も死んだ。
得たものに対して失ったものが多すぎる。納得できない感情はシュウにも『黒猫』にも理解はできた。
「『
「恨むに決まっている。こんな結末を望んじゃいなかった!」
「だったらこの勝利は無価値だとでもいうのかい?」
「違う! だが……こんなの……こんなことなら……」
言いようのない感情を表現する言葉がなかったのか、ジョリーンは奇声を上げながら『黒猫』に掴みかかろうとした。ただ、それをシュウが防いで魔術で弾き飛ばす。
それに対して他の吸血種たちは身構えたが、シュウは強い魔力を放出することで黙らせた。
魔族など取るにならないとすら感じてしまう深く強い魔力だ。それは
「ノスフェラトゥ」
「はい」
そんな中、呼びかけに応じてノスフェラトゥだけが動いた。彼女は重圧などまるで感じていない様子でシュウの近くに移動する。
「お前は
「はい。皆さんのお蔭です」
「どうしてそう思う?」
「ハーケス様たちは私に力を使うべき時を教えてくれました。私が力を使う理由をくれました。誰かのために力を使うということは私にとって特別なことのように思えます」
「そうか。人格を取り戻した……いや、再形成されたか」
どんな会話をしても無機質だったノスフェラトゥに感情の片鱗が見えた気がした。《
複雑な感情の形成に従い、欲が生まれる。
そして欲は力の解放の鍵となった。ノスフェラトゥが本来持っていた始祖吸血種としての能力は、今や万全に近い。更にはセフィロトやクリフォトと繋がり、精霊秘術を操ることができるまでになっている。シュウの理想通りに仕上がったと言っても過言ではない。
「いいだろう。ノスフェラトゥを『死神』の後継に指定する。受け取れ」
リーダーたる『黒猫』の前で行われた
それにより幹部『死神』の座は冥王アークライトから始祖吸血種ノスフェラトゥへと引き継がれた。この場に見合わない儀式を見せられたようで、
「それからこれもやる」
「これは?」
「記憶の石だ。その中に消失したお前の記憶が眠っている」
「ッ!」
ノスフェラトゥが受け取ったのは真っ黒な石だった。ただの石ではない。触れていると無数の手が蠢いているような幻視すらしてしまう。ヘルヘイム
「ほとんどがお前以外の記憶だ。正しいお前自身を取り戻すのには時間がかかるだろう。俺は面倒になって諦めたが、興味があればやればいい。それともう一つ、お前に渡しておくものがある」
「私に、そんなに……?」
「これが本命だ。《冥界の加護》を与える」
シュウは手元に黒い術式を浮かべた。
かなり圧縮された立体の術式で、それはノスフェラトゥの胸に吸い込まれていく。とはいえ、それで見た目が変わるようなことはなかった。
何が変化したのか、ノスフェラトゥは確かめる。目の見えない彼女にとって、魔力感覚こそが頼りである。それによると、自分のものではない魔力で守られている感覚があった。更には今まで見えなかったものまで見える。
「これは……」
「死の世界の守りと、それを見る力だ。死んだ者の魂は煉獄に留まり、時を経て冥界へ連れ去られ、そこで浄化される。つまり魂が煉獄に留まっている内は生き返らせることが可能ということだ」
ノスフェラトゥは話の大部分を理解できなかったが、重要な部分だけは分かった。
すぐに彼女は煉獄を見て、手を伸ばす。《冥界の加護》そのものが鍵として機能し、冥界門を守る
何をするべきか、ノスフェラトゥには分かる。
ハーケスの遺体へと駆け寄り、そこでセフィロト術式を発動させた。セフィロトの経路に魔力を捧げ、《
「ノスフェラトゥ……まさかできるというのか」
「はい。ハーケス様を生き返らせます」
「まさかそんな……そんなことが可能だというのか」
《
元半魔族の
「ハーケス様を、他の同胞たちを生き返らせます」
血を分けた家族が蘇るのであれば、ノスフェラトゥにとって大きな喜びとなる。大きな魔力を消費して――ノスフェラトゥにとっては微々たるものだが――綺麗になったハーケスの遺体に魂を注ぎ込んだ。
シュウ以外の者からすれば、ただノスフェラトゥがハーケスに触れているだけにしか見えなかったことだろう。しかし如実に変化が現れた。
万全な肉体はまず鼓動を取り戻す。次に呼吸を取り戻し、全身に酸素を行き渡らせる。徐々に身体は熱を取り戻し、死体は逆行を開始した。
「俺は……なんで……」
そしてハーケスが目を開き、言葉を発したことで皆が歓声を上げる。
死からの帰還は衝撃的なこと。それと同時に本当の勝利である。
「ハーケス! 良かった。まさかこんな奇跡が起こるとは」
「お前が死んでいたら俺たちどうすればいいのか分からなかったんだからな!」
「ありがとうハーケス。バラギウムを倒してくれて!」
「生き返ってくれてありがとう!」
何が何だか分からない様子のハーケスは、ようやく状況を呑み込み始める。というより、何があったのか思い出した。
「そう、か。俺の攻撃は届いていたのか」
「ああ。お前の一撃が決め手になった。どうにか奴の最期の足搔きを耐え抜いて、ようやく勝利だ。俺たちは奴らの支配から本当の意味で解放された。これでガルミーゼやアラージュも浮かばれる。しかし、まさかお前の願った通りになるとはな。この犠牲も仕方のないものと思っていたが……ノスフェラトゥがお前を生き返らせてくれた」
「生き返っ……だったら他の仲間は!? ガルミーゼとアラージュも生き返るのか? どうなんだバラギス!?」
「それは……」
バラギスがノスフェラトゥに目を向けると、視線を感じたらしい彼女は少しだけ虚空へ目を向けた。それから首を横に振る。
「この戦いで死んだ仲間は生き返らせることもできるはずです。遺体さえあれば。ですがガルミーゼ様とアラージュ様はできません。もう魂があちらの世界に行ってしまいましたから」
「そう、か……そこまで都合良くはいかないか」
だが話を聞いた
せめて一人も取りこぼさないよう、遺体の回収に走り始める。
「急げ! できる限り仲間を集めろ!」
「街の方は燃えているから優先するぞ」
「分かった。家族が助かるなら全力で集める!」
完全に肉体が消失していたり、食われていたり、石化させられた仲間などは助けることができなかった。しかしそれでも可能な限りノスフェラトゥは蘇生の儀式を行い、復活させていく。
その様子を眺める『黒猫』はシュウに語り掛けた。
「良かったのかい? 魂を回収できないわけだけど」
「ノスフェラトゥに『死神』は渡したが、そのまま配下にする。あれはあれで可哀そうな奴だ。これから先の世で生きるのはきついだろう」
「……もしかして、本当は彼女の記憶を探し当てたのかい?」
「さてな。それにノスフェラトゥは使える奴だ。東側の計画の要になる」
「ま、そうだね。これでようやく始まる。東方の統一国家を作るよ」
安定している西側に対し、東側は戦乱の機運が高まっている。
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