第489話 吸血種化


 ひと際強い炎が立ち昇った。

 ハーケスの瀑災渦アシュタロトが渦の防壁を作っていたはずの場所で、非常に目立つ紅蓮が生じたのだ。バラギスと戦闘中のノスフェラトゥも当然ながらそれに気づき、感知を集中する。



(生きてはいます。二人だけ)



 ノスフェラトゥの高精度な感知は、生命の一つが尽きたことを理解させた。すぐに爆炎を撒き散らす銀の鞭が空間を裂き、ノスフェラトゥは感知を止めて回避した。身体を焼く炎は霧化や蝙蝠化によって無効化できる。また肉体変化の速度も戦い始めと比較して随分上がった。

 だからこうして回避の直後に血の槍を生み出し、バラギスに放つこともできる。



「これも対応するか。段々と戦いが上手くなっているな」



 血の槍はバラギスも簡単に防げる。

 彼の能力は水銀を操るというもの。自在に形を変化させ、槍にも盾にもする。血の槍は銀色の盾が受け止めたのだ。



「それにこの赤い槍……加護を薄めるのか?」



 水銀の盾にも火の加護は宿っている。

 もしも攻撃を盾で防げば、反射の爆発によって敵を打ち砕くのだ。だから血の槍は盾で受けられた瞬間、爆発四散するはずだった。だがその想定に反して血の槍は水銀の盾を抉り、火の加護すらも無効化してしまう。

 まさかノスフェラトゥの血が魔力阻害の毒であるとは思いもしない。

 バラギスは魔力を追加して水銀を強化する。ノスフェラトゥの力は時間と共に強くなっている。まるで戦い方を思い出しているかのように効率化され、次の瞬間には先程の彼女を越えている。



「助けなければ。私の役目を果たします」



 霧が一層濃くなる。

 赤い霧はサンドラに宿る火の加護を打ち消し始め、周囲の熱は冷め始めた。ノスフェラトゥの能力によって無限炉プロメテウスの炎は掻き消されていく。バラギスは危機感から攻撃を停止して、火主カノヌシを守るために水銀の防壁を張り巡らせた。

 そしてそれは正しかった。

 ノスフェラトゥより生まれた血の霧は、その一滴に至るまで彼女の一部。血肉を啜る始祖吸血種の一部なのだ。霧に触れた兵士は火の加護を打ち消され、途端に干からびていく。骨と皮だけを残し、血の一滴に至るまで吸い尽くされていく。



「なんだと? 何が起こっているというのだ?」

火主カノヌシよ。決して動かないでください。外は死の世界です。火は掻き消され、赤い呪いが命を喰らっている。あなたの炎すら呑み干している」

「無礼なァ……! 我の火を呑むだと!?」



 火主カノヌシの動揺は相当なものだった。

 実際に彼にも感じ取ることができた。火の加護が次々と失われ、兵士の命が尽きた時に現れるはずの火滅兵すら生成されない。

 魔力ごと血肉を喰らい尽くす呪いの霧。

 つまり瘴血の霧。

 それがノスフェラトゥという化け物が、ほんの少しだけ本気を出した姿。



(早く、行かなければ)



 食欲が満たされる。

 血への渇望が満たされる。

 砕けていく理性を繋ぎとめるのは己の使命。ハーケスたちと交わした約束を思い起こし、それを実行するため駆け付けた。

 充分に血液を喰らったノスフェラトゥはより力を増している。

 広域かつ高密度に散布した瘴血の霧はサンドラを覆い始め、炎を打ち消しつつある。ノスフェラトゥはハーケスたちが倒れる広場で凝集し、姿を見せた。



「これは……どうすれば」



 彼女が発見したのは火傷を負って倒れる四人だ。

 生命感知をした限り、生きているのはハーケス、『灰鼠』の二人だけ。『灰鼠』を庇ったらしい『赤兎』とアラージュは完全に生命を失っていた。またハーケスと『灰鼠』も全身の火傷が酷く、その命は尽きかけている。

 一番マシなハーケスも動ける状態ではないらしく、ただ呻くだけだった。

 ノスフェラトゥは瘴血の霧を遠ざけ、安全な領域を作り出してから彼らを診る。医術の心得などないノスフェラトゥでは、どう対応して良いのか分からない。ただ、少しずつ零れ落ちていく生命力を眺めていくことしかできない。



――■■■■■



 不意にノスフェラトゥは手を伸ばした。

 瀕死の『灰鼠』に触れ、それによってビクリと反応した。だがノスフェラトゥは無意識のままに指先を突き立てようと力を込める。



――血■■え■



 だがそこでノスフェラトゥは留まった。

 自分が無意識のうちに何をしようとしていたのか気付いたのだ。



(今、私は……)



 頭の奥に痛みが走り、胸の奥が熱くなる。

 吸血種ノスフェラトゥの力を取り戻すことで痛みは消えていったはずだ。これは彼女にとって久しく感じる鋭い痛み。また血流が熱として感じ取られるようだった。



――血を■えよ



 よりはっきりと聞こえた。

 それに応じてノスフェラトゥの意思に反し、『灰鼠』に触れた手へと力が込められていく。



――血を与えよ



 頭の中で響く声の通り、ノスフェラトゥは『灰鼠』の身体に食い込ませた指先から始祖の瘴血を流し込んだ。あらゆる生物を喰らう呪われた血は、本来であれば毒性によって細胞を崩壊させる。だが今回は少しだけ性質が異なっていた。

 瀕死の『灰鼠』に流れ込んだ血液は、彼女の細胞に寄生して作り替えていく。半魔族ということで人間よりは適性があったらしい。始祖の血液は『灰鼠ジョリーン』という個体を半魔族から吸血種ノスフェラトゥに変貌させてしまった。



――血を与えよ。


―――血を啜り、分け与えよ。


―血の眷属を地に満ちさせよ。



 吸血種ノスフェラトゥの力は呪いだ。

 肉体の崩壊という代償により魔力を生成する呪いである。自己崩壊で魔力を生み出し、その魔力で自らを再構築する。そして生じるロスを補うために他者の血肉を摂取する必要がある。

 自滅する運命にある赫魔の細胞が、特異な魔装を有する少女と融合したことで一つの完成形を手に入れたと言ってもいい。だがその代償というべきか、赫魔の本能だけは打ち消すことができなかった。

 ノスフェラトゥの背中が僅かに光る。

 それはシュウによって施された精霊秘術の封印だ。付与された《聖印セフィラ》は合計で十個。その内の一つが、衣服すら透かして点滅する。



「私の血と能力を分け与え、再生させる。これで助かるはずです」



 自らを増やすこと。

 それは赫魔の大元になった粘体系魔物、赫蝕喰バイオブレイクの性質である。人間にとっての三大欲求と同様に、赫蝕喰バイオブレイクにとっては欠かせない本能の一つだ。

 本来であれば血肉を欲する本能と共に封じ込められていたはずだが、ノスフェラトゥの願いに呼応する形で呼び起こされた。



「どうか助かってください」



 ノスフェラトゥの口から自然と出てきた願望。

 それは偶然にも吸血種ノスフェラトゥの原点たる存在がもたらした本能と手段に合致していた。細胞を分け与えることで侵食し、吸血種ノスフェラトゥの性質に置換する。

 変化はすぐに起こった。

 吸血種化した『灰鼠』はその身の火傷を自己捕食し、魔力へと変換する。そして生じた膨大な魔力によって自らのを再構成した。



「うっ……あ、喉が……」

「気が付きましたか」

「渇く」

「『灰鼠』さん、私はハーケスさんを新生なおします」



 まるでノスフェラトゥの言葉が耳に入っていないらしく、吸血種ノスフェラトゥとして生まれ変わった『灰鼠』は血を求める。彼女にとってそれは生存本能。溺れる者は藁をもつかむ、という状況に等しい。大規模な再生を行った彼女は自己崩壊させた細胞を補うため、血を求めた。

 『灰鼠』が這いながら近くの血肉――すなわち火に焼かれて死に絶えた『赤兎』とアラージュに近づいていく間、ノスフェラトゥはまだ傷の浅いハーケスに近寄った。



「お、お……えは……い、っぁい」

「私があなたを私に加えます。そうすれば助けることができます」



 ハーケスは火滅兵の自爆を最も近くで受けたにもかかわらず、その神器ルシス故に傷が浅かった。瀑災渦アシュタロトのお蔭で、彼はまだ意識を保っている。だから『灰鼠』が吸血種化によって再生する様子も朧気ながら見えていた。

 先程と同じようにノスフェラトゥの指がハーケスの身体に突き刺さる。もはやその程度の痛みが追加されたくらいで呻くことはない。視線は這いずる『灰鼠』に固定されていた。



「ぃぃん……ぁい、を」



 ろれつの回らぬ口で、蚊の鳴くような声で仲間に呼びかける。だが『灰鼠』は一瞥をくれることもなく、最も近くにあった半魔族アラージュの遺体に近づいた。そして首元に顔を近づけ、歯を突き立てる。焼け焦げた表皮を口千切り、まだ暖かい、溢れる血を飲み始めた。

 その様子はハーケスからもぼんやり見えていた。

 初めは理解の及ばなかったその光景も、点と点が結び付くように彼の理解へと落としこまれる。



(俺も仲間を喰らう怪物にされる!?)



 真実に到達したハーケスは身じろぐことで抵抗しようとした。

 だがそれは既に遅く、彼は吸血種ノスフェラトゥに作り替えられる。火傷でボロボロになった肉体が再生し、彼は動けるほどになった。それと同時に抗いがたい渇きに襲われ、思考がそれ一色に染まっていく。初めは理性が抗おうとしていたが、秒という単位で五つほど数えた頃には消えていた。

 もはや血への渇きを癒すことしか考えにない。

 夢遊病患者のように、無意識によって体が動かされハーケスはもう一つの遺体である『赤兎』に近づいていった。



「これでよろしいでしょうか?」



 ノスフェラトゥはそのように問いかける。

 赤い霧は未だ深く、サンドラを守護する火は届かぬまま。



「これでよかったのでしょうか?」



 最適な解を選択したはずなのにノスフェラトゥは不安がっていた。







 ◆◆◆







「ん、一瞬繋がりかけたと思ったけど……」



 スラダ大陸の南西端海上。

 迷いの霧に包まれた神秘の島で、女神と崇め奉られる少女は呟いた。プラハ帝国においては豊穣の女神として信仰されるセフィラである。樹界魔法という新しい法則を内包する彼女は、その力によって精霊秘術という新たな法則に依存した魔術体系を生み出した。より正確には、プラハ王国の人間と共に作り上げた。

 いわば彼女こそが精霊秘術の大元であり、支配者かつ管理者である。

 たとえ宇宙の果てであったとしても、精霊秘術が使用されれば感知できる。



「どうかしましたかセフィラちゃん」

「ほら。ママが血を分けてあげた人がちょっとね」

「あー。ありましたねー」

「結構適性ありそうだから、私の眷属にしたいかも」

「シュウさん次第ですねー」



 精霊秘術とはセフィラにとっての魔力獲得手段だ。魔力を捧げてもらう代わりに、精霊秘術という形で返礼する。そういう契約なのである。



(もっと自分の力不足を嘆くことがあれば……私と繋がるかもね)



 セフィラはほんの少しだけ気にしつつも、特別に手を出す気はなかった。







 ◆◆◆







 共食いはなぜ忌避されるのだろうか。

 倫理の問題だと多くの人は語るだろう。では倫理とは何かと問われたとき、そこに明確で論理的な理由を語ることは難しい。なぜならそういう風に言われて育てられてきたからだ。つまり倫理とは文化であり、伝統の一部に過ぎない。

 獣の肉についても、ある文化では穢れたものとして扱うかもしれないし、神聖だからこそ食することを禁忌としているかもしれない。

 すなわち倫理とは、理知を得た人間が自らを理性的な種たらしめんがために定めた縛り。欲と理性を秤にかける裁判官である。本来であれば欲と理性をはっきり区別するはずのそれは、歴史と共に洗練されていくに違いない。

 しかしひとたびこのバランスが崩れた時、人はまともではいられなくなる。



(嫌だ! 嫌だ嫌だ嫌だ!)



 必死に心で訴えても、ハーケスの身体は止まらない。麻薬のような依存性快楽が脳内で弾け続ける限り、吸血を止めることができない。その相手が仲間だったと分かっていても、自分を止めることができない。

 渇いた喉にひとたび水が通れば、満たされたと感じる時まで飲むことを止められないように。

 ハーケスは『赤兎』を貪ることを止められなかった。



(違う。違う。俺は、違うんだ!)



 絶望するハーケスは、『赤兎』の血を取り込むたびに変化していく。身体が大きくなり、筋肉が発達し、歯も少しばかり鋭くなった。また今は実感していないが、内臓機能も少しばかり向上している。

 それはまるで『赤兎』の力を自らに取り込んでいるかのようだった。

 吸血種ノスフェラトゥは壊れた細胞を補うために吸血する。だから取り込んだ細胞の性質を強く引き継ぐのは間違いない。

 美しい人間の血を飲めば、より美しく。

 醜い獣から血を取り込めば、その身は野性味を帯びていく。

 始祖たるノスフェラトゥほどになれば、取り込んだ血を選別して、不要な部分を捨てることも不可能ではない。それこそ赫魔の女王レギーナのように。

 だが飢えた吸血種ノスフェラトゥたるハーケスにそんな器用なことができるはずもなかった。『赤兎』を自身の一部としていくさまを実感し、激しい失望と絶望を抱くことしかできなかった。



「ああぁ、ぁぁぁっっあああああっ!」



 発狂したハーケスは、無意識のうちに心の声に従う。

 世界が崩れ去ったかのような錯覚さえ覚えた彼は、厄災をその手にしながら慟哭した。



「俺の魔力、俺の身体を捧げる。同化しろ! 瀑災渦アシュタロトォォッ!」



 七匹の蛇が絡み合う杖が解けて、一回り大きくなったハーケスの身体を這う。迷宮神器アルミラ・ルシスと同化したことにより、彼は一時的な覚醒者となった。その証として額には第三の眼トレスクレアが現れ、根源量子の世界から無尽蔵の魔力を引き込む。

 この瞬間、瀑災渦アシュタロトという神器は真の力を見せることになった。

 地下水は真っ白な霧となり、暴風に乗せられて渦巻く。ノスフェラトゥの瘴血すら弾き飛ばし、その勢いは天にも現れた。空が暗雲に覆われ、あっという間に小雨が始まる。雨脚はすぐに強くなり、豪雨と呼べるものにまで発達した。



「ぉあああああっ!」



 充血で両目が真っ赤に染まりつつ、ハーケスは咆哮する。

 サンドラを覆う火の加護は強制的に鎮火させられ、熱気は消え去った。

 吼えるハーケス。

 自らのしてしまったことに茫然とする『灰鼠』

 それをじっと見つめるノスフェラトゥ。

 都市国家サンドラは厄災に匹敵する力が渦巻いていた。






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