第11話 このからだに満たされたものが何なのか、


 マーレとの約束の時間までに仕事を終えて、いつものように海風亭を出る。

 扉に取り付けられたベルがからんからんと音を鳴らしていて、その後に続くように、女将さんが「気をつけて行くんだよ」と声をかけてくれていた。


「はい、行ってきます!」


 私は元気よく返事をしてから坂道を駆け下りようとして、足をぴたりと止めた。

 店の少し先に、ガラの悪そうな男性達が四人、小さな酒瓶を片手に談笑している。

 いつもなら然程気にはならない光景だけれど、大抵この辺りで飲み歩いているのは年配の人達のせいか、年若い年齢の男性達がいるのは珍しく感じて、私は少し気が引けてしまう。

 まあさっさと通り抜ければいいか、と彼らの視界に入らないよう、小走りでさっと彼らの前を通り過ぎようとすると、一人の男性が目の前に立ちはだかった。


「おい、ちょっといいか」

「……何ですか?」


 話しをしているだけでも、明らかにお酒臭い。かなり酔ってるみたいだ、と思いながら眉を顰めると、他の男性達もわらわらと近寄ってきている。

 何なの、集まってこないでよ! と内心焦るけれど、私はあくまでも冷静を装って、静かに息を吐き出した。

 酔っ払いに反応を示しちゃ駄目だ。絶対に、碌な事にならないのだから。


「へー、この子が人魚様の花嫁?」

「は……?」


 何、そのとんでもない呼び名は。私は思い切り顔を歪めてしまう。

 聞く所によると、人魚に見初められた女性という事で、私は密かにそう呼ばれているらしい。

 いやいやいや、と首をぶんぶん振って否定するけど、リシャルジアは人魚族に対して信仰心が強い人が多い。あながちそう言われていてもおかしくない気はする。全くもって不本意だけれど。

 自分の預かり知らない所でいつの間にか嫁扱いにまでさせられてしまっているとは思わなくて、私は恥ずかしさのあまりに発狂したくなる。

 男性達も自分達で言っておきながら、どうも想像とは違っていたらしい。顎に手をやってじろじろと私を見ると、首を捻っている。


「けどまあ、あの綺麗って噂の人魚様の花嫁って言うから期待したけど……、超絶可愛いか、って言われたらそうでもなくないか?」

「だな、普通っていうか……まあ、普通だな」

「だなあ」


 普通で悪かったですね! と憤慨しつつ、「もういいですか」と男性達を振り切ろうと足を踏み出すけれど、また男性の一人に阻まれた。

 暇なのか、とことん絡んでくるつもりらしい。

 私は舌打ちをしたいのを何とか堪えつつも、先の会話もあって、うんざりして大袈裟に溜息を吐き出してしまう。

 それが運悪く癇に障ってしまったらしい、一人の男性が鼻をふんと鳴らして顔を歪めている。


「女はいいよな、媚び売ってれば、あんな力のある人魚族なんかに気に入られてさ」

「……は?」


 聞き捨てならない言葉を吐かれて、私は思わず眼を見開いて、男性を見た。反応を示した事で、男性は面白がるようにニヤリと笑っている。

 これ以上、話を聞いちゃ駄目。酔っ払いの戯言なんて、どうせ自分達でさえ後になって憶えてないくらい碌でもない、って私は知ってる筈だ。ただの音の連なりだって思って、聞き流した方がいい。

 それなのに、胸底がジリジリして、身体の奥底から怒りが湧き上がってくるのを感じている。


「案外、お前があの人魚に命令して海を荒らさせてるんじゃないか? 気に入らない奴なんて、頼めばすぐ海に沈めてくれるんだろ」

「マーレは絶対にそんな事しない!!」


 私は思わず激昂して、大声で叫んでしまっていた。

 通りがかりの人達が振り向いて、視線があちこちから注がれているのがわかるけれど、私はそれどころじゃないくらい怒りでいっぱいになっていて、彼らをきっと睨みつける。


「おお、怖っ」

「止めろよ、お前もこいつに告げ口されて海の藻屑にされるぞ」

「そんな事しないったら! いい加減にしなさいよ!!」


 自分の事だけなら、どうにか我慢出来た。

 だけど、まさかマーレの事まで悪く言うなんて、と私は完全に頭に血が昇って、男性達に掴み掛かりそうな勢いで反論する。

 悔しくて悔しくて、とにかく悔しくて堪らない。

 何でマーレの事を碌に知らない人達が、マーレを悪く言うのだろう。

 マーレがどんな事を言っていて、どんな風に笑うのかも知らないくせに!

 強く手を握り締めて怒鳴り散らそうとした瞬間、店の扉がバタン! と大きく開かれた。


「こら! 何してるんだい、あんた達!! うちの子にちょっかい出したらタダじゃおかないよ!!」


 女将さんが大声でそう怒鳴り、箒を片手に店から飛び出してくる。

 男性達は思わぬ人物の乱入に驚いたのか、蜘蛛の子を散らすようにあっという間に逃げ出していく。

 何なの、あんなに酷い事を言ってたくせに、と私は内心で悪態を吐いた。

 煮えきれない思いが、指先を微かに震わせている。


「ルエラ、大丈夫かい」

「女将さん、迷惑かけてごめんなさい……」


 もっと冷静に対処出来ていたら、こんな風に女将さんに面倒をかけなかったのに、と、私はみるみるうちに悲しくなってきて、唇をきつく噛み締めた。


「いいんだよ、あんたは何も悪くないんだから。まったく、あの悪ガキどもは本当にしょうもないね!」


 女将さんは大袈裟な程に息を吐き出して、それから背中を優しく撫でてくれる。

 私はじわじわと目の奥が熱くなるのを感じるけれど、グッと我慢して堪えた。

 ただでさえ、この町に縁もゆかりもない私に、優しくしてくれた人だ。

 こんなに優しくしてくれる女将さんに、これ以上迷惑かけちゃいけない。

 少し休んでいくかい、と女将さんに言われて、私は慌てて首を振った。

 このままこうしていたら、きっと子供みたいに泣きじゃくってしまいそうだから。


「大丈夫です。マーレが心配しちゃうし、もう行きますね」

「そうかい?」


 気をつけるんだよ、何かあったらすぐにうちに来るんだよ、と女将さんが心配そうに声をかけてくれるので、私は精一杯の笑顔を作って、海の方へと駆け出した。

 ぐんぐんと坂を駆け下りていくと、途端にあふれてくる涙でじわじわと景色が滲んでいく。

 さっきまでの言葉が何度も何度も頭の中を駆け巡っていて、私はすんと鼻を鳴らした。

 とにかく悔しくて、悲しくて、堪らない。

 大きな声で泣き喚きたい気持ちになって、私は人目を避けて薄暗い路地の奥に入った。

 丁度建物と建物の間にすっぽりと開けた広場のような空間があって、誰もいない事を確認すると、私はのろのろとその場にしゃがみ込む。

 その拍子に、ぽた、と地面に小さな水玉が落ちた。

 それは、一つ、二つ、とだんだんと増えて、やがて歪な一つの塊になる。

 気がつくと、噛み締めた唇の端から、堪えきれない嗚咽が漏れていた。


 私は、自分にそんな価値がある人間だとは思ってはいない。

 特別何かを持っているわけでもないし、容姿に優れているわけでもない。

 いつもマーレにいつも褒められたり好意を示して貰えても、それは変わらない事実だ。

 強引ではあったけれど、マーレはそれでも一緒にいてくれるから、私はずっとそれに甘えていた。

 きっと、そのせいなんだろう。

 あんな風にマーレまで悪く言われてしまっているなんて、私は今まで少しも考えた事はなかった。

 恥ずかしくて、居た堪れなくて、どうしようもない。

 いっそ、消えてしまいたくなる。

 でも、こんな自分自身を否定してしまったら、マーレがくれた言葉まで否定してしまいそうで怖い、とも思うのだ。

 マーレは私の事を、いつだって褒めてくれて、それは確かに私の中にあって、いつも私を救ってくれていた。

 それを真っ直ぐに信じていければいいと分かってるのに、さっきの言葉を思い出すだけで、どうしても上手く出来ずにいる。

 いつものようにマーレに会って、そんな事で落ち込んでいるのと笑って欲しいのに。


(でも、マーレにそれが伝わってしまって、見放されて、手を離されてしまったら? 本当の本当に、一人きりになってしまったら?)


 そんな事ばかりを考えてしまう自分の気持ちを、吹き飛ばせる勇気が、出てこない。


(お願いだから、これ以上、私の中の大事なものを、持っていかないで……)


 他には何もいらないから。これ以上は。お願い。

 まるで祈るような気持ちになって、私はぎゅうと膝を抱えながら、ただただ小さく縮こまっていた。



 ***



 ゆらゆらと揺れる海面から顔を上げると、水飛沫が舞って、眩い陽光が目に入る。

 視線を向けた先、見慣れた小さな港町はいつもと変わらない。

 なだらかな坂に沿って並ぶ蜂蜜色の家屋、それらを見守るように高台に建てられた時計台の針は、午後二時を示している。

 僕はいつもルエラと会う岩場の方へ泳いでいきながら、浜辺からその先の道をぐるりと眺めた。

 いつもならもうルエラは来ている筈だけれど、今日はまだ姿を見ていない。

 つい気になってしまって、こうしてあちこち探してみたものの、やっぱりまだ海の方へはきていないようだった。


「んー……ルエラ、今日は遅いなあ」


 事故とか怪我とかしてないといいのだけど、と岩場に腰掛け、鰭を海面に浸してちゃぷちゃぷと揺らしていると、岩場の少し離れた場所に、二、三人の年老いた漁師達が並んで歩いるのが見えた。

 いつも海に祈りを捧げている敬虔な人達だから、きっと長くここに住んでいるのだろう。


「ねえ、ルエラを見なかった?」


 僕が岩場から声をかけると、彼らはぺこりと頭を下げ、おずおずと言った様子で近づいてくる。

 小さな港町だからか、ルエラの事を知っている人も多いようで、彼女の名前を出すと、全員が時計台に顔を向けていた。


「少し遅いようだけど、まだ海風亭じゃないですかねえ」

「ルエラのお陰か、あの店も大分繁盛してますから」

「よく働いてくれてるって女将さんも褒めていますよ」


 漁師達は笑って話をしていて、その様子はとても楽しそうだったから、ルエラの働いている海風亭という料理店は余程いい店なのだろう。

 すっかり嬉しい気持ちになって、僕は笑顔を浮かべてしまう。

 ルエラ自身もよく楽しそうに店での出来事を教えてくれるし、僕と一緒にいない間でも、辛い事や悲しい事で我慢しているような事はなく、健やかに過ごせているのなら、喜ばしい事だ。

 とはいえ、あまりに約束の時間を超えてしまうと、心配にもなる。

 ちょっと様子を見てきましょうかね、と漁師の一人が顔を上げると、丁度浜辺に歩いてきた男性がいるのを見つけて、声をかけている。


「おーい。お前さん、ルエラが海風亭を出たかどうか、見てないか?」


 まだこっちに来てないみたいなんだが、と付け足すと、男性はこちらに近づきながら、片手を振った。

 どうやら丁度漁師達の影になっていて、僕の事には気がついていないようだった。


「ああ、店を出て行ったのは見たよ。海に来てないなら、どっかで落ち込んでるんじゃないのか?」

「何かあったのか?」

「海風亭の側に酔っ払った若いもんがいてな。海が荒らしてるのはルエラが人魚様を唆してやってるんじゃないか、とかって言って、喧嘩みたいになってたんだよ。途中で女将さんが止めに入ってたけどさ」


 本当に罰当たりな奴らだ、と憤慨している男性に、周囲の漁師達は慌てふためいている。


「お、おい、馬鹿……!」


 男性は心底不思議そうにしていたが、漁師達が恐る恐る振り向くなり、顔を真っ青にさせていた。

 僕の気持ちと呼応するように海面がゆらりと揺れて、風は湿気を帯びて生温くなっていく。


「……誰?」


 自分でも驚く程に、低い声でそう言葉を吐いた。

 男性も漁師達も、上手く言葉が発せないのか、「いや、あの、」と口ごもり、震え上がるばかりで、まともに返事が出来ないらしい。


「誰が言ったの、そんな事」


 ざわ、と空気が揺れて、波がざわめいている。

 握り締めた手のひらに、爪が食い込む程、力がこもっている。

 胸底が煮えたぎるように怒りで震えているのが、わかる。

 男性達はその場で腰を抜かしたり、慌てふためきながら町の方へと駆け出している者もいるけれど、ほんの僅かも気にもならない。


「絶対に、許さないから」


 呟いて、僕は大きく息を吸い込んだ。

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