第9話 夕暮れよりも赤く染まってしまわないように


 子供達を送り届けてから浜辺に戻ると、すっかり日が暮れていて、夜を迎える準備をするかのように、空はオレンジと紺色のグラデーションを作り、海は深い色へと変化していた。

 流石に海へ帰ってしまっただろうか、といつもの岩場の辺りへ足を向けると、ぼんやりと海を眺めているマーレの後ろ姿があった。

 沈んでいく夕暮れに照らされたマーレは、いつものように笑顔ではないせいか、細部まで丁寧に作られた美術品のようにさえ見える。

 その横顔があまりに綺麗で私は思わず息を呑んでしまい、声をかけられずにいると、マーレが気配に気付いたらしい。振り向くと、いつものようにふわりと嬉しそうに笑ってくれる。


「ルエラ。わざわざ戻ってきてくれたの?」

「うん、マーレにちゃんとお礼を言いたかったから。あの子を助けてくれてありがとう」


 帰り際、捨てられた子犬みたいな顔をしてたから、とは流石に言えなくて、私は気をつけながら岩場を歩いて、マーレの隣に座った。

 いつもは遅くなると危ないからと夕暮れが近づく頃には家に帰るようにマーレに言われているし、食堂の仕事は朝が早いから、私もその言葉に甘えている。

 だから、少し遅いこの時間帯に海にいるのはなんだか不思議だ。

 それに、いつもならお喋りなマーレが何だかやけに大人しいし……。そっと顔を盗み見しようとすると、その視線に気が付いたのか、ピーコックグリーンの瞳が向けられている。

 どきりとして慌てて顔を背けると、視界の隅にマーレの手が伸びて、いて。

 しなやかな指先は、だけど、いつものように触れてはこない。

 それが、何故だか少しだけ、もどかしい。


「マーレ?」

「……ルエラだって、あの子供を助けようとした時、海に入っていたら溺れていたかもしれないんだよ?」


 マーレはそう言って、真っ直ぐに見つめてくる。

 確かに、私はこの町の生まれではないし、泳ぎが得意というわけじゃない。

 海の怖さはおばあちゃんからよく言われていたけれど、さっきはそれどころじゃなかったから、何も考えずに飛び込もうとしていた。

 マーレは少し怒っているような、それでいて不安そうな、複雑そうな表情を浮かべている。

 ——これは、多分。


「マーレ、心配かけてごめんね」


 マーレは私を心配してくれていたんだ、とわかって、私は謝罪の言葉を吐きながらも、ほんの少し、嬉しくも思ってしまっていた。

 だって、そんなふうに心配してくれる人なんて、お母さんやおばあちゃん、それから、海風亭の女将さんくらいだから。

 それに、マーレはいつもたくさん褒めてくれるし、甘やかすような事を言ってくれるけれど、よくない事はちゃんとこうして咎めてくれる。

 それが、私を真っ直ぐに見てくれている証拠みたいで、嬉しい、と素直に思えた。


「それと、ありがとう」


 そういえば、初めて会った時もあんなふうに助けてくれたっけ、と思い出して、私は笑みを浮かべてしまう。

 今日だって、あの時だって、どうにかしなきゃと自分一人でもがいていたけれど、彼は当たり前のように手を貸してくれて、助けてくれた。

 見て見ぬふりだって出来たはずなのに、実際、私が泣いていようが困っていようが、誰も助けてくれない事なんて、今まで生きていた中でさえたくさんあったのに、マーレは当たり前みたいに、手を差し伸べてくれる。

 それは、私にとって、信じられないほど嬉しい事だって、思ってる。


「ルエラ。ああいう時は、すぐに僕を呼んで。ルエラの声なら、僕は絶対に聞き逃さないし、必ず助けになるから」


 約束だよ、と言われて、私はしっかりとマーレの目を見て頷いた。

 マーレなら、必ずその約束を守ってくれる、って信じられると思ったから。

 私を見つめていたマーレは、少し困ったように笑うと、ようやく頭に手を乗せて、ぽんと柔らかく撫でてくれた。

 優しい重みが、夜の海風にも似て、心地いい。


「ルエラ、もう暗いから送っていくよ」

「送るって……、どうやって?」


 私が不思議に思っていると、マーレは子供みたいに笑って教えてくれる。


「前に言ったでしょう? 人魚族はね、鰭を人間の足に変化させられるんだよ」

「あ、そういえば……」


 マーレ曰く、人魚族は鰭を足に変化させ、人と同じように歩く事が出来るという。

 だけど、その代償に、声を出せなくなる、とも。


「でも、私の家すぐそこだから心配しなくても大丈夫だよ?」


 私の家は海風亭の少し先に行った所で、ここから歩いて十分くらいだ。

 暗いとはいえ街灯もあるし、然程危ない道ではない。

 それに、声が出なくなる事は勿論、慣れない地上を歩くというのは、普段水上で暮らすマーレにとって、かなり大変な事なんじゃないか、と私は思う。

 だけど、マーレはいくら私が言った所で、少しも意思を変えるつもりはないらしい。


「だって心配だし、ルエラの方が大事だから、いいの」


 鼻先を指でつんと触れられ、む、と顔を顰めると、マーレは楽しそうにくすくすと笑った。

 そして、服の裾から覗く半身の尾に手を押し当て、ぐ、と力を入れて下すと、ぱらぱらと鱗が取れるように消えていき、しなやかな二本の足が現れる。

 まるで魔法みたい、と思いながら見つめていると、地面に引き摺りそうな程に長い服の裾を踏まないよう、ぎこちなく立ち上がったマーレの体が、ふら、と揺らいでいるので、私は慌てて彼の両手を掴んで握り締めた。

 節がしっかりした自分より大きな手のひらは、しっとりしていて気持ちがいい。

 マーレはぱちぱちと瞬きを繰り返して私を見つめると、にこ、と小さく笑った。

 普段は二人で岩場に腰掛けている事が多いからか、いつもとは全く目線が違う。

 こうして並んでいると、マーレの方が頭一つ分くらい大きい。

 思わずたじろぐと、マーレは不思議そうに頭を傾げるので、私はつい恥ずかしくなって、ふいと顔を背けた。

 子供や子犬みたいだとか思っていたけれど、マーレはちゃんと男の人なんだ、と改めて思い知らされて、顔が熱くてしかたがない。

 私は髪が赤いから、きっと上手く隠れている、って、信じたいけど。


「えっと……、足、痛くない?」


 何とか話題を見つけなければ、と思って裾の長い服から覗く足元を見れば、彼は裸足だった。

 人魚族なのだから靴なんて必要ないのは当然だけれど、慣れない地上を裸足で歩くのは痛そうだ。

 戸惑いながらマーレに問いかけたけれど、彼はふるふると首を振っている。


「今度、マーレが履けそうなサンダルを用意しておくね」


 どのくらいの大きさかな、と足をくらべてみようとすると、頭をぽんぽんと優しく撫でられてから、やんわりと背中を押されてしまった。

 さっさと帰ろう、と言いたいらしい。

 躊躇いながらも、マーレの負担にならないよう、私はゆっくりと歩き始めた。

 暗くなってきた道には、街灯のぼんやりとした明かりが灯り始めていて、ぽつぽつと光が点る町は、普段夜に出歩かない私には、いつもと違って幻想的な風景に見える。

 それは、マーレが隣で歩いているからかもしれないけれど。

 マーレが話せないから、せめて自分が何か話さないと、と私は話題を探すけれど、こういう時に限って上手く会話の糸口が見つからない。

 やけに足音が響いて、それが余計に沈黙を浮き彫りにしているようで、何だか緊張してしまう。

 いや、いつもマーレと話しているのだから、今更緊張とかするわけないし!

 私が内心で焦りながら帰り道を歩いていると、飲み歩いていたらしい酔っ払いのおじさん達が、通りがかりに揶揄うように声をかけてくる。

 近くに寄ってきただけでお酒の匂いがしているから、きっと朝から今まで飲んでいたのだろう。


「おおい、デートか、若いの」

「いいねえ、もっとくっついちまいなよ」


 酔っ払いのおじさん達は、きっと隣にいるのがマーレだとは思っていないのだろう。私は呆れたように息を吐き出した。

 酔っ払いの対処方法は、基本的に無視が一番だ。どんな言葉を投げかけられようが、塩対応をして受け流すと、大抵はつまらないと言っていなくなってしまう。

 挑発に乗ってはいけないと思いつつ、顔が赤い事を気付かれないように俯くと、ピーピーと指笛まで吹いているので、いい加減にしてよ、と内心で嘆きたくなる。

 私が一人でそんな風に狼狽えていると、それに気付いたらしいマーレが、スッと手を引いて背中に私を隠すようにしてくれていた。

 驚いて顔を見上げると、さら、と銀の髪が街灯の柔らかな明かりに照らされ、青とも緑ともつかない不思議な光沢を放っていて。

 マーレは銀の睫毛に縁取られたピーコックグリーンの瞳を緩やかに瞬かせると、妖艶な笑みを浮かべている。

 人魚はその美しい容姿と歌声で、人間を惑わすとも言われているけれど、やっぱり人とは違った、目を惹きつけて止まない不思議な魅力があるのだと、思わされる。

 それを見た酔っ払い達は途端に酒で赤くなった顔を更に赤くして、黙り込んでしまっていた。というより、時間が止まったみたいに身体が固まって見惚れてしまっている。

 それもそうだろう。私だって、いつもとは違う雰囲気のマーレに、思わず身体が固まってしまって、動けなくなってしまっているんだもの。

 だけど、マーレはその隙に私の手を引いて、するりと道の先へと連れていってくれていて。

 あまりにぐるぐると色んな事が起きるので、私はびっくりしてただ着いて行くのがやっとだけれど、楽しそうなマーレの横顔を見ていると、私もなんだか気分が高揚してしまって、つい笑顔になってしまう。

 笑い声まで零れてしまって、楽しくなって、家に着くまでずっと笑っていたせいで、ほっぺたとお腹が痛くなるくらい。

 はー、と息を吐き出すと、私は見慣れた我が家を見つめた。

 周りの家は明かりが点いているのに、私の家だけが、暗い。

 私しか住んでいないのだから、当然なのだけれど。


「マーレ、ここまでありがとう。帰りは気をつけてね」


 さっきまでの楽しかった気持ちが消えてしまわないよう、私はぱっと振り向いて、笑顔でマーレにお礼を言った。

 内心を気取られないように笑うけれど、マーレは小さく息を吐き出すと、ぽんぽんと頭を柔らかく撫でてくれる。

 今は話が出来ないから、何を言いたいのかは分からないけれど、何となく、自分が淋しい気持ちでいる事を慰めてくれてるみたいに感じられて、私は少し顔を俯かせた。

 マーレといる間はいつも騒がしかったり慌ただしいから、最近はこんな風に家が暗い事が淋しい、なんて思わなかったんだろうな、と改めて思う。

 私がそんな事を考え込んでいると、マーレはそっと指先で額にかかる髪を避けていて、その優しい手つきがとても心地よくて、私は緩やかに瞬きをして、マーレを見た。

 何だか、顔が近い。息がかかりそうな、くらい。


「……、マーレ?」


 不思議に思ってマーレの行動をただぼんやりと見つめていると、額に、ふわ、柔らかな感触がして、いて。

 え、何?! もしかして、今、おでこにキスされた?!

 私が慌てふためいてばっと額に手を当てると、マーレは悪戯に成功した子供みたいに、無邪気に笑っている。

 それがあまりに楽しそうなので、私はぽかぽかと彼の腕を軽く叩いたけれど、彼はますます笑みを深くするばかり。

 もう、仕方ないなあ、と思いつつ、私はマーレの指先をそっと握った。


「マーレ、送ってくれてありがとね」


 そう言うと、マーレは柔らかに目を細めて頷いてくれる。

 また明日、と離した手を振って、私はマーレの姿が見えなくなるまで家の前で彼を見送っていた。

 少しだけ額が熱く感じるのは、きっと、勘違いなんかじゃないんだろうな、と思いながら。

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