下品な帝国の犬め。もうすぐおまえは用済みだ。

 テオとウッツが語っていたのとほぼ同時刻。

 それはソルブデン帝国の首都、グリエットにある、小さなパン屋でのやりとりだった。


 国土のほぼ中央に位置しているこの街は、夕日でオレンジ色に染まっていた。


 中心部から少し離れたところにあるエルフェ通りには、家路を急ぐ者や夕食の材料を買い足している者で賑わっていた。店も多く、治安も良く、住みやすいところだった。

 街路樹として等間隔で植えられているマロニエは、ところどころに丸い実をつけている。五月ごろには白い花は咲き、毎年街をいろどる。

 今は秋。青々と茂っていた葉も、いつの間にか紅葉を始めていた。


 それが、いつもどおりの、グリエットの光景だった。


「それじゃあねアメリー。明日もまた、買いにくるよ」

「ええ、クレソンさん。いつもありがとうございます。お待ちしていますね」


 アメリーは常連客のクレソンにパン・ド・カンパーニュを入れた紙袋を渡した。

 エルフェ通りに面した小さなパン屋のベルが鳴る。


 笑顔で客を見送るアメリーは、半年ほど前からこのパン屋で、売り子として働いていた。彼女は目尻が優しく垂れ下がっていて、それが親しみやすい雰囲気を作り出している。その柔らかな笑顔は少なからず、店の売り上げに貢献しているようだった。髪はきれいな銀色をしていた。長く伸びたその紙を頭のうしろで束ね、下ろしている。


「アメリー、今日はもう客足も落ち着いてきたから、上がっていいよ。よければ、残りのクロワッサンでも持ってお行き」


 店主が厨房から顔を出してアメリーに言う。

「いつもありがとうございます。エマールさん」

「いいのさ。妹さん、元気になるまではできるだけお金を貯めておかなければいけないんだろう? ささ、遠慮しないで」


 エマールは大きな黒い口ひげを蓄えた恰幅かっぷくのいい男だった。アメリーの境遇をあわれんでか、いつも気前よく店のものを勧めた。


 アメリーには、妹が一人いるが、原因のわからない難病をわずらい、長いあいだ床に伏せている――


 アメリーがエプロン外そうとしたちょうどそのとき、新たな客が来店した。

「いらっしゃいませ――あ、ミュールさん」アメリーが挨拶をする。


 店に現れたのは、背の高い若い男だった。

 よく鍛えられた身体つきをしている。そして、ソルブデン軍の近衛兵の制服を着ていた。鮮やかなインディゴ・ブルーを基調としたコートに、ぴっちりと張り付いたデザインの白いパンツ姿だった。


 アメリーは、その制服の頭のてっぺんからつま先まで、すべてが嫌いだった。


「やあ、アメリー。こんばんは」

「いつものでよろしいですか?」

「ああ、頼めるかい?」

「ええ、かしこまりました」


 アメリーは、ミュールがいつも買っていくブリオッシュを二つ、紙袋に包んだ。


「今日もずいぶんくたびれたよ。特別敵国の砲撃があるわけでもないのに、僕らの部隊は一日立ちっぱなしさ。足の裏から根が生えるどころか、そのうち頭の上から花でも咲かせる兵士が現れるんじゃないかね」


 ミュールの話をアメリーは愛想笑いで返した。

 無論、ミュールは愛想笑いと気付くことはない。


「いっそ、うちの部隊をリオベルグの前線へ送ってほしいね。ルーンクトブルグの連中なんか、一気に兵力で押してしまえばいいんだ。戦力の集中だよ。戦況は以前膠着状態らしい。まったく良い知らせなのか、悪い知らせなのか」


 ミュールは何ヶ月か前から、このパン屋に通い詰めていた。

 それは、パンを買うためではない。彼がここにくるのはアメリーと話すためでもあるし、自分が日々考えていることがいかに高尚であるかを誇示するためでもあるし、自分の仕事がどれほどまでに退屈であるかを吐き出すためでもあった。


 しかし同時に、彼は近衛兵という仕事を誇らしく思っているし、一個中隊を任されている大尉である自分は、とても優秀であると思っていた。


 それがゆえに、聞いてもいないことを、べらべらとよくしゃべる。


 アメリーは彼を激しく嫌悪しているが、


「はい。いつものブリオッシュです」

「ああどうも――なあアメリー。どうだろう。このあと一緒に食事でも? なかなか品質の良いワインを出す店を見つけたんだ。ふだん、ひとりじゃ行けないだろう?」

「あら、素敵ですね。ミュールさんのお話は面白く、とてもためになりますから、ぜひご一緒したいですわ」


 愛想よくアメリーは快諾する。

 にやにやと嬉しそうにゆがむミュールの目線が、自分の胸の膨らみに向けられているのを、アメリーは見逃さなかった。


 下品な帝国の犬め。もうすぐおまえは用済みだ。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 テオはその晩、夢を見た。


 小さな女の子が泣いている。

 手を伸ばして涙を拭おうとするも、届かない。


 女の子は連れていかれる。

 手を引いているのは、顔のない男女だった。


 テオは散弾銃を構えて、女の子を連れ去ろうとする者を撃とうとする。

 その後ろ姿を射抜こうと、注意深く狙って、撃とうとする。


 しかし、四方八方から円盤が飛び交うのだ。

 その円盤のせいですっかり狙いが逸れてしまう。


 気がついたら、今度は足元にもうひとり、人間がいる。

 女だった。うつぶせで倒れているために、顔が見えない。

 その女は、ルーンクトブルグ兵の軍服を着ている。


 それが誰だか、テオにはわかっていた。

 彼女はテオの脚を掴んでくる。

 助けを求めるように、必死になって掴んでくる。


(あなたには生きて欲しいの。これは、とても個人的なお願い)


 テオは唐突に目を覚ます。

 びくりと痙攣するように体を震わせて、なにかに取り憑かれたような顔で、目を見開いていた。

 背中は汗でぐっしょりと濡れていた。自身の身体からあまりよくないにおいがするのがわかる。テオはこめかみに手をやり、鼻から息を吐いた。


 最近ほとんど見ていなかった夢だ。

 ウッツと話をしたことがきっかけになったのだろうか。


 テオは体を起こした。

 第2魔導銃大隊ザイフリート隊はパシュケブルグの駐屯地にある官舎に宿泊している。今の情勢では官舎もベッドが有り余っている訳ではなく、テオのように佐官であっても相部屋を使っている。隣りのベッドでバルテル少尉が腹を掻いて眠っていた。


 目が冴えてしまい、テオはコートを羽織り、ひとり廊下に出た。

 光源は窓の外から差し込む月明かりだけで、廊下はほとんど何も見えない。


 テオはかろうじて壁伝いに歩いていき、官舎の外まで出てくる。

 夜風が顔に冷たかった。しばらくあたっていると、ひりひりと痛んでくるくらいだ。人気がなく、目の前はだだっ広い芝生が広がっていた。昼間はここの駐屯兵たちが基礎訓練などを行なっている場所だ。

 そういえば、時刻を確認していなかった。だが遠くの空を見渡す限り、夜明けはまだまだ先らしかった。


 官舎の正門の階段に腰掛け、テオは魔導銃を取り出す。

 初めて手に取ったときはあまりに無機質で相入れないような気がしていたこの魔導銃も、今はいくぶん親しみを覚えている。テオはこのノヴァに助けられて戦場をくぐり抜けてきた。

 しかし一方で、この銃にずっと縛られて、この世界で生きてきた。


 銃口を、誰もいない夜の闇に向ける。


 目の前に、敵をイメージする。

 その敵はさまざまな姿をしている。ソルブデンの兵士であり、首都で撃ち抜いたあの強姦魔であり、前の世界の両親でもあった。

 そしてその中に、自分自身が含まれることもあった。


 さまざまな敵を、テオは撃たなければならない。

 撃たずにはいられない――


「少佐?」


 ふいに後ろから声が聞こえた。

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