第91話.主との契約
血だまりだった。
恐ろしいほどの血が漏れている。助からない、もうその人は動けない。
ティアナを、自分をかばったからだ。
ママのおなかには、赤ちゃんがいるのに。
幼いティアナが叫んでいる、女性がその肩を押し出す。
「ママ、いやっ」
「行きなさい、ティア!!」
黒くて嫌なところを走る。助けてくれるのはパパしかいない。
(パパ、パパ、こわいよっ)
「パパ、パパ!!」
(ママを助けて!!)
「――パパ!!」
ぐにゃり、と壁がゆがんでいる。どこにいるのかもわからない、ただママをたすけなきゃいけないのに。
(たすけて、たすけて。たすけて……)
“――おもしろい声が聞こえる”
ようやく、声がきこえた。ティアに気づいて、声をかけてくれた。
「……ママを、たすけて」
“――できないな”
冷ややかな声は、すぐに行ってしまいそう。ただ、見ただけ、そんな様子だった。
その声にすがる。行かないで、行かないでとねがう。
でも、ダメ、と思う。
(ママやパパやお兄ちゃんしか、信じちゃいけないのに。あとはディー、パパといつもいっしょにいるひとたち)
でも、だれもいないから。
“――助けるには、契約が必要だ”
「けいやく、なに?」
むずかしい、わからない。
“――契約に必要な取引材料、君が僕に差し出すもの”
きけん、と思う。ママやパパたち、いがいのいうことは、きいちゃいけない。
でも。
“――では、僕は行こう”
「まって!!」
(ママ! パパ、はやく)
でも、パパはこない。いきがくるしい。ママは、行きなさいといった。じゃあ、どうなるの?
「ママを、たすけて。ママ、ママ、ママ」
“――できない。君は差し出せないからね”
「なんで」
“――僕たちは、魔力を貰う。けれど君には、魔力がない。契約はしてあげない”
「たすけて、くれない、の?」
“――そうだよ、助けない”
「……ティア、は……」
つきはなされたことだけわかる。たすけてくれない、の?
意味が分からなくても、気配だけで呆然とするティアナに、むしろ面白がる気配が部屋中に満たされる。
“――面白い子だ。そしてかわいそうな子だ。魔力はあるのに、ない”
「……なに?」
“――ならば、別の条件をあげよう。
「べつ」
“――代わりに大事なものを貰うよ
「……だいじな? ティア……ないよ」
本当は、たくさんあった。パパもママも、みんなも。だいすきなのに。
でも、だいじといっちゃいけない。
くすりとわらう声は、少しこわい。たすけてほしいのに、後ずさる。
その気配に彼がまた笑ったのがわかる。
“――賢い子だね。そう、だいじなもの、とは。――君の記憶。
「きおく?」
“――これまでの、君のだいすきなモノ、大事なモノの思い出。それを貰う、君は忘れる”
よみがるのは、大きなて、つかんだそで、だき上げてくれるうで。やさしい声。ママとパパの声。おにいちゃんのせなか。
「わすれちゃう?」
“――そう、全部忘れる。何もかもなくす。けれど、君の願いをかなえてあげよう。
「おねがい……は、ママをたすけて」
“――助けて、あげよう。ただし、君は会えないよ。どこにいるのかも教えない。
「あえないの? パパもママも……」
“――それは契約しない。けれど、君はかわいそうな子だ。僕は君の主だ”
「ある、じ」
“――君が“おねがい”をするたびにもらうのは、きみの記憶。
「なに?」
“――君は魔力があるのにない。だから君から記憶をもらう。なくしていく”
「……わからない」
“――きめなさい。君は今まで誰かに決めてもらっていた。自分で決めるんだ。
「ママをたすけて。それならば、――」
『ティアナ。誰かと話したら、必ずママとパパに話すのよ、何かを、決めてはだめ……』
『なにか?』
『いいことを言う人。人じゃなくても、声をかけてくるモノ。迫ってくるモノ。頷いてはダメ。逃げなさい。逃げて、必ずパパを呼ぶの』
それがよぎる。でも。パパは、こない。
「……あなたはだあれ?」
揺らぐ影、紫色の髪が揺れてティアナの顎を掴む。とてもきれいだ、と思った。けれどこわい。
「ママを、たすけて……」
“――それは、一つ目の願いだ。
「ほかもあるの?」
“――もちろん。君が願えば。僕は君の主だ。そして君は、いずれ全ての記憶を失う。
彼は、美しい笑みを浮かべた。
“――最後に何もなくなった時に、僕のところに来るんだよ。
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