溺るるは慟哭のヴィクティム

神宅真言(カミヤ マコト)

序章:始まりの音と、来訪者

01


  *


 それは一九七七年の晩秋のことだった。


 薄雲の掛かった月のみが静寂を朧に照らす。風も無く、虫の声さえも響かぬ夜の中、その寺は田畑の中心にひっそりと建っていた。さほど大きくはないが歴史を感じさせる佇まいは重厚で、よく手入れされているのであろう木製の門は艶を帯びて月光を緩く反射していた。


 ──しかし突如、静謐は門を叩く音と女の悲鳴じみた声によって破られる。


「夜分すんません! どなたか、どなたかおいでますか!? 頼んます、誰か!」


 切羽詰まった声音と門を拳で叩く振動が、夜中の田畑に響いた。女の荒い呼吸とドン、ドンドン、という不規則な音が悲痛な叫びの合間を埋める。閉ざされた門戸を揺らし、女の切迫した声が続く。


 そして程なく明かりが灯り、ガラガラと鈍い引き戸の開く音と共に、玄関の扉から大柄な男がのそりと姿を現した。作務衣を着た剃髪のその男はこの寺の住職である。住職は裸足に草履を突っ掛け、低いダミ声を上げながら門へと近付いてゆく。


「はいはい、おりますよ。こんな夜中にどうなさったんで」


「ああ、ああ、おいでましたか、良かった! 夜分に、夜分にすんません、助けて下さいまし、頼んます!」


「助けてとはまた何事ですかいな。ほら、今開けますけん」


 住職が門を開けると同時、女は安堵の所為か大きく息をつきふらりよろめいた。咄嗟に住職が手を伸ばし女の腕を掴むと、女はそのまま逞しい腕に縋り付きぼろぼろと涙を零し始める。


 女はまだ若く、年の頃は二十代後半といったところだろうか。しかし乱れた髪や血の気の失せた肌、怯えに丸めた背、そして顔に張り付いた恐怖と焦燥が女から若々しさを奪っていた。


 故に住職は女が誰か直ぐには分からず、そして数秒の後にあっと声を上げた。


「あんたさん、もしかして明松さんとこの娘さんか!? 瑞池の集落に嫁に行った──」


 女は住職の言葉に何度もはい、はいと頷く。明松の家は代々この寺の檀家であり、住職はこの女が赤子の頃からよく知っていた。数年前に離れた集落に嫁に行ったと聞いていたが、今のこの女の姿には娘時代の快活さなど欠片も残ってはいなかった。


「何があったかは分からんが、とにかく上がんなさい。話はそれから──おや」


 もぞり、と女の肩口に何かが動いた。


 目を凝らすと、それは小さな蜥蜴のような姿をしていた。しかし表皮は鱗ではなくぬるりと粘膜じみた光沢を放っており、黒い身体の側面からは僅かに紅い色が覗いている。


「ヤモリ、いや……イモリか」


 イモリ、という言葉を聞いた途端、女がヒッと小さく悲鳴を上げた。そしてがたがたと大きく震えながら叫び始める。


「嫌、嫌、取って、払って下さいまし! ああ、ああ、尾けられていた、見られていた!? やっぱり、やっぱりうちが、次なんや、順番が回って来るんや……! 殺される、瑞池におったら、次に殺されるのはうちや……!」


 その鬼気迫る様子に呆気に取られるものの、住職は気を取り直して女の肩を軽く払う。イモリは放物線を描き道端の草むらに落ちると、闇に紛れそのまま姿を消した。


 訝しむように住職はじっとその様子を眺めていたが、やがて軽く溜息をつく。そしてまだ何かに怯える女をそっと門の内へと促した。


「さあ、もうイモリはいなくなったでな。早く門の中へと入りなされ。門の内ならば御仏が守って下さる、何も怖がる事は無い」


 震えながらも女は素直に頷くと、門を潜り寺の敷地に足を踏み入れる。直ぐに住職が再び扉を閉ざした。すると女はへなへなと膝をつきかくりとくずおれる。安堵で緊張の糸が切れた所為だろう、気を失ってしまったのだ。


「何があったかは分からんが……やれやれ、何にせよ取り敢えずは休ませてやらんとな」


 住職はくったりと力の抜けた女の身体を軽々と抱き上げ、寺の中へと運び入れた。宿坊となっている区画の一部屋に布団を敷き女を横たえる。女は安らかな寝息を立て始め、これなら大丈夫だろうと住職はその場を離れた。


 ──あの時、僅かながら確かに妙な気を感じた。


 自室に向かって廊下を歩みながら、住職は先程の事を思い出す。イモリを払った際に、残り香のような僅かな何かを確かに嗅ぎ取ったのだ。


 それに、女の口走った言葉も気になった。──『瑞池におったら、次に殺されるのはうちや』、女は確かにそう言った。あれは一体どういう意味なのだろうか。女の嫁いだ先の集落、瑞池で今、何か異変が起きている──?


 瑞池は山に囲まれた小さな集落である。西の山には水神を祀った湖が存在し、巫女の血を引く家が中心となって祭祀を続けていた筈だ。あの辺りは古くから住職の先祖の持ち土地であった。明治の初め頃に移住先を探していると寺を頼ってきた者達に快く土地を分け与えたのが、あの集落の始まりと聞いている。


 当初は強雨が降る度に湖とそこから流れ出る川が氾濫し水害を起こしていたが、湖に棲むと言われている水神を手厚く祀る事でそれも治まった。それ以後二十年毎に、巫女の家の者とこの寺の僧侶が儀式を執り行ってきたのだ。先代の僧が儀式を行ってから今年で十九年、来年がその儀式の年であり、そして集落が始まってから丁度百年となる筈だ。


 どうにも嫌な予感がした。


 住職は自室の前で立ち止まり一瞬躊躇した後、思い直して玄関へと足を向ける。明かりを灯し年季の入った黒電話の受話器を握ると、意を決し記憶にある番号を回し始めた。


  *

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