13:女子生徒1
「私達は帰ろうか」
声をかけると、夏美は席に鞄を置いたまま朱里の隣まで歩み寄ってきた。
「ごめんなさい、朱里。私、今日は約束があるの。だから、先に帰っていて」
「約束って?」
何気なく問い返してしまったが、朱里はすぐに自分の迂闊さを後悔する。夏美は誰の目から見ても、童顔で可憐な少女である。彼女に想いを寄せる男子生徒は少なくない。中等部の頃から、放課後に呼び出されて告白されるということがよくあった。
「えっと、いいや。変なこと聞いてごめん」
夏美は一人で戸惑っている朱里を見て、何を想像したのか察したらしい。口元に手をあてて、小さく笑った。
「違うのよ、朱里。私、部活の見学をしようと思って」
「部活?」
意外な答えに朱里は素直に驚いてしまう。
「夏美、どこかの部に入るの?どこ?何部?」
「まだ入ると決めた訳じゃないけど。家庭部の友達が声をかけてくれたから、少し覗いてみようと思って」
「家庭部かぁ。いいね、夏美にぴったり」
運動部は論外だとしても、家庭部なら夏美に負担がかかる心配もない。料理や裁縫をする夏美の姿は、自然に想像がついた。朱里が賛成すると、彼女は恥ずかしそうに眼差しを伏せた。
「だから、今日は先に帰っていてね」
「うん、わかった」
朱里は部活の見学へ向かう夏美に激励を送って、教室を出たところで別れた。学院を出るまでの短い道のりだが、いつも下校時に一緒だった気配がないのは、どこか物足りない気がする。けれど、夏美が頬を染めて打ち明けてくれた光景を思い出すと、朱里は素直に応援したかった。
幼い頃から身体が虚弱なせいで、夏美には周りの友人が当たり前に出来ることが出来なかったのだ。彼女が発作を起こして倒れ、救急車で搬送される光景を見たことがあった。詳しい病状は知らないが、夏美が積極的に部活のことを考えているのなら、身体は少しずつ快方へ向かっているのかもしれない。
幼い頃から彼女を眺めてきた朱里にとって、新しいことを始めようとする夏美はとても微笑ましく映る。
「私も何かはじめようかな」
夏美の姿勢に共感しながらも、朱里は自分には真似が出来ないと吐息をついた。自分から新たな世界へ飛び込んでいくような勇気は持ち合わせていない。
いつからそうなのかは、もう判らなかった。出来るだけ人の影に隠れて目立たずに過ごしたいのだ。今となっては、幼い頃にからかわれた出来事を引きずっているとも思えない。けれど、体験は魂に何かを刻み込んでしまったのか、改めることが出来ない。
自身を人間不信だとは感じていない。幼少時代はそんな時期もあったのかもしれないが、幸いなことに、知り合う全ての人が朱里の容姿を差別する訳ではなかった。
麒一や麟華をはじめとして、同級生にも朱里に心を許してくれる友人は在った。そして、年を経るごとに、そんな人達の方が多数であることにも気がつくことが出来た。少なくとも朱里は、苦い思い出だけに縛られているつもりはない。
友達と賑やかにしているのも嫌いじゃない。人と接することに恐れを感じている訳でもなかった。
それなのに、何かを恐れているかのように、怯えているかのように、不安を感じている。
朱里には、自分の中にある不安や恐れがどこに根ざしているのか、理由が判らない。
幼い頃に鬼の娘だと囃し立てられた体験は、たしかに一因ではあるだろう。けれど、全てではないのだ。
だから、理由がわからない。
今、手にしている幸せに満たされているからだろうか。
誰の悪意を感じることもない、平穏な日々。
その穏やかな立場を壊したくないという執着。いつ、いかなるきっかけで亀裂が生じるのか判らない不安。
(考えるほど、くだらない理由になる)
いつでも思考の行き着く先は決まっている。納得のできる原因を見つけることは出来ない。自分の中に潜んでいる、翳り。いつも囚われている、何か。
(どうでもいいや。……マイペースで)
昇降口から校庭へ出ようとすると、聞きなれた声に呼び止められた。
朱里はギクリとしたが、そのまま聞こえないふりをして出入り口へ歩いていく。
「
(私は先生に関わりたくないっ)
心の中で悪態をつきながらも、朱里は大股に進めていた歩みを止めた。諦めて振り返ると、副担任の
「何でしょうか」
冷たい口調で応じると、彼は肩を竦めたまますごすごと間近まで歩み寄ってくる。既に正体を知っている朱里としては、その様子が不自然すぎて周りの反応が心配になってしまう。
「天宮さんは帰宅部のようですね」
「はい。そうですけど……」
答えながら、しまったと思ったが後の祭りである。遥は口元に笑みを浮かべて、満足そうに頷いた。
「それは好都合でした。では、約束どおり私のお手伝いをお願いします」
「は?」
呆然としている朱里に微笑みかけて、遥は背を向けて歩き出した。朱里は勝手に話を進めてしまう副担任に苛立ちを覚える。こちらの問いには答えず、朱里を振り回すだけの言動。出会った夜も、保健室でのひとときも、彼の言葉は朱里を惑わせるだけだった。
朱里は強く掌を握り締めて、とりあえず昇降口から廊下へ戻っていく遥について行く。二人で人気のない理科室の棟までやってくると、朱里は前を進むよれよれの白衣を見据えて抗議した。
「黒沢先生。私は先生のお手伝いはできません」
はっきりと訴えると、彼は立ち止まってゆっくりと朱里を振り返った。
「助けが必要だと言うのなら、誰か違う人に頼んでください」
「どうして?」
前髪と分厚いレンズに隠された遥の表情を窺うことは出来なかった。朱里は彼の問いかけを無視して、そのまま踵を返す。立ち去ろうとすると、視界の端にひるがえる白衣が映った。朱里が一歩を踏み出す前に、遥に行く手を遮られてしまう。
「君は何を怒っているんだ」
サラリと言い当てられて、朱里は返す言葉を失ってしまう。遥は目立つ眼鏡を外して、素顔のままじっとこちらを見下ろしている。
「お、怒ってなんかいません」
「じゃあ、拗ねているのか」
「だ、だから、怒ってもいませんし、拗ねてもいません。とにかく、眼鏡をかけてください」
その素顔を見せるのは卑怯だと、朱里は赤くなった顔を隠すように俯いた。
「私は先生のことがよく解りません。何が目的なのか、何をしたいのか、全然解らないんです。だから、お手伝いはできません」
俯いたまま一息に伝える。わずかな沈黙が恐ろしく長かった。遥は身動きする気配もなく、じっと朱里の前に立ち尽くしていた。
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