10:異変

 六時間目の授業は体育だった。学院指定の運動着に着替えた女子生徒が、ばらばらと校庭に集まる。朱里あかり夏美なつみと並んで、のろのろと集合場所へ向かった。

 校庭の向こう側には男子生徒が集まっている。朱里は最終の授業だけでも彼方が出ていないかと思わず探してしまうが、やはり彼が登校している様子はなかった。


「今日の授業は何をするのかしら」


 夏美の声で、朱里は再びこちらに意識を戻す。同じように運動着を着用しているが、夏美が授業に参加したことは一度もない。幼い頃から体が弱く、激しい運動を止められているのだ。


「見学でも、見ていて面白い授業とかある?」


 朱里や夏美と同じように、幼等部からの顔なじみである速水佐和はやみ さわが後ろから顔を出す。彼女は虚弱な夏美とは対象的で、運動部に所属している活発な生徒だった。佐和は今朝も部活動の朝練で朝礼には間に合わなかったようだ。運動部に所属している生徒にはよくある光景で、彼らはいつも授業開始のぎりぎりで滑り込むが、運動部の朝練については担任も了承していて、朝礼の出欠には問題がないようである。


 朱里は学級内では夏美と佐和、この二人と行動を共にすることが多い。幼馴染の気安さが手伝って、自然とそうなってしまうのだ。

 夏美は佐和の些細な質問に一瞬眼差しを伏せた。何かを考えてから「競技の好き嫌いにもよるけれど」と答える。


「球技の試合ゲームなんかを見ているのは楽しいわ」

「観戦している気分になれるんだ?」

「……ええ、そうね」


 ためらいがちに答える夏美が、朱里の目には寂しげに見えた。校庭の片隅で見守っている役柄に飽きているのかもしれない。だからと言って慰めるのもおかしい気がする。朱里はあえて何も言わず、校庭を眺めて指差した。


「今日って、もしかして高飛びじゃないの?」


 広い校庭の端に、高飛びのマットや器具が並んでいた。五限目の授業で使用されたものかもしれないが、片付けられずに在る処を見ると可能性は高い。

 佐和は「ハイジャンプ?」と、新たな競技に顔を輝かせている。陸上部に在籍している彼女は短距離走をやっているが、球技や体操など、どんな競技もそれなりにこなしてしまう。基本的に運動神経や反射神経が発達しているのだろう。朱里には羨ましい限りだった。


 まもなく体育の教師がやって来て、生徒が慌しく整列した。夏美は列には入らず、教師の斜め後ろに控えている。

 授業は予想どおり、高跳びだった。

 教師が競技について一通り説明をしてから、佐和の部活仲間で高飛びをやっている生徒が、見本を披露した。跳び方にも幾つかあるらしいが、中でも背面跳びがあまりに華麗で、思わずその場で拍手が巻き起こる。


 とりあえず自由な跳び方で順番に生徒が挑むことになった。初心者の朱里は足を高く上げて超える横跳びが精一杯である。着地した時のマットの心地よさが新鮮だった。


「はーい、次、速水が行きます」


 佐和が陽気な声をあげて、踏み切り地点を目掛けて駆け出した。高飛びは専門外であるのに、彼女は既に一メートル五十の高さに挑戦していた。朱里も他の生徒達も、期待の眼差しを向けている。

 朱里はバーを支えている支柱の隣に立って、佐和の跳躍を見守っていた。


 歩数を確かめるように、佐和が走ってくる。踏み切りは成功で、彼女の足はまだ数センチの余裕を持って棒をこえた。体全体がしなやかに障害物よりも高い位置を流れていく。朱里が跳んだと思った瞬間、ふわりと棒が揺らぐ。それは佐和の体に吸い寄せられるように支柱から外れた。まるで意志を持った生き物のように、佐和の細い足に引っ掛かる。

 彼女がマットに沈む瞬間、朱里は飛び出す。何も考えずに腕を伸ばしていた。


「佐和っ!」


 棒は佐和の腿辺りに斜めに張り付いたまま、不自然に落下する。朱里は目の前で信じられない光景を見ていた。このまま棒が折れると佐和の背中を貫いてしまう。夢中で思い切り彼女の体を突き飛ばしていた。

 バシリと何かが折れる鈍い音が響く。同時に女子生徒の悲鳴が巻き起こった。


「天宮っ!」


 教師の声を聞きながら、朱里はマットの上に赤い染みが印を描いているのを見つけた。


「あ、朱里っ」


 佐和がマットの上を這うようにして、朱里の処へやって来た。状況が把握できないものの、彼女の無事が確認できて朱里は大きく息をついた。ゆっくりと体を起こすと、左腕が赤く染まっている。


「うわっ」


 ようやく怪我に気がついて、朱里は自分で驚いてしまう。マットの赤い染みが自分の血だったとは思ってもいなかったのだ。じんと痛みを感じると同時に、佐和に肩を掴まれた。


「朱里。大丈夫? 私のせいで。とにかく、保健室に」


 慌てふためいている佐和の背後から、教師がやって来た。周りを見ると、生徒達が輪を作っている。夏美は予想外の事故に驚いたのか、血の気の引いた青白い顔でこちらを見ていた。流れ出た血や怪我が生々しくて恐ろしいのかもしれない。


 教師が朱里の怪我を確かめて大事には至らないと結論出すと、すぐに佐和が「私が一緒に保健室に行ってきます」と申し出た。教師は頷いて、騒然としている生徒達に声をかけて、授業を再開する。

 佐和が大袈裟に体を支えようとするので、朱里は「くすぐったい」と笑って見せた。


「大丈夫だよ、佐和。かすっただけだし」

「だけど。ごめん、朱里」

「佐和のせいじゃないよ。ほら、もう血も止まっているし」


 朱里は運動着の端で無造作に血を拭った。


「ちょっと、朱里。体操着が汚れるってば」

「どうせ汚れているから、洗えば同じ。それに、ほらほら。派手に見えるけど、怪我はこんな小さな傷だよ」

「――うん。でも、良かった。それで、ありがとうね。なんか危ない位置に棒が引っ掛かっていた気がしたんだ。まさか折れるなんて思わなかったからさ。朱里が突き飛ばしてくれなきゃ、串刺しだったかもしれない」


 朱里は「そんなことないよ」と笑ってごまかしたが、佐和の危惧は正しかっただろうと思えた。


(だけど、佐和の体はバーに触れていなかったのに)


 バーをこえた瞬間からを思い返してみると、やはり何もかも全てが不自然すぎる。

 佐和の体は棒よりも高い位置にあったのだ。朱里はかすることもなく過ぎてゆく体を確かに見ていた。なのに、何の衝撃も受けていない棒が、ゆらりと動いたのだ。瞬間、朱里はぞくりと背筋を貫く悪寒を感じた。重力を無視して浮き上がり、佐和の足元に張り付いて不自然な角度を保ったまま落ちていく様は、まるで生き物のようだった。朱里ほど近くで眺めていなければ、その不自然さは分からないのかもしれない。跳躍の高度が足りず、佐和の体が棒に触れて、足に引っ掛かったまま落ちたように見えるのだろう。


 けれど、朱里にはどこかこの世の法則を無視しているような光景に映ったのだ。

 もちろん一瞬の出来事なので、朱里の錯覚なのかもしれない。けれど、仮に錯覚だとしても、棒が折れた瞬間はさらに不可解だった。


(それに、棒は空中で折れた)


 これも佐和を突き飛ばしてマットに沈み込む瞬間に垣間見ただけなので、錯覚なのかもしれない。それでも、朱里の脳裏には鮮明に刻まれている。

 目の前でねじられたように、細い棒にはみるみる亀裂が走った。やがて、引きちぎられる様に折れて破砕音を響かせる。重みなどの衝撃を受けていたとしても、あんなふうに真っ二つに砕けるものだろうか。高飛びの棒は弾力性がある。落下地点には衝撃を和らげるマットもあるのだ。少々の衝撃では折れない作りになっている。


 考えるほど、何もかもが不自然だった。

 朱里は佐和と校庭を歩きながら、視線のようなものを感じて顔をあげた。校舎の窓から白い人影がこちらを見ている。


(あれは、白衣?)


 目を凝らすとそれは副担任だった。眼鏡を外しているようだが、遠すぎて素顔を確かめることが出来ない。彼は朱里の視線に気付いて意味ありげに校庭を指差した。朱里が振り返ると、再開された授業風景が視界に入った。その傍らで夏美がこちらを向いている。本当は一緒に付き添いたいのかもしれないが、さっきの様子では怪我を直に眺めているのが苦手なのかもしれない。朱里は自分達の心配をしているのだろうと、佐和と一緒に元気良く手を振って見せた。夏美も同じように手を振ってくれるが、朱里は思わず目をこする。


「どうしたの? 朱里」


 佐和に声をかけられて、朱里は「何でもない」と保健室を目指す。


(きっと、私の錯覚だ)


 佇む夏美や生徒達が授業に励んでいる光景を取り巻くように、黒いもやが見えたのだ。立ち昇る陽炎かげろうのように、ゆらゆらと暗い影だった。

 朱里はもう一度、副担任を見つけた校舎の窓を眺める。

 彼の姿は既にない。朱里はどこか残念な気分で、そっと吐息をついた。

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