二章

10話 ユリア(1)




「今日もお疲れ」

「あー。もうくたくたぁ。今日も今日とて、侍女さまがたのご気分指示にはついていけないんだけど」

「ほんとそれ」


 ため息を吐き、丸めていた背を伸ばしながら歩いている二人の女性は、仕事中にきく声よりも何トーンも低い声音で業務の愚痴をこぼしていた。

 時折、肩を押さえ腕を回し、首を鳴らして歩く。そんな彼女たちから三歩後ろを歩いているユリアにも、バキバキといった音は聞こえて来ていた。


「肩やばい」

「あの馬鹿でかい窓の掃除担当からいつ変えてもらえるんだか」

「ずっと腕を伸ばしてるのもきついのよね」


 ユリアもそれに習うようにして、歩きながらグイッと首をひねれば、パキッと軽快な音が鳴った。思っていたよりも大きく響いた音に目を丸くしたユリアだったが、なんだか少し疲れが和らいだように感じ、肩も回して肩甲骨あたりの骨も鳴らす。

 ゴリゴリとした音が鳴り、ついでに少しばかり痛む腰を両手の親指で押すようにして伸びれば、全身の倦怠感がわずかに解消されたようにも思えた。

 

 小さく息を吐きながら、頭につけた三角巾を外して大雑把に畳み、過酷な業務を終えたその後は『女子寄宿舎』へ寄り道することなく向かうのが、ここ数日のユリアに身についたルーティンだった。


 

 つい最近、ユリアはキュクヌス帝国の皇城に勤める下女となった。

 現在、女主人のいない皇城では、皇帝陛下の乳母である老女をはじめとした子が成せる年齢を過ぎた熟年女性数人以外、みな下女として雇われている。

 未婚である皇帝陛下の子を孕らないための措置として、妙齢の女性は彼から遠い場所で働かせているらしく、担当場所はどこも皇帝陛下の私的な場所からは遠い場所に割り振られる。……しかも、業務は過酷。

 

 本来なら、皇城勤めといえば貴族令嬢や夫人が喉から手が出るほど欲しがる地位だ。

 皇族の近くで働くのが一種のステータスであったり、場合によっては他国の高位貴族や王族に見染められることだってある。しかし、現在のキュクヌス帝国では、ような場所とはいえない。女主人が不在のいま『貴族令嬢はお断り』とされている場所だ。

 

 つまり、下女として働いているのは賃金の高さにやってきた平民か、騎士や城勤めの男性を狙う女狐みたいな野心を持った人たちである。

 ……とはいっても、それなりに選別はされているのは確かで。あまりにも教養というよりも常識がなさすぎると、偶然通りかかった皇帝陛下によって、物理的に首を切られてしまうこともある物騒な職場である、のだが――。


「今度の休みの日、予定空いてたりする? 次の給金は多くしてくれるらしいし、新作のメイク用品でも買いに行かない?」

「空いてる空いてる! 実は狙ってるワンピースを誰かに取られちゃう前に買っちゃいたいんだよね」 

「そういえば、この間さー」

「聞いてよ、今日の担当場所が――」


 ユリアは、この下女たちの雰囲気に溶け込めないでいた。

 前を歩く二人だけではなく、従業員用の出入り口からぞろぞろと出てきた同じ制服を着ている女性たちが、女子寄宿舎までの道を談笑を交えながら歩いている。


「今度、いい感じになっている騎士の彼とデートに行くんだけど」

「え! そうなの!?」

「あたしは、厨房でコックやってる人ー」


 恋愛話に花を咲かせている群れの中で、一人ぽつんと歩いているユリアだけが異様に見えてしまうところを「あ! リズたち同じ時間だったんだね!」と風を切るように追い越してバタバタと駆け寄っていく人もいる。


 もっと、厳かで殺伐としていた場所だと思っていたのに……。

 その言葉を口に出すことなく、ユリアはただ、荒れた手で拳を作っていた。


 いつの日か、一際目を引く宝石のようだと喩えられた青い瞳を閉じるユリアの顔には、そこはかとない憂いが浮かんでいた。

 


 


 寄宿舎は、どこの棟も外装や内装にあまり変わりはない。

 食堂と大衆浴場と共有トイレ。

 居住スペースは三人一部屋で、ベッドとデスク、小さなクローゼットがそれぞれにあてがわれている大変質素な部屋だ。

 女子寄宿舎では、好きなように飾り立てるような人が多いけれど、支給されたそのまま何も増やすことなく使用している人もわずかながらにいる。


 ユリアは後者だった。

 クローゼットには必要最低限の服しか入っておらず、デスクには毎晩塗っている軟膏クリームと革製の日記帳があるだけで、それ以外の私用品はない。

 可愛い便箋ひとつ、引き出しには入っていない。

 同室の女性二人がそれぞれ好きに飾り立てているからか、ユリアのテリトリーは支給されたそのままのはずなのに、なぜかそれ以上に質素で、その場所だけポッカリと生活感がなかった。


 なんて、ひどく寂しい空間だろうか。

 日勤の下女が溢れかえっている寄宿舎のエントランスを抜け、部屋へと戻れば、先に帰っていた同室の女性二人と鉢合わせる。

 横に並んだベッドに腰掛け、業務の愚痴を言い、次の休みについての話をしている。

 普通ならば会話を中断して「おかえり」とか「お疲れ」とかあるのだろうが、彼女たちはユリアを一瞬だけ見てまたお互いの会話に戻る。

 ユリアも声をかけようとしないからか、部屋に入って真っ直ぐに自分のデスクに三角巾を置き、エプロンを外して椅子に掛けた。そして、そのまま食堂へ向かって早めの夕食をとり、浴場で湯に浸かり、日記を書いて寝る、というルーティンをこなすのだ。


 今日も、その予定だった。

 業務上で同僚と言葉を交わす以外に誰とも言葉を交わさず、ただただ同じ毎日を繰り返していくことが、自分の贖罪だと思っていたユリアに、変化をもたらしたのは同室の二人が交わしていた変な会話だった。


「そういえばさ、今日の担当した場所で偶々聞いちゃった話なんだけど」

「えーなになに、あの愛人が誰だかわかった話とか?」

「いやいや。さすがにそれは聞けないって」

「じゃあ、あのセルペンス男爵の――」

「それでもなくって。……皇帝陛下が、南にある国を攻め落として帰ってきたらしいんだけど、なんでもそこから王族の、しかも女を連れ帰ってきたらしいの」

「えー!? ベスそれ本当!?」

「しー!! アンナってばあんまり大きな声出しちゃだめ! で、で、侍女を選別するって会話が聞こえてきちゃったの」


 口元を隠し声にならない叫びをあげているアンナと、ユリアの方をチラチラと気にしているベスは、言葉を続ける。


「決まるまでは、侍女さまがたが交代で付くらしいんだけど、年齢の近い人をつけることを考えてるらしいから、あたしたちから選ばれるかもしれない」

「そしたら、皇城内の侍女部屋が使えるんでしょ!? やばい、選ばれたい!」


 ……選ばれるわけがない。

 そんな言葉が、ユリアの喉元まで出かかっていた。

 王族ともなれば、貴族女性が侍女となるのが普通だ。実際、皇城にいる侍女は皇帝陛下の亡くなられた母君の元侍女であり生まれは貴族。平民が侍女に選ばれるなんて話を、ユリアは聞いたことがなかった。


 どうせ、どこかのご令嬢が決まるでしょうに。

 くだらない話を聞いてしまったと、部屋を出ようとした時だった。


「そういえば、南にある国って、どこ?」

「えぇと、なんて言ってたっけな。確か、ウルペース国、だったかな。ほら、貴族が旅行によく行くっていう」

「えぇ!? 本当!? お金貯めたら行こうと思ってたのに……。皇帝陛下が進軍したんじゃ、焼け野原になってるじゃん」

 

 ユリアは聞こえてきた国名に、目を大きく見開かせた。

 呼吸が止まり、音も止まってしまったかのように感じ、平衡感覚も失いかけた。

 ぐるぐると頭の中を巡るのは、友人として慕っていた女性のこと。

 あまりにも眩しい存在だったのに、他国に住まうユリアを友人といい、ウルペース国へと嫁いでも細々とした交流を続けていた美しい人の顔が、ユリアの中で思い出されていた。

 

 皇帝陛下が、また国を攻め落としたというのは耳にしていたが、まさか、彼女の国だとは思いもしなかった。

 ユリアは、よろよろとしながら部屋を出る。アンナとベスから向けられる怪訝な視線は、全く気にならなかった。そして「なんか様子変じゃない?」「もしかして、交流でもあったんじゃない?」とか、そんな言葉もユリアの耳には届かなかった。


「いや、でも、ずっと表に出てなかったお姫様らしいけど。そうでもなきゃ、あたしら下女から選ぶとか書記官さまも言わないだろうし」

「まぁのユリアだったら交流あったんじゃない?」

「あー……、そゆこと」


 

 部屋を離れ、足元がおぼつかなかったからか何もないところで躓いたユリアは、そのまま体を壁に預けるようにして、もたれかかっていた。

 手紙で交流をするのにも憚れる身となってしまったユリアに、また友人と交流ができる運が巡って来たのだと、彼女は喜び、そして友人だけが生き残ってしまったことにこの上ない悲しみを覚えた。


 あの皇帝陛下が連れ帰ったとされる王族の女性とは、きっと、彼女に違いない。

 ユリアの知る彼女の美しさは、目が眩んでしまうくらいのものだったから。あの皇帝陛下すらをも魅了し、無理やり連れられてきたのだ。

 ……なんて、お可哀想な人だろう。

 愛する人がいた国を失い、自暴自棄になってしまっているであろう友人を支えられるのは自分しかいないと、ユリアは強く思い、そして、侍女に選ばれるよう、また明日から業務に励まなくてはと奮起した。

 



 

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