第5話

 期末テストが終わった日の放課後、今日から解禁となる部活動のため私は一人で美術室に籠る。


 何も書かれていないキャンバスを部の備品のイーゼルに立てかけた。今まで描いていた山の風景画は自宅に置いたままにしてある。



 あれはあれでそのうち完成させる。でも今描きたいのは、黒田君に見せたいのは違う絵だ。秋の山の木々。紅葉こうよう。青い空と白い雲。黄色交じりの緑と赤のコントラストはえも言われぬほどカラフルで美しい。でもその美しさを、私が感じた美しさを黒田君は味わえない。それでは意味がない。


 私はただ一色、黒の絵の具だけを用意してキャンバスの前に座った。


 これは色覚異常を持つ黒田君への同情ではない。友達として、正真正銘同じ感想を共有したいというただのわがまま。


 黒なんて他の色を塗りつぶすつまらない色だと思っていた。私の絵において光り輝く他の色たちを際立たせる背景の闇でしかなかった。


 でも今は違う。黒田君を見て知った。色々な黒を黒田君は教えてくれた。優しい黒。冷静な黒。真剣な黒。ぎこちない笑顔の黒。

 


 描いている絵自体は変わらない、遠足で行った山の風景画。白一色のキャンバスに黒が加わっていく。黒田君から教わったたくさんの黒が世界に広がる。


 完成した絵を見た時の黒田君の表情を想像しながら描くのは楽しかった。期待を裏切ってあっと言わせたい。その一心で描いていたが、黒だけで表現するのは骨が折れ、何度も書き直し、なんとか完成にこぎつけた時には、冬休みの時間のほとんどを費やしていた。


 年明け、学校が始まる前日に私と黒田君は美術室に集まる約束をしていた。目的はもちろんお互いの作品を見せ合うためだ。


 午前九時前、職員室で仕事をしていた侑里ちゃん先生に鍵を借りて美術室に向かうとすでに扉の前で黒田君が待っていた。右手で書いてきた作品を持ち、左手には書道部が活動に使っている空き教室の鍵が握られているのを確認した。


「久しぶり。宿題は終わった?」


「おかげさまで、普通の量だったから」


「どっちから見せる?」


「じゃんけん、ポン!」


「え? あ、うわ、ずるい」


 右手がふさがっていて左手に鍵を握っている黒田君に突然じゃんけんを仕掛ければ左手でグーを出さざるをえない。その作戦は見事に成功してパーを出した私の勝ちとなり、黒田君の書道の作品から見ることとなった。


「一色さんがこんなにずるい人だと思わなかったよ」


「賢いと言って欲しいね」


「ずる賢い」


「ふふふ、褒め言葉として受け取っておくよ」


「仕方ないな……それじゃあ見せるよ」


 黒田君が美術室のテーブルの上に長細い書初め用紙を広げる。そこに書かれていたのはとても書道の作品とは思えない、カラフルな文字たちだった。


「これ、コンクールとかに出せるの?」


「いいや。コンクール用のは別に書いたよ。これは一色さんに見せるためだけに書いた。渾身の一作だよ」


「黒くて綺麗な字を期待していたんだけど」


「期待通りにならないのが世の常。そんなこと抜きにしてどう? 感想は」


 黒田君渾身の一作は赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の虹の七色の墨汁で書かれた【打ち上げはなび】という七文字。黒田君らしいしっかりとした綺麗な字だ。


「なんではなびって平仮名なの?」


 虹色を全部使うための文字数合わせだろう。知った上で尋ねた。


「そりゃあ、平仮名の方がなんか可愛いでしょ?」


 知っていた。黒田君はいつも私の予想通りにはならない。でも、必ず予想以上の、期待以上の正解をくれる。嬉しいけど、反応するのが悔しいので素直に感想だけを告げることにした。


 口角が上がっている自覚はあり、黒田君に見られているのも分かるが、平静を装う。


「カラフルで綺麗」


「ありがとう。これ以上にない褒め言葉だよ」


「季節感はないけどね」


「言うと思った」


「コンクールに出さないってことはさ、もらってもいい?」


「お好きにどうぞ」


 新しい宝物を破れないように、濡れたり汚れたりしないように丁寧に鞄にしまって次は私の番。イーゼルに乗せたキャンバスに描かれた絵が見える位置に黒田君を小走りで誘導する。


「走ったら危ないよ」


「はーい、黒田先生」


「まったく――」


 呆れた顔のまま私からキャンバスに目線を動かした黒田君の目が見開かれた。目どころか口まで半開きになって固まっている姿は、私の絵が黒田君の心に何らかのインパクトを与えられたことを意味している。


 上の階にある音楽室から吹奏楽部が楽器を吹く音が聞こえ始めた。楽器には詳しくないがおそらくトランペット。曲になる前の途切れ途切れのメロディーたちは、この美術室のBGMにはふさわしい。不完全で、未完成で、これから何かが始まるかもしれない。そんな可能性を感じた。


「感想は? 見惚れてないで何か言ってよ」


 黒田君は小さく息を吐いてから私を見つめた。その瞳は穏やかで澄んだ黒をしている。


「カラフルで綺麗だ」


「黒しか使ってないよ」


「それでも想像できるんだ。この白黒の世界はきっと色鮮やかなんだろうなって。実際には俺がまともに見ることができない美しい紅葉こうようの風景が頭の中に思い浮かぶんだ。青い空と白い雲、緑と赤の中に黄色が混じって、綺麗なんだろうなってイメージできる」


 黒田君は右手の人差し指をキャンバスにぎりぎり触れない距離まで伸ばし、私がキャンバスの白と黒の絵の具の濃淡だけで表現した木々たちをなぞる。愛しいものを愛でるかのようなその仕草に、私はくすぐったくなってつい身をよじった。その姿に黒田君が気がついて噴き出すまで何分経ったかは分かりもしない。


 吹奏楽部が奏でる音楽はいつの間にか綺麗なハーモニーとなって、美術室を幸せで包み込んでくれた。


「ありがとう、一色さん」


 黒田君の目から涙が一筋流れているのが見えた。


「お礼を言われるようなことはしてないよ」


「白と黒だけでこんなにすごい絵を見せてくれた」


「白黒の絵なんていくらでもあるよ。ほら、水墨画とか」


「そうだけど、そうじゃないんだ。一色さんが描いてくれたってことに意味があるんだ。俺の目のことを知っている一色さんがこの絵を描いてくれたことが俺はたまらなく嬉しいんだ。理由は自分でもよく分からないし、これが俺と同じ目を持っている人全員に対して正解なのかは分からないけど、少なくとも俺は感動しているんだ。俺の目でも、他の皆と同じ感想を抱かせてくれそうなこの絵を一目で好きになった」


「そっか……そんなことを言ってもらえるなら描いたかいがあったよ」


 いつも自分のために、自己満足で絵を描いた。誰かのために絵を描いたのは今回が初めてだ。


 心が晴れやかでくすぐったい。コンクールで優秀賞をもらった時なんか比べ物にならないくらい喜びに満ちていて、黒田君に抱き着いて飛び跳ねたい衝動を必死に我慢した。

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