#8:Disposal.

(これからどうすれば良いんだろう…)


ボクは、生きる目的を完全に失っていた。毎週欠かさず観ていたアニメも、三分と観ることができない程迄に精神は疲弊していた。


一度目の休職期間中は、復職に向けて前向きに、心と体が健康になっていくことを感じられていたし、正直言って楽しく過ごせていた。二度目の休職を言い渡された今のボクは、『ダメ人間』というレッテルを貼られた、惨めな存在のように思えた。


死んでしまった方が楽かもしれない…何もかも全部捨てて、どこか遠くで静かに逝こうと本気で思っている自分がいた。


自宅マンションで自殺しても、電車に飛び込んでも、天文学的数字とも言えるような、莫大な金額の損害賠償を請求されるかもしれない。死ぬのも無料ただじゃないんだなと思うと、心底馬鹿らしくなってしまった。


スマホの契約や、電気もガスも水道も、インフラの供給を止めて、銀行口座の暗証番号を文章にでも残して、葬儀はしなくてもいいから、貯金の中からマンションの退去費用を捻出してもらえばお釣りは来るだろうと、死ぬことを前提としたシミュレーションを日々繰り返していた。


でも、そもそも明日生きている保証なんて、誰にも分からないことで、明日になったら、もう目覚めることは無いかもしれない。そう思うと、何となく身辺整理をしておこうと、自宅中の無駄を消し去ることを始めた。


死ぬことは『たいして』怖くはなかった。どういう死に方をすれば、出来るだけ早く発見されるのか。10年以上会ってもいない両親や兄に、連絡がいくのだろうか。休職しているから、会社から捜索願が出ることは無いだろうし、クリニックの先生から会社なりに連絡が行くかもしれないけれど、緊急連絡先を伝えた記憶は無かった。


そんなことを考えるのは不毛な気がして、とりあえず自宅にある『お金にならない』ような、不用品の整理から始めることにした。


買っただけで新品のままの掃除グッズ、賞味期限が切れてしまっている調味料、浴びるほど飲んでいた頃に買った中途半端に残っているリキュール、食事を作る気力が無くなってしまってから、放置し続けていたお米。充電ケーブルを挿していないと稼働しないiPod、試供品でもらったシャンプーや歯磨き粉、使わないのに取っておいたショッパー。中には何で今まで捨てずにいたのか分からない物もあって、意外と骨が折れた。


寝室のクローゼットにあった、何を入れているのか覚えていない、収納ボックスに手をつける。


『開けるべきじゃなかった』と、すぐに後悔した。


ここに引っ越してきてから、そのまま放置し続けて、意図的に見ないようにしていたのに、最悪のタイミングと精神状態で我を忘れていた。


ボックスを開けた一番上には、記憶の深淵に置いていた一冊の『アルバム』が鎮座していた。


これを見ても涙が出ることは無かった。


こんなにも薄情で、性格が破綻してしまっている自分は、あの忌々しい両親の血を引いていて、それを否定し続けていた自分も、両親と同じで、他人の気持ちなんて尊重できない、自分勝手で腐った人間なんだと改めて思い知った。


アルバムを開くと、あの日、あの決意をした、一枚のポストカードが、贅沢に1ページ目を占領していた。


それ以降のページは、ボクには見る資格は無いと思って、開くことは出来なかった。




最後に観たい景色があった。


飛行機に乗るのは何年振りだろうか。学生は春休みの時期だったけれど、平日なので空席が目立っていた。


天気予報では晴れマークが続いていたので、傘を持たずに来れたことは運が良かった。


『気分転換に旅行をするのも良い』と思ったのは、うつ病患者だった作家さんの書いたコミックエッセイで、ベトナム旅行をしたという話を読んだ影響だった。


日常と違う環境に身を置いて、自分を見つめ直してみたかった。


東京は未だ寒さが残っていたけれど、旅先は春を感じる暖かさがあって、それだけで心がほぐれて、ほんの少しだけ幸せな気持ちになれた。


目的地には早めに着きたかったけれど、出来るだけ身軽で行動したくて、ホテルに荷物を預けることを最優先にした。


荷物があれば、とりあえず戻る場所がある、そんな心持ちだった。


街の雰囲気は、12年前に来た時と変わっているのか、あまり良く分からなかった。当時は、気もそぞろで観光どころではなかった。ここに来る時は、いつも心ここに在らずだった気がする。


それが良かったのか悪かったのか、今回は見える景色が全て新鮮で『観光地』だけあって、旅人を大いに歓迎してくれている雰囲気が漂っていた。


(誰もボクの事を知らない…病気のことも過去のことも何も知らないんだよな)


そんな環境に居ると、自己肯定感を高めることができた。




目的地に着いたボクが観た『その景色』は、あの時から何も変わることなく、そこに存在していた。


透き通った青い海と、どこまでも続く水平線。裸足で歩いた白い砂浜の感触も、当時のままだった。


「綺麗だな…」


広がる景色の美しさと壮大さは、ちっぽけなボクを際立たせるもののように感じたけれど、抱えている悩みも、積み上げて崩してしまった仕事や環境も、小さいことのように思えた。


この海だって、いつも穏やかな顔をしているとは限らない。何もかも飲み込んで消し去ってしまう、恐ろしい一面を持っている。


何もかも全てが上手く行く訳はない、そう分かっていたけれど、自分の抱えている弱さや想いは、小さいものなんかじゃなかった。


向き合いたくないものだってあるし、見たくないものもある、逃げ出してしまっても良い。


誰かに助けを求めることも出来たはずなのに、それが出来ない人もいる。簡単に相談しなさいなんて言われても、出来ないものは出来ない。


自分の頭の中で、色んな感情が支離滅裂に交錯して、涙になって流れ出した。


嗚咽しながら見る海は、滲んでキラキラと輝いていた。


あまりにも綺麗で眩しくて、いたたまれなくなって、涙を乾かそうと仰向けに寝転んだ。気がつくとその場で眠ってしまっていた。


また、あの光の夢を見た。


目が覚めると、夕陽が水平線にかかりそうになっていて、まるで『あの日見た景色』を再放送で観ているようだった。


ふと手元を探ると、読もうと思って持ってきていた小説が開いていて、挟んでいた『あのポストカード』が無くなっていた。


砂を踏みつける音が近づいてきて、海を描いたポストカードがボクの目の前に差し出される。


その姿は、逆光でシルエットになっていて良く見えなかった。


「これ、風で飛んできたんですけどアナタのですか?」

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