第12話

 ◇

 

 夜の帳が下りた森の中は、穏やかな静寂が流れていた。

 シドリウスは屋敷の裏にある工房で薬を作っていた。

 作る、と言っても薬師のようにシドリウス自らすりこぎ棒やナイフを手に作業をするわけではない。すべて魔法で操作して、工程を確認しながら一つの薬を完成させる。

 今回作っているのは喘息を抑える薬だ。

 これは常連客のための薬で、彼とはそろそろ五十年くらいの付き合いになる。

(あんなに小さかった子供がもう年寄りとは。いつものことながら人間は短命だな)


 竜は人間とは違って千年も二千年も生きられる。その一方で長命種の竜は短命種の人間と違い、厄介な問題を抱えている。

 それは寿命のほとんどの時間を、運命の番探しに費やさなくてはいけない点だ。

 運命の番とは、生涯の伴侶を意味する。竜は狼やハクトウワシなどと同様に、一生涯に同じ相手と添い遂げる。

 竜のオスもメスも出会えた番を大切にし、それはそれは相手を慈しむのだが、大半の竜は番に巡り会えないまま寿命を全うする。

 もともと竜の数が少ないのもあるが、彼らの運命の番に何故か人間が含まれることにも原因がある。


 数の少ない竜に対して人間の人口はその何倍にも相当する。しかも人間は竜のように相手が運命の番だと認識できない上、竜が瞬きしている間に結婚を決め、子供を産み、老いていく。見つけ出せたとしても既に別の誰かと一緒になっていり、老いていたりする場合が多いのだ。

 竜は決して運命の番に妥協はしないが、相手に伴侶がいるとなれば潔く身を引く。

 したがって、運命の番を見つけ出すのは竜にとって死活問題であり、至難の業だった。


(フィリーネを見つけ出すまで千年掛かった。この六百年は大湖周辺から出られず、さらに三百年前からは生け贄も捧げられなくなった。もうダメだと諦観していたが、無事に出会えて良かった)

 大湖周辺から出られないシドリウスのもとにフィリーネが現れたのはまさに奇跡だった。

 イシュカがフィリーネを屋敷に運んで来たあの瞬間を、シドリウスは一秒たりとも忘れることはできない。

 竜は相手を視界に入れて初めて番かどうかが分かる。

 フィリーネを一目見るや魂が震え、喜びが産声を上げた。

 シドリウスは床に崩れ落ち、黄金の瞳から幾筋もの涙を流した。

「あの瞬間ほど強烈な幸せを感じたことはない」

 ぽつりと呟いたシドリウスは、改めてフィリーネが運ばれてきた時のことを思い返す。


 絹のように美しい白銀色の真っ直ぐな髪。固く閉じられた瞼の下には、長い睫毛が影を落としている。陶器のように滑らかな肌は触れると柔らかく、形の良い桃色の唇は可愛らしかった。

 フィリーネのすべてがシドリウスを魅了する。

 早くその瞳の色を確かめたい。その瞳に自分自身を映したい。

 独占めいたものを感じていた矢先、シドリウスは聞いてしまった。

『でん、か……どうして……』

 シドリウスの幸せは一瞬で吹き飛び、奈落の底に突き落とされたような感覚に陥った。

 これまで感じたことのない絶望感が心に押し寄せてくる。

 やっと巡り会えたというのに、彼女には既に相手がいる。


 殿下とはどこの誰だ?

 幼く見えるがもう結婚しているのか?

 その男をおまえは愛しているのか?


 様々な疑問が頭の中を駆け抜けていく。

 シドリウスは額に手を付け、長い溜息を漏らした。

 身を引き裂かれるような痛みが走るが、優先すべきはフィリーネの幸せだ。

 彼女がその男を愛し、幸せなのならそれを壊してまで自分の側には置いておきたくない。

 後ろ髪を引かれながらも、シドリウスは身を引く決意をした――次の言葉を聞くまでは。


『おねが……やめて……』

 掠れた声で懇願するフィリーネの長い睫毛の間からは、涙の珠がいくつも浮き出てくる。

 居たたまれなくなったシドリウスは、咄嗟に手を握り締め、もう片方の手で頭を優しく撫でた。そして、魘されているフィリーネに優しく声を掛ける。

『ここにはあなたを傷つける者は誰もいない。私はあなたの味方だ』

 力強く話しかけるシドリウス。しかし、フィリーネは眉間に皺を寄せたまま。

『……やっと見つけた私の花嫁。私の運命の番。もう決しておまえを離さない』

 フィリーネの苦しみを取り除きたい一心で、シドリウスはありのままの気持ちをぶつける。すると、その言葉を聞いて安心したのか、フィリーネは再び規則正しい寝息を立て始めた。


 後から本人に教えてもらったが、彼女はこの国の王太子から婚約破棄された挙げ句、崖の上に自生しているマツの木の精霊のもとに嫁がされた。

 マツの木には三百年ほど前に風の精霊が棲みついていたが、今は何も棲んでいない。それよりも気になるのは……。

「ご主人様、薬が依頼分より多くなっていますよ」

 あれこれ考えていたところで話しかけてきたのはイシュカだった。

 意識を引き戻し机の上を眺めてみたら、依頼分より多く薬を作ってしまっている。

 苦い笑みを浮かべたシドリウスは、動いていた道具を魔法で止めて片付けていく。


「浮かれてますね」

 肩を竦めて言うイシュカだが、その表情にはどこか安堵の色が滲んでいる。

「やっと番が見つかったからな。大目に見てくれ」

 シドリウスは側にあった椅子に腰を下ろした。

「竜族ではないおまえに言っても仕方がないのかもしれないが、フィリーネという存在が愛おしくて堪らない」

 フィリーネが側にいるだけでシドリウスは満ち足りた気持ちになる。これまでの生活が不幸だったわけじゃないが、心のどこかで常に空虚さが潜んでいた。

 それはふとした時に現れ、シドリウスの心を蝕んできた。しかし運命の番が見つかった以上、もう苛まれることもない。


 シドリウスは目覚めてからのフィリーネを思い出す。

 彼女の反応はどれもうぶで、どこまでも純真無垢だった。

 こちらは純粋な愛情表現をしているのだが、フィリーネの方は慣れていないのか何をしても顔を真っ赤にする。

 その反応があまりにも可愛すぎてついフィリーネを抱きしめたら、今にも泣き出しそうな顔をされた。あの時は内心焦った。

 本当はフィリーネをずっと抱きしめたいし、肌に触れていたい。しかし、自分の欲を優先させて嫌われたくない。

 フィリーネは、様々な悲運に見舞われ身の上だ。これ以上彼女の心を傷つけたくないし、悲しませたくない。


 シドリウスはフィリーネに触れたい気持ちを抑え、まずは別の形で自分の気持ちを伝えていこうと決意した。今日プレゼントしたドレスや装飾品はその一環である。

(そういえば、フィリーネは生け贄の意味を勘違いしているような気もするが……毎日私の気持ちを伝えれば嫌でも分かってくれるだろう。私がおまえを手放すことは一生はないのだと)

 人間は竜と違って運命の番を愛するとは限らない。

 必然的に愛を囁き相手の心を掴む必要がある。

 シドリウスはどんな手を使ってでもフィリーネの心を掴もうと考えている。

「次は何をしたら彼女は喜んでくれるだろうか」

 悩ましげな溜息を吐いて前髪を掻き上げていたら、イシュカが口を開く。


「運命の番が見つかって嬉しいのは分かりますが、気を緩めないでくださいね」

「無論だ」

 イシュカが胡乱な視線を向けてくるのでシドリウスはすっと背筋を伸ばした。

「これから忙しくなる。一時的な譲渡に過ぎないのに、この国を自分の国だと勘違いしている者たちから取り返さなくてはいけないのだからな」

 シドリウスは王都がある方角へ向かって目を細める。

 人間は短命だ。だから世代交代するにつれて約束の意味をはき違えてしまうのかもしれない。

(暗黒竜か……考えたものだな)

 シドリウスは口元に手を当てて考える素振りを見せた後、イシュカを見る。


「不死鳥の羽を燃やすときが来たようだ。おまえはオルクール城へ行き、どこに私が交わした契約書が保管されているか調べ欲しい」

「御意」

 イシュカは胸に手を当てて短く返事をする。

「それと」

 シドリウスは少し考える素振りを見せた後、イシュカに言う。

「この国の王族と名乗っている者たちを調べてくれ。特に王太子がどんな人間なのかを」

 最後の方になるにつれて、シドリウスの声が一段と低くなる。

 心得顔のイシュカはこっくりと頷いた。

「仰せのままに。王都にいる精霊たちはご主人様が帰還すると知ったら舞い上がるでしょうね」


 イシュカは慇懃な礼をしてから部屋の隅の暗闇まで下がると、空気に溶け込むようにして消えていった。

 薬を作り終えたのでシドリウスも休むために工房を出る。

 外はひんやりとした空気が流れていた。今夜は月が明るく、灯りがなくとも周りを見渡せる。

 シドリウスは空を仰ぎ、フィリーネがいる部屋を見つめる。寝てしまっているらしく、彼女の部屋に灯りはついていなかった。

「私が側にいる限り、絶対におまえを悲しませたりしない……」

 ぽつりと呟いたシドリウスは屋敷の中に入っていった。

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