第2章 生け贄兼愛玩生活、始まります

第8話

 翌朝、フィリーネの寝覚めは悪かった。

 というのも、昨夜はある種の緊張感に包まれてほとんど眠れなかったからである。

 その原因はもちろん、大切に可愛がると宣言したシドリウスだ。

 彼は言葉通りに次期食料であるはずのフィリーネを愛玩ペットとして可愛がり、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。

 腰辺りまである長い髪をブラシで丹念に梳かしてくれたり、お茶を淹れてくれたりした。

 誰もが息を呑むほどの美しさを持つ青年だが、その正体はこの世界で最強と位置づけられている竜だ。万が一、フィリーネが彼の機嫌を損ねでもしたら、片手でひねり潰されてしまうだろう。

 しかも、彼は歴史書上で言い伝えられている暗黒竜でもある。

 いろんな意味で畏れ多い相手に世話を焼かれたフィリーネは何度も兢々とした。


 自分ですると断っても、シドリウスからは「目覚めたばかりで体調も全開していないのだから遠慮するな」と一蹴され、押し切られた。

 侯爵令嬢だったフィリーネは、様々な局面でカレンや他の侍女たちに身の回りを世話してもらっていた。だからそれに対して抵抗感はなく、寧ろ慣れている。

 ところが、シドリウスに世話を焼かれるのはどうにも慣れなかった。

 相手が異性でとびきりの美人というのも理由にあると思う。

 とはいえ、清拭をすると言い出された時は流石のフィリーネも丁重に断り、頑として譲らなかったが。


 断固拒否を続けるフィリーネを見て、何か思うところがあったのだろう。シドリウスもそれ以上は食い下がってこなかった。

 清拭を回避できて胸を撫で下ろしたのも束の間。

 フィリーネはその後もことあるごとにシドリウスに絡まれ、緊張感に包まれたままベッドに入った。そのため、心が安まる暇はなく、ぐっすり眠れなかったのだ。

 ベッドからむくりと上体を起こしたフィリーネは、欠伸をしながら目を擦る。それから深い溜息を一つ吐いた。


(いくら私が愛玩だからって、ここまで可愛がらなくてもいいのに)

 シドリウスの行動は可愛がるというよりも過保護という単語の方がしっくりくる。生まれたばかりの雛鳥を庇護下に置き、甲斐甲斐しく世話を焼く親鳥のようだ。

 これからこんなことが毎日続くのだろうか。

 不安が過り、今後どう対処すべきかフィリーネがうんうんと唸っていたら、部屋の扉が開いた。

「おはよう、フィリーネ。今朝はよく眠れた?」

 そう言って部屋に入ってきたのは、水霊のイシュカだ。一瞬、シドリウスが入ってきたのかと思って身構えてしまった。

 フィリーネは、イシュカの登場に安堵の息を漏らす。

「おはよう、イシュカ。ええ、少しは眠れたわ」

 フィリーネはサイドテーブルに置いてある銀縁眼鏡を掛け、笑みを浮かべて挨拶する。


「新しい生活で慣れないと思うけど、無理はしないで」

「ありがとう。大丈夫……」

 でもないけれど、喉の先まで出かかった言葉はグッと呑み込んだ。

 イシュカ本人の口からは聞いていないけれど、シドリウスを『ご主人様』と呼んでいるのだから従者で間違いないだろう。きっと、クレームを伝えたところで困らせるだけだ。

 それにイシュカは物理的にも心理的にも距離の近いシドリウスとは違い、一定の節度を保って接してくれている。昨日の清拭が回避できたのには、イシュカが「ご主人様、流石にやりすぎです」と苦言を呈してくれたからでもあるのだ。

(イシュカはシドリウス様の従者だけど、彼が暴走したら助けてくれるかも?)

 イシュカがこちらの味方になってくれるなら随分と心強い。

 フィリーネが淡い期待を抱いていると、イシュカが窓のカーテンを開けてタッセルで留めながら溌剌とした声で言う。


「フィリーネはご主人様の大事な生け贄だからな。ストレスは肌の大敵だ。肌荒れを起こされたら困るし、今から一年後に備えてずっと綺麗でいてもらわないと」

「一年後に備えて綺麗に……あっ」

 イシュカの言葉を受けてフィリーネはハッとした。

(そうだわ。私は一年後、生け贄としてシドリウス様に食べられるんだった!)

 昨日は愛玩での意味合いが強かったので、生け贄としての本分をすっかり忘れてしまっていた。

 大事なことなのに忘れてしまうなんて、とフィリーネは自分を叱り飛ばす。

 それから、膝の上に載せている手をキュッと握り締めた。


(イシュカの言い分は一理あるわ。肌荒れは、食べる際の歯触りに影響するのかもしれないし。……私の本分は、シドリウス様に美味しく召し上がっていただくことだから、健康管理はしっかりしていかないと。その上で丸々と肥っていくの)

 フィリーネの目標は、一年という肥育期間の間にたくさんの肉を付けること。そしてシドリウスに美味しく食べてもらうことの二つである。

 必ずシドリウスには美味しく食べてもらう。そのためにはどんな努力も厭わない。

(そういえば、昨日は清拭が恥ずかしくて断ったけど、シドリウス様に召し上がってもらう時は服は脱がなくちゃいけないわね。布がかさばったら食べにくいから)


 肌を見せるのが恥ずかしいだなんて言ってられないかもしれない。

 改めてフィリーネが決意を固めていたら、カーテンを留め終えたイシュカが声を掛けてきた。

「言いそびれてたけど、ご主人様は所用で出かけられている。お昼までには帰ると仰っていた」

 シドリウスが不在と知り、フィリーネは少しホッとした。生け贄として食べられる覚悟はできても、愛玩として可愛がられる覚悟はまだできていない。

 昨日のことを思い出しただけで、フィリーネは顔を真っ赤にしてしまう始末だ。

(ううっ、愛玩方面もこれからしっかり覚悟していきましょう)

 フィリーネは胸の上に手を重ねて密かに誓う。

 イシュカはフィリーネの様子を見て怪訝な表情を浮かべていたが、入り口を一瞥した後、口を開く。


「朝ご飯ができるまでもう少し時間が掛りそう。先に屋敷の案内をしようと思うんだけど……動ける?」

 意識を取り戻してから、フィリーネはずっとこの部屋で過ごしている。今後行動範囲を広げるためにも、屋敷を案内してもらえるのはありがたい。

 フィリーネは肯うと床に足を付け、イシュカの後に続いた。



 まず最初に連れて行かれたのは屋敷の外だった。

 年季の入ったオークの扉を開け、フィリーネを出迎えてくれたのは丹念に手入れされた美しい小庭だ。

 季節を通して楽しめる多種多様な多年草に、見頃を迎えたブルーベルや、ライラック、フジの花などが緑の中で彩りを添えている。

 建てられている屋敷は、ガルシア領特有の蜂蜜色の石灰岩で造られていた。屋敷は重心の低い二階建てで、窓には黒色の格子が嵌め込まれており、屋根はS字の瓦が敷かれ、一部の壁はツタで覆われている。


 古めかしい見た目から何百年も前に建てられたのは一目瞭然。にもかかわらず、これまできちんと管理されてきたのか屋敷は傷んだところが一つもなかった。

 まじまじと屋敷を眺めていたら、隣に立っているイシュカが説明を始める。

「俺たちが暮らしているのは、大湖近くの森の中だよ。町からは離れてはいるけど、歩いて行けない距離じゃない」

 説明を聞きながら小庭の方に再び身体を向けるフィリーネ。

 周囲を見回してみるとイシュカの言う通り、鬱蒼とした樹木に覆われていた。そして生い茂る樹木の奥には美しくキラキラと輝く湖面が垣間見える。


「森の中に屋敷はあるけど、大湖からも近いし誰かに見つかりそうだわ」

 ぽそっと感想を呟けば、イシュカが心得顔で白い歯を見せてくる。

「そこはご主人様の魔力が働いているから問題ない。屋敷を中心に数百メートルにわたって結界が張ってあるからね。人目につくことはないし、結界内に入るためにはご主人様の許可が必要になるから。だから勝手に、特に人間が入ってくることはないよ」

「そうだったの。でも私は魔力がないから、どこまでが結界内なのか境界が分からないわ」

 何かの拍子に外に出て戻れなくなってしまったら大変だ。


 一応どこからが結界の外なのか、分かる物があるなら知っておきたい。

「フィリーネに認識できる目印が一つある。それはオーク樹の宿り木だ。結界の境界には必ず屋敷を取り囲むように宿り木が点在しているからすぐに見つけられるよ」

「宿り木ね。ありがとう、覚えておくわ」

 外での説明が一通り終わると、続いて屋敷内の案内が始まる。

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