三九.康史郞の依頼

 たかしの住む「隅田川すみだがわ館」という名の簡易宿舎を案内された後、かつらは隆と久し振りに厩橋うまやばしに向かって歩いていた。

「あの手紙で、隆さんが廣本ひろもとさんとのことを打ち明けてくれて本当に嬉しかったけれど、わたしに隆さんの過去を受け止められる力があるのかな、と不安になりました。でも、わたしを信じてくれた隆さんのためにも、何か役に立ちたいと思ったんです」

 かつらは隆にようやく自分の気持ちが話せたことに安堵していた。

「私はあの島で起こったことを誰にも話さないつもりでいました。私の過去でかつらさんを苦しめるなんてわがままではないかと、今でも思っています」

 隆はかつらと視線を合わせずに歩き続ける。やはり辛いのだろうとかつらは思った。

「でもわたしは隆さんが亡霊と呼ばれるなんておかしいと思っていましたから、隆さんのせいではないと分かって安心したんですよ。それに、わたしにも康史郞にずっと言えないことがあります。いつか話せる日が来ればいいんですが」

「康史郞君は気立てのいい子だから、きっと分かってくれますよ」

 隆はようやくかつらに視線を合わせた。

「ええ。いつかは話さないといけないと思ってますから」

 かつらはつぶやいた。厩橋がすぐそこまで近づいている。

 隆は厩橋の手前で立ち止まると、右手を上げた。

「それでは、ここで失礼するよ。かつらさんも気をつけて」

「隆さんも、無理しないでくださいね」

 厩橋の手前で引き返す隆の後ろ姿を、かつらはいつまでも見送っていた。


 帰宅したかつらを出迎えたのは、布団を敷き終わった康史郞こうしろうだった。

「おかえり姉さん。京極さんとは会えたの」

「ええ。京極さんの家の前に寄ってから送ってもらったわ」

 かつらは肩掛けカバンを下ろし、カーディガンを脱きながら答える。

「京極さんの家ってどこなの」

「隅田川の近くの『隅田川館』って二階建ての建物の六号室よ。遅くなったので中には入らなかったわ」

「ふうん。てっきり一緒に夕飯食べたのかなって思ってたのに」

 康史郞はちゃぶ台の上に乗った新聞紙を持ち上げた。ごはんの入ったおひつと焼いたいわしの干物が乗った皿が現れる。

「明日の朝飯用にとっといたんだ」

「いつもありがとう。弁当箱を洗ってくるわね」

 かつらはカバンから弁当箱を取り出すと台所に向かう。その姿を見ながら、康史郞はかつらが元気を取り戻したことに安堵していた。


 十月九日、木曜日。

 康史郞は学校から帰ると八馬やまの雑貨店に向かった。裏口をのぞき込むとカイとリュウ、もとい高橋兄妹が柿を食べている。康史郞は二人を手招いた。

「またヤマさんに呼ばれたの」

 リュウの問いに康史郞はかぶりを振った。

「ちょっとカイに頼みたい事があってさ。邪魔が入らないところで話したいんだ」

「それじゃ家に行こう。リュウは残っててくれ」

「うん」

 うなずいたリュウを残し、二人は雑貨店の倉庫になっているバラックへと向かった。カイは康史郞を防空壕跡の住まいへ案内する。

「おじゃまします」

 康史郞はカイがどけたトタンのドアから防空壕の中に入った。新聞紙の上にむしろが敷かれただけの狭い空間だ。その片隅に毛布や食器、風呂敷包みが置かれている。

「ヤマさんが『火事になったら恐いから』ってろうそくは使わせてくれないし、懐中電灯は電池がもったいないからな。だから昼間は店の方にいるんだ」

「そうなのか」

 入口を半分ほどトタンで隠し、二人はむしろの上に座った。カイが尋ねる。

「ところで、頼みって何だ」

京極きょうごく隆さんの家を探して欲しいんだ」

 康史郞はカイに説明した。

「京極さんは姉さんの働くお店の常連で、眼鏡をかけた背の高い男の人。隅田川の近くにある『隅田川館』って二階建ての建物に住んでいるんだ。もちろんお金は払うよ」

 康史郞は財布から十円札を十枚取りだした。

「これってもしかして、こないだの仕事代か」

 カイはむしろの上に置かれた札束を見る。

「どうしても使う気になれなくてさ」

「そういう事なら預かっとこう。もしもの時のへそくりだ」

 カイはお札を風呂敷包みにしまった。

「でも何でその人に会いたいんだ」

「土曜にどうしても会って話したいことがあるから、家に手紙を置いていこうと思ってさ」

「そいつの家なら知ってるぞ。前にヤマさんに言われて後をつけたんだ」

 カイの返事に康史郞は驚いた。

「それじゃ案内してくれよ」

「ああ」

 カイが立ち上がろうとしたその時、防空壕の前に二人組の人影が近づいてきた。カイと康史郎はトタンの影に隠れて縮こまる。防空壕の前で立ち止まった人影はそのまま話し始めた。

日下くさかさん、ヒロポンの密造を請け負う代わりに頼みたいことがあるんです。キャバレーの建設予定地の住民が意外に強情で立ち退いてくれないんですよ。実力行使用の人手を貸してくれませんかね」

 八馬の声だと康史郞にはすぐ分かった。低音の男性が答える。

「分かった、上に話しとこう。キャバレーが早くできないとこちらの予定も狂うからな」

 トタンの隙間から茶色いズボンが見える。彼が日下なのだろう。

「ところで、廣本はこの件知ってるのか」

「まだ話してませんが、ヒロポンがもらえるのなら喜んでやりますよ。実際にここで作るのは居候のガキだから、話が外に漏れることもありません」

「頼むぞ。いずれ軍の物資には頼れなくなるからな。それでは中を案内してくれ」

 八馬と日下はバラックの入口に向かって歩き出した。

 足音が聞こえなくなると、二人はそっと息を吐いた。カイが小声でつぶやく。

「ヤマさん、俺とリュウにヒロポンを作らせるつもりだったんだ」

「そのヒロポンを運ぶのは俺の役目か」

 康史郞も小声で答える。

「それにこのままじゃ家を壊されちまう。ますます京極さんに会わなくちゃ」

「ヤマさんたちが中にいるうちに抜けだそう」

 カイは立ち上がった。


 「隅田川館」と書かれた二階建ての建物の前に、カイと康史郞は立っていた。

「俺が案内できるのはここまでだ」

「部屋の場所は姉さんから聞いてる。カイは怪しまれないうちに帰った方がいい」

 康史郞はそう言うと二階に上がり、「六号室」と書かれた部屋のドアに四つ折りにした紙を挟んで下りてきた。既にカイの姿はない。

「京極さん、読んでくれるといいけど」

 康史郞は足早に「隅田川館」を離れた。

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