三四.たばこの煙

 月曜日、十月六日は朝から小雨がぱらつく空模様だった。

 縫製工場の昼食時間、かつらは他の従業員から少し離れた場所で山本やまもと槙代まきよと話し込んでいた。既に弁当箱は空になっている。

「私が帰った後、そんなことがあったんですね」

 槙代はそう言うと水筒を口につけた。

「まさか康史郞こうしろう君のズック靴を買った時から目をつけられてたなんて。本当に恐ろしいですね」

「たまたま康史郞が留守で良かったです。出くわしていたらどんなことになっていたか」

 かつらも自分の水筒を取りだすと一口飲んだ。そのまま槙代に尋ねる。

「山本さんの家にはあの人たち来なかったんですか」

「ええ。うちの人が寝ていましたから誰もいないと思ったのかもしれません」

「それにしても、あの人の持っていた図面通り、本当に道路が拡張されるのなら、結局わたしたちは立ち退かなくてはいけないのかしら」

 かつらは目下の心配を口にした。槙代はしばらく考えてから答える。

「うちの人は運送会社に勤めていますから、道路のことは私たちより知っているでしょうし、何かいい案があるかも知れません。帰ったら相談してみましょうか」

「ありがとうございます」

 かつらは頭を下げた。

「私たちも仮住まいですし、早く立ち退きの心配がない家に引っ越したいですね。そうなると横澤よこざわさんたちの近くにはいられなくなるかもしれませんけど」

「山本さんたちには本当にお世話になってますから、引っ越したら寂しいですけど仕方ないですね」

 かつらは弁当箱を肩掛けカバンにしまう。そろそろ昼休みも終わりだ。

「さあ、午後のお仕事も頑張りましょう」

 槙代は立ち上がった。


 工場の仕事を終えたかつらは、いつも通り「まつり」に向かった。幸い雨も上がっている。

たかしさんに早く会って昨日のことを話さないと。あの廣本ひろもとさんと隆さんがどういう関係なのか聞くことができれば、家の土地問題を解決するきっかけになるかもしれないし)

 かつらの足取りは自然と速まった。


 「まつり」に入ったかつらがカウンターに出ると、倉上くらかみ大口おおぐちが酒を酌み交わしていた。

「大口のかみさんがおめでただって言うから、酒をおごってるんだ」

 既に上機嫌の倉上は湯だったタコのようになっている。

憲子のりこさんから聞きましたよ。おめでとうございます」

 お祝いを述べるかつらに大口は話しかけた。

「ありがとう。お陰でようやくのぞみも俺を『父ちゃん』と呼んでくれるようになったよ」

「良かったですね。お店の改装の方はどうですか」

「ただの喫茶店では客の気を引けないんで、ラジオか蓄音機を置いてレコードを流したいところだが、電力もこのご時世高いし安定してないからな。かといってキャバレーみたいに生演奏をするなんて夢のまた夢だ」

「キャバレー、ですか」

「大阪で今、流行ってる酒場だよ。生演奏でダンスをして盛り上がってるそうだ。これからはこういう店が主流になると思ってたんだが、あっちも今度の法律で酒が出せなくて困ってるそうでね」

 かつらは大口の話を聞きながら入口を見るが、なかなか隆は現れない。一方、倉上は戸祭とまつりに話しかけている。

「『墨田すみだホープ』には洪水に遭った町工場の分の仕事もやってもらってるし、本当に助かってる。これも紹介してくれた大将のお陰だよ」

「復興には時間がかかりそうだし、本当に今回の洪水は災難だったな」

 戸祭は厨房に置かれた新聞を見ながら言った。

「それじゃ、おっかさんが怒らないうちに帰らせてもらうよ。姉さん、お会計よろしく」

 倉上は大口と一緒にお金を払うと退店していった。


 時計が七時半を回った頃、ようやく京極きょうごく隆が「まつり」にやって来た。いつも通り注文を取ろうとしたかつらに隆が呼びかける。

「灰皿をください」

 かつらは驚いた。隆が店でたばこを吸うのを見るのは再会後、「まつり」に来たとき以来だったのだ。

「珍しいですね」

「最近また吸い始めたんだ。色々落ち着かなくてね。かけうどんを一つ頼むよ」

 隆はそれだけ言うとたばこを吸い始める。かけうどんを持ってきたかつらは我慢しきれずに隆に話しかけた。

「京極さん、上野で会った人が昨日家に来たんです」

 隆はうつむいた。たばこを灰皿に置くとつぶやくように言う。

「君を巻き込むことになってしまって済まない」

 かつらは隆の雰囲気に飲み込まれ、話を継ぐことが出来なかった。


 かけうどんを食べると隆はたばこをもみ消し、すぐ席を立った。会計に立つかつらにお金と一緒に封筒を差し出す。

「今日は先に帰らせてくれ。代わりに手紙を書いたから、後で読んで欲しい。それじゃ」

「京極さん、おつり」

 かつらは「まつり」から立ち去ろうとする隆を追いかけ、店の外に出た。

「おつりを受け取ってくれないと困ります」

 隆は困ったような表情で振り返るとおつりを受け取り、冷たい声で言った。

「私のせいでこれ以上君を苦しませたくないんだ。もう会わない方がいい」

「あの人に何か言われたんですか」

 かつらは廣本ひろもとの昨日の言葉を思い返していた。

『あの男はここにはもう来ない。あきらめろ』

「それも手紙に書いた。君のせいじゃない。私の覚悟が足りなかったんだ」

「隆さん!」

 かつらは思わず声を上げたが、隆は振り返らず小走りに「まつり」を離れた。かつらは手紙を握りしめ、立ちすくむ。

「横澤さん、何かあったのか」

 店内から戸祭の呼ぶ声がしたので、かつらは慌てて店内に戻った。

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