ミエテいるだけで、じゅうぶんです!(仮)
文月 想(ふみづき そう)
1:キク耳とミエル目、どちらがよいか(1)
『もしもの時は、このお守りを持っていなさい。そうしたら少しでも逃げることはできるだろうから』
それは彼女、高塚 亜季(こうづか あき)にとって日常であり大したことではない。
例えば、何かにいきなり足首をつかまれたり、突然、追いかけられたりとか。
子どもらしきものが泣きながら鬼の形相で迫ってこられたりとか。
そう、日常だから、大したことないのだ。
「……」
なんて嘘だ、本当は心の中で叫びたいのを必死に抑えているだけだ。
叫びたい、誰かに言いたい、助けてと言いたい。
しかし、それをすることは叶わない。 なぜならそれは、周囲の人が気づかないことで、彼女だけが気づくこと。
前触れもなく起こる、出来事だからだ。
「暖かいなぁ……」
春の到来を感じる陽気に、顔を綻ばせて亜季は背伸びした。
夕方というにはまだ早い時間帯で、人もまばらな道。 春休みも近いとあって、いつもより少し早めの帰宅時間。
高校生になって始めての春休み間近と、早い帰り時間で心浮き立つ。
自然、足取りも軽やかだ。
亜季の足取りに合わせて揺れる、少々くせっ毛なセミロングの淡い栗色の髪。胸ポッケに銀の校章が入った若草色のブレザーと、揺れるこげ茶のプリーツスカートからは、 ほっそりとした悪く言えばもやしのような白い足がせかせかと動く。
二人の友人はこれから部活動やら約束事があるだとかで、両手を合わせてぺこぺこ謝りながら、 亜季よりも早く教室を出て行ってしまったので一人での帰り道。
早くに学校が終わったのだから、たまにはのんびりと書店にでも寄って帰宅しようか、いや新しくできた近くの雑貨屋さんにでも行こうかととあれこれ 頭の中で寄り道の予定を立てていく。
「……あっ」
ひやりっ。
あぁ、この感覚は。
つぅっと冷や汗が頬を流れる。
背筋がぞっと、凍るような殺気ともとれる視線に肩を強張らせる。
彼女の体を貫く鋭い視線は遥か前方より、丁度大通りへと出る十字の横断歩道からこちらへ、すっと注がれてきているようだった。
その視線と共に何かが体に絡みつくような重さを感じながら、 恐る恐るそちらへ視線を向ければ、ゆらり、と揺れる菫色のワンピースを来た長髪の女性が横断歩道機の側に突っ立っていた。
ぽつんと立つ姿は、誰か彼氏かはたまた友人かを待っているように見える。だが、長い髪で顔を隠して立っている姿は異様だ。 髪の隙間から、逸らされることなくこちらへ注がれる視線に亜季はひたりと背中に汗を流しつつ、頭を横に振るう。
視線を合わせるべきではなかった、気づくべきでなかったと後悔しながら、うつむく。
もう気にしてはいけない。あのまま、あの目を見ていたら囚われてしまいそうだ。
「へ、平常心、平常心」
小さく呟くと、顔を俯かせ重たい体を無理やりにも動かして早足に進む。
帰るにはどうしても、あの横断歩道を渡らなければならない。 ずんずんと近づくにつれ、視線はもっと鋭く強くなるが、顔をあげない。 目を合わせないようにすればいい。
『……って、いる……のね』
びくり、と肩を震わす。更にずんっと重くなる体に立ち止まる。まだ離れているのにもかかわらずソレの声だと分かるのも不思議だが、
あぁ、これは間違いなく視線の正体だと頭の中で警報が鳴る。どんなに遠回りでも、別の道を行くべきだっただろうか。掠れた女の声。
『あのひと、同じ……だか、らい――よ』
気ヅカナイフリナンテ、デキナイクセニ。
——と、すぐ近く。耳元に響く声に驚き、思わず顔を上げて顔色を真っ青にする。 すぐ目の前に、ソレの顔が視界いっぱいに広がった。
長い前髪の間からにぃと、笑うソレは酷く恐ろしい表情へと変る。
またやってしまったと、 亜季が心の中で自分の愚かさに嘆いた時だった。
「おい、そこのアンタ」
ぴきんと何か小さく音が鳴ったと同時に、響き渡る声がした。
「?」
「お前じゃない、髪の長いアンタのほう、なんだその鬼武者みたいな形相は、どっかの撮影? そいつ怖がってんじゃん」
青年だろうか、耳に届く程よい低さの声だ。すっと亜季の肩に手がかかり、ぐいっと後方に引かれる。
驚いて仰ぎ見るとすっと細められた碧眼の瞳と目が合った。
「おい、お前も何、ぼけっとしてんだよ、怖いならさっさと逃げろ」
「……?」
「あー、鈍せぇ奴だな。ったく……おいっ、アンタ邪魔」
え? 誰に言ってるの?
亜季がそう思うより早くに反応したのは、長い髪の女性、ソレで。
ぐにゃり、と表現すべきだろうか。
彼がゆっくりとソレに手を伸ばし―――
まるで煙を払うようにどかすと、ソレは消えていた。
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