蛇体観音

「……あれは……」

「……じゃ。わしらを……くだ……のだ」

「化……、この……」

 喧噪の中、与四郎の意識はゆるりと覚醒する。重たい目蓋に力を入れて、目を開こうとした。目が、いや、顔全体が妙に熱い。左の目は幾ら力を入れても満足に開かず、細く開いた右目の視界には、粗末な家屋の煙に燻されて黒ずんだ天井が見えた。

目を開けた途端、頭に鈍痛が走った。呻けば喉にも刺すような痛みが走る。身体に力を入れた。辛うじて右の脚が動いた。動きに合わせて身体の下に敷かれていたらしい茣蓙がガサリと音を立て、それに気がついたらしい誰かの顔がひょいと視界に現れた。

「おお、目を覚ましたぞ!」

 視界はぼやけて滲んでおり、その男の人相は判然としない。しかし、それでもなお与四郎を覗き込んだ男の顔には、喜色満面の笑みが浮かんでいるのが分かった。

「おおい、随行殿が目を覚まされたぞ!」

 男の声に続き、わらわらと周囲に人が集まってくるのが分かる。身体を動かす度襲い来る痛みに耐えながら、一体何がどうなっているのかと視線を巡らせ、身を捩った。

「どうなされた。おお、そうだ。お水を用意させよう。誰か、水を!」

 言いながら、男はとても丁重な手つきで与四郎の身体に手を添え、身を起こすのを助けてくれた。与四郎は未だ意識の判然とせぬまま、口元に宛がわれた腕から水を一口啜った。

 ぬるい水がずくずくと痛みを寄越し続ける喉を滑り落ちていく。水が喉を通過する時の痛みよりも、熱を持って渇いた喉が潤される心地よさが勝り、必至に水を啜った。慌てたように傾けられた腕から水が零れ、胸元や腹を濡らした。

「随行殿が水のお代わりを所望のようじゃ。早うもってこい!」

 水が喉を通り胸のあたりに広がって胃の腑へ落ちるのが感じられる。椀にもう一杯注がれた水を半分ほど飲み干し、与四郎はふうと短く息を吐いた。

「もうよろしいか、随行殿」

 こっくりと首を動かす。一心地ついて、ようやっと頭がまともに働き始めたような気がした。随行殿、という丁重だが聞き馴染みの無い呼称に内心首を傾げ、ついで自分が丁寧な治療を施された上に上等な真新しい着物を着せられていることに気がついた。

「……ぅあ」

 何故、と問おうとした瞬間、耐えがたいほどの痛みに襲われて与四郎は身を捩らせる。嘔吐けば更に痛みは増し、しかし喉の違和感に身体は酷く反応する。悶える与四郎の身体を幾本もの手が支え、労るようにさすった。

「無理はなされるな。なんせ生きているのが不思議なほどの大怪我をしておられるのだから」

 ぜいぜいと痛みに喘ぎながら、目の前で話す男の顔を見上げると、男は心配そうな顔をしながら与四郎の顔を覗き込んだ。与四郎は男の顔を見上げ、口を開けた。声は出ない。喉に手を当てる。ざらりとした布の感触。激痛。異様な程の熱。ヒュウと息を呑むと、それだけで刺すような痛みが走った。

「随行殿……喉は、もう。潰れて……」

 男の声が痛ましげな風情を帯びる。

「ああ、しかし本当に、随行殿が生きて戻られて本当に良かった。……あの白蛇様のことを知るのは、随行殿だけなのだから」

 白蛇様。その言葉に、ハッとする。人面蛇は。あの時、黒い化け物と一緒に谷川へと落ちていかなかったか。与四郎は震える手で男の服を掴み、はくはくと口を動かして訴える。

 人面蛇は。あの美しい化け物は。黒い化け物と縺れ、谷川へと落ちていった下のように見えたが。

 男は僅か首を傾げ、すぐに顔を歪めた。

「白蛇様は、あの化け物と共に八弘川へと身を捧げられてしまった。……っ、身を挺して、我らを守ってくださったのだ……!」

 男の声には涙が混じり、周囲の人々が口々に感謝を述べる。しかし、与四郎は身を強ばらせてマジマジと男の顔を見据えた。

 白蛇、様? 人面蛇が、人を助けた?

「あの美しい白蛇様は神の使いだったんだ!」

「あの化け物を倒し、我らを救ってくださった!」

「おれぁ聞いたことがあるんだ。蛇の身体にきれいな女神様の顔がついた観音様のことを! あの白蛇様も、きっと観音様だったんだ!」

「観音様じゃ。蛇体観音様じゃ」

「あの神々しく白いお姿に高貴なお顔! きっとそうにちがいねぇ!」

 周囲の人々は口々に人面蛇を褒め称える。神の使い、女神、観音と、好き勝手に人面蛇のことを呼び表して。

「……っ、あ、ぢ、が……っ!」

「随行殿があの蛇体観音様をこの地に導いてくださったおかげで、我らは今こうして生きている。わしの娘のおミチも無事だ」

「蛇体観音様は身を挺してあの化け物を八弘川の底へと突き落としてくださったんだ!」

違う! 違う、違う、ちがう!

 あの美しい化け物を、そんなものに例えるな。

 人面蛇は人間を助けたりなんかしない。そんな人間に都合の良い生き物なんかじゃない!

 否定しようにも、声が出ない。顔も、上手く動かない。手を伸ばし、胸ぐらを掴もうとしても、伸ばした手は誰かの掌に包み込まれ、胸に抱かれる。

「随行殿のおかげだ。蛇体観音様を導き、連れてきてくださったのみならず、あなたもまた危険を顧みず化け物退治に力を貸してくださった!」

 違う。やめろ。蛇体観音だなんていう、巫山戯た呼称で人面蛇を呼ぶな。あれは観音なんかではない。あれは、人間如きの考えなど到底及ばぬ、純粋な力そのものだ。

 それを、神の使いだ、観音だなどというチンケな存在などに貶めるな。あれは人の知る理を超越した化け物で、この世を生きる圧倒的な強さを持つただ一頭の獣なんだ。

「ち、が、……っ、アアァ……っ!」

 意識を失いそうになるほどの痛みに耐えて吐き出した言葉は、しゃがれて掠れて言葉の呈を為さない。何を勘違いしたのか、誰かが与四郎を抱きしめて感謝の言葉を口にする。

「蛇体観音様はきっと、化け物を退治る為に人の世に降り立たれた神の御遣いであったのだろう」

「や、……お、れの」

 俺の人面蛇をこれ以上侮辱するな。今すぐその口を閉じろ。あの美しい化け物を、俺の愛した、あの異形の蛇をこれ以上貶めるな。

「大丈夫だ。これより先、この村は蛇体観音様を祀り、毎年欠かさずこの日に蛇体観音様を讃えよう。蛇体観音様が我らを救ってくださったことを、蛇体観音様をこの地に導いてくださった随行殿が居られたことを、必ず子々孫々まで伝えよう……!」

 人面蛇が、堕とされる。

与四郎は絶望へと呑み込まれて薄れる意識の中で想う。

美しい異形の化け物が、人の理の内へと捩じ伏せられる。ただ生きるため、一匹の獣として振るわれた純粋な暴力と闘争を、人間などを助けるための戦いだと意味づけてしまうなど、それは、人面蛇の獣としての在り方に対する何よりの侮辱だ。

 人面蛇が、異形の化け物が、美しい獣が、観音などに貶められていくというのに、俺はただ人面蛇が穢され、貶められているのを、何も伝える事が出来ず、ただ見ていることしかできないのか。

 全身の力がフッと抜け、思い出したかのように襲ってきた痛みが与四郎の意識を刈り取った。

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