第205話 ペンギンに彼女の名前を付けた

 香奈かな特製の弁当を平らげた後、たくみと香奈はのんびりとペンギンを眺めていた。


「あかり、いけ! ……あぁ、もうちょっとだったのに〜」


 香奈がパチンと手を叩いた。

 言葉こそ悔しそうだが、その顔には楽しげな笑みが浮かんでいる。


 ペンギンの中に彼女の親友である七瀬ななせあかりが紛れ込んでいる——わけではもちろんない。

 何となく雰囲気が似ていた個体にそう名付けて、水に飛び込むのを応援しているのだ。今もふちまでは足を運んだが、結局飛び込めなかった。


 巧も三匹に名前をつけた。

 高いところからでも躊躇ちゅうちょなく何度も水に飛び込む個体が誠治せいじ、そう頻繁ひんぱんではないがやはりどこからでも躊躇ためらいのない個体が大介だいすけ、少し怯えつつも意を決して飛び込んだ個体がまさるである。


 ちなみに、飛び込もうともせずにやれやれと言わんばかりの表情で日陰に佇んでいる個体は満場一致で——とはいえ二人だが——冬美ふゆみと名付けた。


「香奈、あの子わかる?」

「どれですか?」

「一番元気に走り回って飛び込んではすぐ陸に上がってる子」

「あぁ、はい!」


 香奈がはしゃいだようにうなずいた。


「わんぱくですけど、ずっと低いところから飛んでるのも可愛いですよね〜」

「うん。あの子香奈にしようかな」

「あらま、嬉しい。でも何でですか?」

「自分で言ったよ」

「えっ?」


 香奈がパチパチと目をしばたかせた。

 巧はニヤリと笑いかけ、


「一番可愛い」

「っ……!」


 香奈の頬がポッと赤く染まった。


「……不意打ちは心臓に悪いですって」

「ごめんごめん」


 巧はあやすように香奈の頭をポンポンと撫でた。

 彼女はジト目を向けてきた後、無言でペンギンたちに視線を投げた。しかめっ面で、


「……困りました。巧先輩がいません」

「えー、どれかしらはイメージに合うんじゃない?」

「それがみんな合わないんですよ」


 香奈が背伸びをして巧の耳元でささやいた。


「だって、格好いい子がいないんですもん」

「っ……!」


 巧は思わず顔を背けた。頬が熱を持っているのがわかる。


「あれれ、巧先輩。せっかくのペンギン見なくていいんですかぁ?」


 香奈がニマニマと満足げに笑いながら巧の脇腹をつついた。

 二人きりならキスでもして黙らせるところだが、近くに人はいないとはいえ公衆の面前でそんなことはできない。やむなく恋人繋ぎをするにとどめた。


 香奈は驚いたように紅玉のような瞳を丸くさせた後、嬉しそうに頬を緩めて指を絡めてきた。


「でも、それで言うと巧先輩ってシャチみたいですよね」

「シャチ? 僕が?」


 巧は首をかしげた。


「だって普段は穏やかだけど、いざとなるとすっごく獰猛どうもうなんですもん。特に……むふふ」


 香奈がにんまりと笑った。「特に」の後に何を、いや、ナニを含ませたのかは明らかだった。

 巧はその脳天にチョップを落とした。


「いたぁ⁉︎」

「直接的じゃなくても、こういう場所でそういうこと言わない」

「はーい」


 香奈がまるで小学生のように手を上げて元気な返事をした。

 巧は思わず頬を緩めてしまった。

 

「なら、香奈はイルカかな」

「えっ、何でですか?」

「元気で人懐っこくて、みんなを笑顔にできるから」


 香奈は一瞬戸惑ったような表情を浮かべた後、かぁと顔を赤らめた。

 うつむきながら「何で急にそういうこと言うかな……」とぶつぶつ呟いている。


 巧が笑いながら頭を撫でると、拗ねたようにそっぽを向いた。

 気にせず撫で続けていると、尖っていた唇がゆるゆると弧を描いていく。


 巧は思わずクスッと笑ってしまった。

 香奈は「……いじわる」と可愛く睨んできた。その瞳はわずかに潤み、頬は赤らんでいた。


 意地悪は香奈のほうなんだけどな、と巧は思った。

 接吻せっぷんどころか抱擁ほうようすらもするべきではないタイミングでこれだけ愛らしい姿を見せてきているのだから。


 暴走してしまわないよう、ペンギンに意識を戻す。

 水に飛び込んでは陸に上がってを繰り返したり、はたまた勇気を出して淵まで歩いては結局尻込みしてしまう彼ら彼女らも、やはり可愛かった。




 結局一時間ほどペンギンを眺めた後、一通り回り終えた巧と香奈は近くの公園に足を運んだ。

 水族館に併設されており、海に面している緑豊かな公園だ。並んでベンチに座り、木々越しに海を眺める。

 わずかに塩の匂いがする冷たい風が頬を撫でた。


「綺麗ですね」

「ねっ、波の音もいいし」

「落ち着きますよね」

「うん」


 巧は無理に会話を広げようとは思わなかった。香奈を隣に感じつつ、自然と触れ合っていたい気分だった。

 どうやら彼女も同じ気持ちだったようで、しばらく無言のまま波の音に耳を傾けていた。


「巧先輩、なんか手冷たくないですか?」

「確かに」


 どちらからともなく、手を握り合う。

 クスクスとくすぐったそうに笑う香奈を見て、巧も自然と笑みを浮かべた。


「そういえば巧先輩。次の次の月曜日の放課後って空いてますか?」

「うん。空いてるよ」

「じゃあ一緒に買いに行きませんか? 巧先輩のお誕生日プレゼント」

「あっ、そっか。もうそんな時期か」


 巧は自分の誕生日が迫っていることに気づいていなかった。


 誕生日プレゼントやクリスマスプレゼント一緒に買いに行くというのは、付き合った際の取り決めだった。

 サプライズもいいけどやっぱり欲しいものをもらえるのが嬉しいよね、と意見が一致したのだ。


 その分、もっと小さなイベントや何気ないタイミングではお互いにサプライズでプレゼントを贈り合っているが。


「ありがとう。僕も欲しいもの考えておくよ」

「はーい。あっ、あとこれは別件なんですけど、勤労感謝の日って何か予定あります?」

「そっか、それももうすぐか。学校は休みだけど、午前中に部活あるよね?」

「はい」

「その後誠治せいじたちとちょっと遊ぼうかって話が出てるくらいかな。断っておく?」

「あっ、いえ、そこまでではないんですけど、夕方くらいには帰ってきてほしいかなって」

「わかった。何かあるの?」

「ふふ。ちょっとやりたいことがあって」


 イタズラっぽく笑う香奈に、詳細を教える気はないようだった。

 何だか楽しげにしていたので、巧もそれ以上は追求しなかった。




 しばらく黄昏たそがれた後、目星をつけていたレストランで食事をして帰路についた。

 香奈は実家に荷物を置いた後、巧の家にやってきた。


「いやぁ、今日は楽しかったですね」

「うん、本当に楽しかった。水族館も良かったし、何より香奈がいてくれたからね」

「もう、相変わらずずるいなぁ」


 香奈は頬を膨らませつつも、しみじみとした口調からは喜びがにじみ出ていた。


「いつになるかわからないですけど、また行きましょうっ」

「そうだね。ごめんね、あんまりこうして遊べなくて」


 巧が頭を撫でながら謝罪の言葉を口にすると、香奈は「何を言いますか」と肩に頭を押し当ててきた。


「私もサッカーは大好きですし、サッカーをしている巧先輩を好きになったんですから、そんなことを気にする必要はありませんよ」

「本当?」

「はい。毎日幸せですもん。ちゃんと好きって伝えてくれてますしね。言葉でも、行動でも」

「それならよかった。ちょっと不安だったんだ」

「杞憂ですよ。天は落ちてきませんから」


 香奈が巧の腕をギュッと抱きしめた。


「そりゃ、遊んだり可愛がってくれたりしたら嬉しいですけど、私はこうして一緒にいられるだけで満足ですから。あっ、でもそれだと巧先輩のほうが不満ですか?」


 香奈がチラリと巧の下半身に目を向けた。

 巧はニヤリと笑って、


「そんなことを言い出すってことは、不満なのは香奈のほうじゃないの?」

「そ、そんなことはありませんもん」


 香奈がプイッとそっぽを向いた。


「本当? じゃあ、今日はシなくていっか」


 香奈が不満そうに睨みつけてきた。

 それでも巧が何も言わないでいると、香奈は正面から腿の上にまたがってきた。唇を押し当ててきたかと思えば、最初から舌を侵入させてくる。


 巧もテンションが上がって、自分からも積極的に絡ませた。

 ぴちゃぴちゃ、という水音が室内に響いた。

 香奈が頬を染めてうつむきつつ、窺うように上目遣いで見てきた。


「……これでもシないっていうなら、別にいいですけど」

「お風呂入ろっか」

「最初から素直になればいいのに」


 香奈はすっかり盛り上がった巧の下半身を見やって、呆れたように、それでいて嬉しそうに笑った。

 肩を抱いたり脇腹を突いたりとお互いにちょっかいをかけつつ脱衣所に向かう。


「それにしても、巧先輩もなかなか体力ありますよね。昨日三回もシて一日遊んだのに」

「そりゃ、こんなに可愛くてスタイル抜群な彼女がいるからね」


 巧は香奈の肩を抱いた。

 彼女はクスクス笑った。


「エッチ」

「あっ、でも勘違いしないでよ? 体が目的じゃないし、気分じゃなければ全然シなくてもいいからね」

「それはわかってますし、巧先輩こそ気にしないでください。私もシたいからシてるだけですから」

「嬉しいこと言ってくれるじゃん」


 巧の瞳がギラリと光った。


(やっぱりシャチだ……)


 彼の男らしい表情と欲情の炎を燃やした瞳、そして声高に存在を主張する男の象徴を見て、香奈はそう思った。

 ——間もなくして、そんなことを考える余裕はなくなったが。

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