第126話 彼女の胸に顔を埋めた

「ちょっとした違和感は、桐海とうかい戦の前からあったんだ」


 たくみは静かな口調で話し出した。


「その二日前くらいに筆記用具がなくなったんだけど、今思えばあそこから始まってたんだと思う」

「そういえば、消しゴムを貸した記憶があるわ」

「うん。その翌日にはボールペンが一本失くなった。けど、そのときまでは特に何も気にしてなかったんだ」


 巧はお世辞にも片付けが得意なほうとは言えないため、紛失しただけだと思っていた。


「僕の不注意じゃないって確信したのは、みんなが気づいていた通り桐海戦の翌日だよ」


 まず、部活前には絶対にあったはずの予備のソックスが失くなった。

 巧もさすがにおかしいと思っていたところに、今度は悪口の書かれた紙がバックの中に入っていた。印刷されたものだった。


 バレてないから自信を持ったのか、それからもだんだんと嫌がらせはエスカレートしていった。

 現在手元にある練習着も盗まれたし、ソックスに落書きされていたこともあった。その間にも悪口の書かれた紙は入れられ続けていた。


「……でも、今日は最初のほうは少し持ち直していたように見えたのだけれど」


 冬美ふゆみがしぼり出すように言った。

 香奈かな誠治せいじは絶句していた。


「うん。昨日、このままじゃよくないなって思って絶対に犯人捕まえてやろうと思って色々考えてたら、安心感みたいなのが生まれたんだ。実際に罠も仕掛けたしね」

「罠?」

「うん。僕のカバンの中をいじろうとしたら必ずズレるようにペンをセットして、その写真を撮っておいたんだ。今日、休憩中にちょこちょこいなくなってたでしょ?」


 三人があぁ、とうなずいた。


「あれ、ペンがズレてないか確認しに行ってたんだよね。時間帯が絞り込めればある程度犯人も当たりがつくかなって思って。でも、さすがにここまでされると心にクるね」


 巧は切り裂かれた練習着を見て寂しげに笑った。


「なんか、盗むとか悪口書くとかとはレベルが違うじゃん。ここまで恨まれてたんだと思うと、怒るよりも悲しくなっちゃってさ——」

「先輩っ」


 香奈が叫んだ。巧の視界が暗くなった。


(……えっ?)


 最初に感じたのは、弾力のある柔らかさだった。

 鼻腔をくすぐる嗅ぎ慣れた甘い匂いで、香奈に抱きしめられたのだとわかった。


「大丈夫です。ちゃんと見ている人は、みんな先輩のことが好きですから」

「っ……!」


 息を呑む巧の頭を、香奈が大丈夫、大丈夫、と繰り返しながら優しく撫でた。


白雪しらゆきの言う通りだ。俺たちはもちろん、キャプテンだって他の部員の人たちだって、ほとんどみんなお前のことが好きで認めてんだからな」

「誠治……」


 巧の目の奥がじんと熱くなった。


「私たちマネージャー陣もそうよ。あなたほど真剣に打ち込んでいて、なおかつマネージャーに気配りができる選手は他にいない。誰かを平気で傷つける人間からの評価なんて気にする必要はないわ」


 冬美ふゆみが巧の背中に手を添えた。


「うんっ……みんな、ありがとう……!」


 目尻と胸の内で高まった熱は、瞬く間に涙という実態を伴って溢れ出した。

 彼は香奈の胸に顔を埋め、静かに嗚咽おえつを漏らした。


(泣いてる……巧先輩が)


 香奈は胸がキュッと締め付けられる感覚を覚えた。

 巧を抱く腕に力が込もる。


「っ……」


 血の味がして、彼女は初めて自分が唇を噛みしめていたことに気がついた。

 ふつふつと怒りが込み上げてくる。


(巧先輩が何をしたって言うのっ? ただ、人一倍頑張ってただけじゃん。それなのになんで、なんでこんな苦しい思いをしなきゃいけないの……⁉︎)


 目尻が熱くなる。

 肩を叩かれた。冬美だった。


 落ち着きなさい——。

 いつもより柔らかい瞳がそう言っていた。


「っ……ふぅー……」


 香奈は細く長く、体内のあらゆるものを出し切るように息を吐いた。

 少しだけ冷静になった。幸いなことに、視界がにじむ程度ですんだ。


 そしてはたと気づいた。

 自分がいかに熱くなってしまっていたのかということに。そして冬美には巧との交際を伏せているにも関わらず、思い切り彼を抱きしめてしまっていることに。


「っ……!」


 別の意味で熱くなった。


(いやでも、状況的にバレるとしても私が巧先輩のことを好きってことくらいだよね? まあ、冬美先輩になら知られても大丈夫だとは思うけど……)


 そんなことを考えていると、少しだけ冷静になれた。




 巧は数分で泣き止んだ。

 香奈は彼を解放して、


「大丈夫ですか?」

「うん……だいぶスッキリした。ありがとう」


 言葉通り、巧の表情はいくらかマシになっていた。若干居心地が悪そうだった。


「それならよかったですけど……」


 香奈は巧の瞳を覗き込んだ。


「なんで、何も相談してくれなかったんですか?」


 ずっと胸の内に留めていた問いだった。

 巧は気まずそうに顔を伏せた。


「ごめん……タイミングもやってくることもバラバラで全然犯人が絞れなかったから、話しても心配かけちゃうだけかなって——」

「っざけんな!」


 誠治がにじり寄った。

 巧は驚いたように目をパチパチとしばたかせた。


「誠治……?」

「巧。俺たちは別に解決してくれって頼まれなかったことに怒ってるわけじゃねーぞ」


 政治は一呼吸置いてから続けた。


「——お前が辛い思いしてんのに一人で抱え込んで何も言わなかったことにイラついてんだよ」

「っ……!」


 巧は息を呑んだ。


かがり先輩の言う通りです。いつも言ってくれてるじゃないですか。何かあったらすぐに相談しろって……それなのにどうして、私には頼ってくれなかったんですかっ……⁉︎」


 香奈は拳を握りしめた。視界がにじんだ。

 巧はいつでも寄り添ってくれていた。少しでも何かあればすぐに相談してと言ってくれていた。

 だからこそ、自分には何の相談もなかったことが余計に悔しかった。


「香奈、落ち着きなさい」


 冬美が香奈の肩を叩いた。


「冬美先輩……」

「誠治もよ。言いたいことはわかるけれど、如月きさらぎ君はあくまで被害者よ。責めるべきは彼じゃないわ」

「「っ……!」」


 誠治と香奈はハッとなった。


「……だな。わりぃ、巧。熱くなっちまった」

「冬美先輩の言う通りです……すみません。先輩は被害を受けた側なのに責めちゃって」

「ううん」


 巧は首を振った。頬を緩めて、


「二人が謝る必要なんてないよ。むしろ心配させちゃってごめん」

「それこそお前が謝る必要なんてねーだろ。お前は完全に被害者だ」

「えぇ。悪いのは百パーセント如月君にそんなことをしたクズよ。でも……二人の言う通り、少しくらいは相談してくれてもよかったんじゃないかしら?」


 冬美にジト目を向けられ、巧はうっ、と言葉を詰まらせた。


「勘違いしないでください。先輩から何か相談されて迷惑なんて思う人はこの場にいませんから。ねっ?」

「ったりめーだろ」


 誠治がニッと笑って、巧の髪をぐしゃぐしゃにした。


「今後は絶対一人で抱え込むんじゃねーぞ」

「うんっ……!」


 巧の瞳から、再び涙が溢れ出した。

 意志の力で抑えることは不可能だったし、抑えようとも思わなかった。


「はい」

「ありがとうっ……」


 巧は冬美から受け取ったタオルに顔を押し当てた。

 温かいな——。

 ただ、そう思った。

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