第78話 もうダメだ
「さっきはごめんね。喧嘩になる可能性もあったのに、ちょっと言いすぎちゃった」
「いえいえ」
「言いすぎどころか、むしろもっと言ってくれって思ってましたよ」
「それはダメだよ。ああいう人たちは頭が良くないから、怒らせすぎると逆上して何しでかすかわからないし」
「巧先輩も平和主義者のわりには結構厳しいこと言いますよね」
香奈がクスクス笑った。
「事実だからね。まあ、もうあいつらのことはいいじゃん。せっかく香奈もオシャレさんなんだし、続きを楽しもうよ」
「はいっ!」
香奈が元気に答えて、さらに腕に力を込めた。柔らかくもハリのあるその感触も比例して強くなる。
それに意識を向けてしまえば前屈みに歩く羽目になるため、巧は必死に周囲に気を散らした。
(あっ、また焼きそばがある。さっきのところの人よりも少し若いな。多分四十三歳くらいかな。いや、素数になっちゃうから四十二歳にしてあげよう。四十二を因数分解すると……)
幸い、さまざまな屋台などが出ているため、気を逸らせるものはたくさんあった。
おかげで、彼が危惧した状況に陥ることはなかった。
——巧の心を乱している張本人である香奈もまた、胸中はとても平穏とはほど遠かった。
(む、胸押しつけちゃってる……! 巧先輩も意識してくれてるみたいだし、変な気分になっちゃうよぉ……!)
先程から胸も下腹部もキュンキュンしっぱなしだ。
はっきり言って、キャパオーバー寸前だった。
いっそのこと離れてしまおうかとも考えたが、合法的に腕に抱きつける機会などそうそうないことを思うと、もったいなさが上回った。
お互いがそんな状態なので、しばらくは微妙に気まずい時間が続いたが、屋台などを冷やかしているうちに、彼らは徐々に自然な距離感を取り戻していった。
——あくまで精神的なもので、肉体的には自然な距離感とは程遠いものだったが。
巧がイカ焼きを食べているタイミングで、香奈は不意打ちでシャッターを切った。
自分も含めて、内カメで。
「えっ?」
「ふふ、巧先輩が美味しそうに食べていたので!」
「あぁ」
巧は納得したようにうなずき、再びイカ焼きを頬張る。
(よし、誤魔化せた!)
嘘ではなかったが、まるっきりの本音でもなかった。
香奈が巧単体を撮らずにツーショットにしたのは、もちろん腕に抱きついている写真をコレクションに加えるためだ。
さまざまな要因が絡み合い、このときの香奈はいつもより積極的になっていた。
というより精神的なタカが外れていた。
「巧先輩のそれ、リンゴジュースですか?」
「うん」
「一口ください!」
「いいよ」
「ありがとうございますっ」
ペットボトルを受け取った後、香奈はしばし躊躇いを見せてから、
「あっ、あの、浴衣だとちょっと滝飲み怖いんですけど、口つけちゃっていいですか?」
「あっ、うん。香奈が良ければ」
(き、キター!)
香奈は計画が成功して有頂天になりつつも、表面上は冷静さを保った。
「私は全然気にしませんから、じゃあちょっといただいちゃいます……美味しいですね」
「ね。意外と甘さ控えめだよね」
「はい。あっ、今飲んだ分がおしっこに変換されたので、ちょっとお花摘んできますね」
「腎臓過労死するよ」
「ぷっ……あはははは!」
巧のツッコミに吹き出しつつ、香奈はトイレに向かった。
そして個室に入り、
(ど、どうしようどうしよう! か、間接キスしちゃったんだけど!)
真っ赤な顔で頭を抱えた。
全然気にしないなど、まったくの嘘だ。よく巧の前で耐えれたものだと思うが、その反動で味などまったくわからなかった。
(甘さ控えめどころか、間接キスとか甘すぎるよっ……あぁもううがいしたくないっ! あっ、でも口臭かったら巧先輩に嫌われるっ……どうすればいいんだ……!)
「…………馬鹿か私は」
だんだん呆れが羞恥を上回って平常心に立ち返ることができたため、何食わぬ顔で巧の元に戻った。
しかし、自然と視線が唇に吸い寄せられてしまうため、しばらく彼の顔を見ることができなかった。
こんな状態じゃキスしたらどうなっちゃうんだろうと考え、実際に巧と唇を合わせる場面を想像してしまい、彼女は見事に自爆した。
そのときちょうど、花火が轟音をとどろかせながら空中を色鮮やかに照らした。
「綺麗ですね……」
「そうだね……」
先程まで荒れ狂っていた心が、まるで潮が引いていくように、花火の美しさでスッと浄化されていく。
邪な考えが去っていくと、純粋な想いがより支配力を発揮した。
香奈でいえば、それは巧への恋心だった。
空を見上げるその横顔を見つめる。
(綺麗だし、やっぱり格好いいなぁ……)
彼の夜空を連想させる深い紫色の瞳に、花火の多種多様な色彩が反射している。
(まるで、そこでも小さな花火大会が行われているみたい)
彼はすっかり花火に夢中になっているようで、香奈の視線にも気づかずに空に色とりどりに描かれていく光の絵を見つめている。
その表情は、どこか夢見心地でうっとりとしていた。
——それが、香奈にとっては不満だった。
(花火にライバル心燃やすとか我ながら馬鹿らしいけど……でも、一回くらいはこっち見てくれてもいいのに)
たしかに花火は綺麗だ。でも、彼を釘付けにさせるのはいつでも自分でありたいと思った。
(あぁ、もうダメだ……)
前々から、なんとか口実を作って二人でこの花火大会に来ようとは決めていた。
だから、万が一にも「部活のメンバーで行こうか」と提案されないように、ギリギリのタイミングで誘った。
しかし、そこから先は決めていなかったし、腕に抱きつくのだってとっさの判断だ。
何か決定的な行動を起こそうと計画していたわけではなかった。
それでも、香奈にはこれ以上、今にも溢れ出しそうになる想いを制御し続けることはできなかった。
「——巧先輩」
「何?」
ルビー色の花火が
それに背中を押されるように、香奈は想い人の目を真っ直ぐ見つめて告げた。
「好きです」
「……えっ?」
巧が、呆気に取られた表情で香奈を見つめた。
彼の横顔を、再び香奈の髪や瞳と同色の花火が照らした。
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