第59話 クールな先輩マネージャーと映画館に向かった

「急用か、具合でも悪くなったかな?」


 一人になったリビングで、たくみは首を傾げた。

 香奈かなが不機嫌さを隠していたため、彼はそのことに気がつかなかったのだ。


 巧は香奈を甘えん坊の後輩と認識しているあめ、「自分が女性と出かけることが彼女に精神的なダメージを与えた」という思考にたどり着くことはできなかった。


 とはいえ心配はしていたので、彼は連絡してみようか、とも考えた。

 アキと華子はなこの悪口に端を発した一件でも、香奈が我慢して溜め込んでしまう性格であることはわかっている。


(……でも、女の子って色々大変だし、特に男子には聞かれたくないデリケートな部分も多いよね)


 小さな親切大きなお世話になりかねないと考えて、巧はもう一日くらいは様子を見てみようと決めた。




◇ ◇ ◇




「……ん?」


 改札を通っているとき、ふと見知った海のように深い青色が視界に入った。

 そちらを振り向くと、バッチリと目があった。玲子れいこだった。


「「あっ」」


 二人の声が重なる。ちょうど、隣同士の改札を通過した。


「お疲れ様です、愛沢あいざわ先輩。早いですね」

「お疲れ。如月きさらぎ君こそ早いな。まだ約束の二十分前だよ?」

「前回、愛沢先輩が結構早かったので、それより前には着こうと思いまして」

「ふっ、同じ考えだったというわけか。私も前回、君が予想以上に早かったから、それより早く着いてやろうと思ってこの時間にしたんだよ」

「勝負じゃないんですから」


 巧は苦笑した。


「いずれ一時間前に集合しちゃいますよ、僕ら」

「それはそれでいいじゃないか。というより、如月君が私より早く来ようとしなければいい話だろう?」


 玲子がニヤリと笑った。


「それは僕のセリフですよ。男子の後輩と女性の先輩なら、絶対男子の後輩が先に到着しているべきじゃないですか」

「おや、君はプレーも考え方も革新的だと思っていたが、意外とそういう考えも持っているんだな」

「女性を待たせる男でありたくないとは思ってます」

「なるほど。つまり、如月君は男らしくありたいということだな。メモしておこう」

「うーん……まあ、そうですね」


 玲子のざっくりとしたまとめ方に、巧は苦笑しつつもうなずいた。


「男らしいといえば、前回のご令嬢のような清楚な感じとは違って、今日はクールでボーイッシュな雰囲気ですね」

「あぁ。如月君はよくクールと言ってくれるからな。変じゃないかい?」


 玲子がシャツの胸の部分を引っ張った。と言っても軽くなので、その下が垣間見えるほどではない。


 今日の彼女はグレーのダボっとしたシャツに、黒のデニムを合わせたシンプルなコーデだ。

 白の小さめのショルダーバッグがワンポイントというやつなのだろうが、巧はファッションはてんでわからないので、無難な返答を選んだ。


「めっちゃ似合ってますよ。落ち着いた雰囲気で、格好良くて綺麗です。僕より格好いいので、すごい複雑な気持ちになります」

「はは、そんなことを言う君は私より可愛いから、こっちこそ縮こまってしまうよ。あっ、でも、男らしくありたい如月君に可愛いはご法度かな?」

「揶揄わないでくださいよ」

「はは、すまないな」


 玲子が巧の肩をポンポン叩いた。

 最近、気持ちボディタッチの量が増えている気がするな、と巧は思った。

 まったくもって嫌な気はしないので、指摘などはしなかったが。




 映画館は駅から少し歩いたビルの四階にあった。

 チケットを購入した後、飲み物を買う。チケットは機械だが、飲み物やポップコーンなどは有人だ。


「先輩、僕払っちゃいますね。何飲みますか?」

「あぁ、ありがとう。オレンジジュースで頼む」

「わかりました」


 巧が無事に会計を済ませると、玲子が小銭を差し出してきた。


「まとめて払ってくれてありがとう」

「あっ、いえ、全然大丈夫ですよこれくらい」


 巧は玲子の手を押し返した。


「お誕生日祝いということで」

「誕プレなら昨日くれたじゃないか」


 玲子がムッと唇を尖らせた。


「それとは別ですよ。気持ちです。つい最近奢ってもらいましたし」

「別に奢り返されたくてしたわけじゃないんだが……」

「わかってますよ。だからこそ、僕もお返ししたいんです」


 玲子がうぐっ、と言葉を詰まらせた。

 それから不満そうな表情で、


「……その言い方はずるいんじゃないか?」

「でも、僕は満足しました」

「独りよがりの行為は嫌がられるぞ?」


 玲子がイタズラっぽい笑みを浮かべる。


「結構な下ネタですね」

「ん? 何の話だ?」


 すっとぼける玲子の瞳を、巧はじっと見つめた。


「っ……」


 玲子が頬を染め、目を逸らした。


「あっ、やっぱりそういう意図だったんですね」

「いや……まあ、うん。そうだ」


 玲子はどこか歯切れが悪かった。


(そ、そんな見つめられたら平静でいられるわけないじゃないかっ。まあ、そういう意図で言ったのも事実だが……)


 彼女は内心でそう毒づいていたが、巧はその反応を面倒くさがっているのだろうと解釈した。


「すみません。しつこかったですよね」

「い、いや、そんなことはないよ!」

「そ、そうですか?」


 玲子が思いの外強く否定したため、巧は少し面食らった。


「あ、あぁ。まったく不快になったとかそういうわけではないから大丈夫だ。むしろ、その逆というか……」

「えっ、むしろなんですか?」

「な、なんでもない!」


 ゴニョゴニョ言っていて聞き取れなかった部分を巧が聞き返すと、玲子は赤い顔でブンブン首を振った。


(恥ずかしがってるし、もしかしたらちょっと過激な下ネタでも言ってたのかな。なんか今日の愛沢先輩、いつもの先輩らしくないけど、映画が楽しみでハイになってるのかな)


 普段クールな人が映画でテンションが上がっていると思うと、ちょっと可愛いなと巧は思った。

 もちろん、彼は自分のことをただの付き添い程度にしか考えていないので、そんなことは口に出さなかったが。


 しかし、何を思っているのかまではわからなくとも、彼が特に気分を害していないことは玲子にもわかった。


(誤解は解けたようだな。良かった)


 彼女は安堵の息を吐いた。

 心に余裕ができると、巧に二つほど話しておくべきことがあったのを思い出した。


 一つは別れ際に言うつもりだが、もう一つは早めに伝えておいたほうがいいだろう、と判断した。


「そういえば、武岡たけおかについてなんだが、二軍の練習試合があった翌日に練習に姿を見せたんだ」

「そうみたいですね。人が変わったみたいだってまさる大介だいすけが言っていました」

「あぁ。あいつは変わった……というよりは戻ったというべきなんだろうが、ひとまず君と香奈ちゃんは完全に安全になったと言っていいだろう。香奈ちゃんのことも白雪しらゆきと呼ぶようになっていたぞ」

「良かった。ありがとうございます」


 巧はホッと安堵の息を吐いた。

 武岡についてより詳しい玲子からお墨付きをもらえるのは、やはり心強いものだ。

 彼女は苦笑した。


「君が頑張った結果だよ」

「僕は何もしていませんよ」

「そんなはずないだろう。シューズを捨てようとしていた彼が結局捨てなかったのは、君と話した後という話じゃないか」

「まあ、そうですけど」

「それに、三葉みわが言っていたぞ? 良くも悪くも武岡に影響を与えられるのは君くらいだと。曲がりなりも武岡とずっと過ごしてきたあいつが言うんだから間違いない。もっと自分を誇れ。君が思っている以上に如月巧という人間はすごいし、影響力もあるんだから」

「そ、そうですか?」


 巧は微妙に視線を逸らした。

 ここまで褒められることはあまりないので、気恥ずかしかった。


「ふふ、かわいい顔をするじゃないか」


 玲子が巧の頬をつついた。

 ——このときの彼女は表向きはただのイタズラっぽい笑みを浮かべているにすぎなかったが、


(ほ、頬に触ってしまった! し、しかし男の子なのにここまで柔らかいとは……やっぱり可愛いな、如月君は)


 内心はなかなかに高揚していた。


 しかし、表情には出ていないため、巧はただ揶揄われているのだと解釈した。


「やめてください。格好いいならまだしも」

「安心しろ。サッカーをしているときの君は格好いいぞ」

「……どうしたんですか? すごい褒めてくださって、ムズムズするんですけど」

「はは、君がいい反応をするから、ついな」


 玲子が面白そうに笑った。

 彼女は真剣な表情に戻って、


「だが、嘘は吐いてないよ。そこは勘違いしないでくれ。わ、私は、前から君のことを格好いい少年だと思っているから」

「本当ですか? ありがとうございます」


 巧は笑みを浮かべて頭を下げた。

 素直に嬉しかった。玲子の表情を見れば、冗談や揶揄いの類でないことはわかったから。


 ただ、正面切って格好いいと言われるのはやはり恥ずかしかったので、巧は頭を上げた後もわざと玲子のほうは見ないようにしていた。

 だから、彼女の顔がたとえ夕陽に照らされていたとしても誤魔化しのしようがないくらいには赤く染まっていたことに気づかなかった。


 しかし当然、玲子本人は自分が茹でダコのようになっていることは自覚していた。


「如月君。ちょっと外すよ」

「あっ、はい」


 巧が自分に視線を戻す前に、彼女はトイレに駆け込んだ。

 頬の熱が引くまでには数分を要した。


(うんちをしていたと思われていたら嫌だが……化粧でも直していたのだろうと考えてくれていることを祈ろう)


 まさか自分から「うんちではなかったよ」などと告げるわけにもいかないため、玲子は巧のデリカシーを信じることにした。

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