第17話
お昼になり、やっと姉さんが宮様の寝所から出てきた。
軽くお湯も使ったらしく髪が濡れている。朝帰りどころかこれでは昼帰りだ。どう父上や母上に説明をしたものやら。私はそれを考えて頭痛を覚えた。
「……兄上。お食事はいただきましたか?」
姉さんに問いかけると黙って頷かれた。どうかしたのかと思い、小首を傾げる。不意に姉さんの首筋に虫に刺されたような痕を見つけた。私は余計に頭の中がハテナマークでいっぱいになる。
「……と、とりあえずは帰りましょう。靖忠殿を呼んできます」
「……」
姉さんは再び頷いた。や、やりづらい。仕方ないので靖忠さんを呼びに行ったのだった。
「……おや。今若君。やっと宮様が離してくださったんですね」
「………」
靖忠さんがちくりと嫌みを言う。姉さんは黙ってじとりと睨みつけた。ちょっと険悪だ。私はため息をついて二人を車宿りまで連れて行った。靖忠さんが先に乗って姉さんが乗るのを手伝うが。二人の間の空気がピリピリしていて正直言って怖い。それでも姉さんはされるがままに乗った。私も同じようにすると下簾がおろされた。
「……靖忠さん。やっと都に帰れますね」
「ええ。お疲れ様でした。小君」
「私の事は元の名で呼んでいただいて構いません。もう鹿ケ谷は出たでしょうから」
そう言うと靖忠さんは苦笑する。姉さんはあらぬ方向を見ていて心ここに在らずだ。さっきから様子がおかしい。
「……姉さん。さっきからだんまりだけど。風邪でもひいたの?」
「……風香」
姉さんから発された声にまた驚く。ひどく掠れてがらがら声だからだ。もしや、昨夜に何かあったのか?
「……女御様。あなたも東宮妃だからお分かりでしょう。香屋子姫は滝瀬宮様と一晩共に過ごしたのですよ」
「えっ。一晩共にって。も、もしかして契りを交わしたって事?!」
「声が大きいですよ。でもまあ、そうなりますね」
ま、まさか姉さんが大人の階段を一気に上がったとは。あまりに驚いたせいで二の句が継げない。契りを交わしたというのはまあ、ありていに言うと。男女の仲になったという事だ。姉さんに先を越された。
「……ごめん。姉さん。喉が痛いのね。だから喋れなかったんだ」
「……まあ。そうね」
姉さんは頷く。すると靖忠さんが懐から何かを取り出した。よく見ると竹筒だ。それを姉さんに手渡した。
「香屋子姫。これは喉の痛みに効く薬湯です。飲んでみてください」
「ありがとう」
受け取ると蓋を開けて姉さんは一口飲んだ。顔をしかめる。苦いらしい。それでも我慢して飲み干したようだ。そして蓋をしてから靖忠さんに返した。
「……ふう。だいぶ、楽になったわ」
「なら良かったです」
「結構気が効くじゃないの。見直したわ」
「お褒めにあずかり光栄です。香屋子姫、足腰も辛いのでは?」
「……まあ。辛くはあるわね。それがどうかしたの?」
「いえ。後で膏薬と貼り薬を渡そうと思いまして。十日分は出しますよ」
靖忠さんはにっと笑った。悪戯っ子のような表情だ。姉さんはちょっとまだ不機嫌そうだが。
「香屋子姫。今回はお代はいいですよ。結婚祝いという事で。特別サービスです」
「あんたが言うと皮肉にしか聞こえないわね。でも受け取っておくわ。一応ね」
「……ありがとうございます」
意味深な会話だが。私は黙って見守っていた。胸中で「姉さん。おめでとう」と呟いたのだった。
夕刻近くになって実家に帰ってきた。父上と母上は泣いて私と姉さんを出迎える。
「……おお。香屋子に女御様。やっと戻ってきたのですな」
「もう。あなた達に何かあったらと思うと。気が気じゃありませんでしたよ」
「……ごめんなさい。父上、母上」
「申し訳ありませんでした」
「あら。香屋子。掠れ声じゃないの。それに首筋に紅い痣があるわ」
痣と聞いて姉さんの顔が赤く染まる。私もあちゃあと思った。い、いわゆるなんちゃらマークだしなあ。どうしよう。そしたらいち早く母上が察したらしかった。
「……あらあら。香屋子もとうとう人妻の仲間入りをしたのね。ほほほっ」
「……北の方。それはどういう……」
「殿。今はこんな所でぼうっとしている場合じゃなくてよ。ささ、今すぐに後朝の歌や三日夜の餅やら。準備をしないといけませんわね」
父上は後朝の歌と聞いて顔を青くさせた。どうやらやっと意味がわかったらしい。
「……な、なんだと。後朝の歌!?」
「ええ。香屋子、あちら様からまだ文は届いていないようね」
「……まだですね」
姉さんが頷くとほうと大きなため息を母上はついた。呆れているらしい。その時だ。急いで走ってくる家人の姿があった。
「……殿。北の方様。鹿ケ谷から後朝の歌が届きました」
「あらら。鹿ケ谷ですって?」
「はっ。左様ですが」
「……香屋子。あなたのお相手。もしかして……」
「滝瀬宮様です」
姉さんがはっきり言うと母上は目を見開いた。父上も固まってしまう。それはそうだろうな。
「……た、滝瀬宮様だと?!」
「まあまあ。結構高貴な方ではないの。やるわねえ。香屋子も」
両親は驚きながらも邸の中に戻っていく。私と姉さんも文を受け取って各々の部屋に戻ったのだった。
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