おっぱい喪失まであと一か月!

別府医療センターは、「地域医療支援病院」である。かかりつけ医からの紹介患者に対し、医療提供・医療機器等の共同利用の実施などを行う。要するに、「紹介状がないと診てもらえない」病院だ。

そして別府医療センターは「地域がん診療連携拠点病院」でもある。地域のがん診療の中心となる施設として、厚生労働大臣が指定した病院のことだ。別府医療センターに通院している人の多くは、小百合と同じように他の病院から紹介されたガンの患者である。


予約時間は8時30分だ。時間に余裕をもって、8時15分に医療センターに到着した。待合室はすでに患者であふれている。まるで野戦病院のような喧騒だった。紹介状と検査のデータが入ったCD-ROMを受付に出すと、まずは歯科に行くよう指示を受けた。



【歯科】

手術のときに、麻酔と空気の管を喉に挿入する。グラグラした歯があると、抜けて気管に入るおそれがある。また、歯石が溜まっていると、管と一緒に歯の汚れが気管に入り、肺炎を起こすこともあるそうだ。全身麻酔で手術を行うときは、事前に歯科検診も行うのが定例だ。

小百合に悪い歯は一本もなかった。歯石除去も半年前に受けたところである。「このままでも問題はないのですが、一応手術までにかかりつけの歯医者さんへ歯石を取りに行って下さい」と言われた。診察は15分ほどで終了した。



【心エコー】

歯科の次は心エコーの検査だ。手術に持ちこたえられる心臓の状態か確認する。小百合は心臓にも問題はなかった。



【マンモグラフィ】

相変わらず激痛である。担当して下さったのが若い技師だったせいか、撮影に失敗した。腹を立てることは滅多にない小百合だったが、このときばかりは「いい加減にしろよ」という言葉をかみ殺した。痛さのあまり短気になってしまう患者さんは多いだろう。新人さん、頑張ってください。奥からベテランの技師さんが出てきて、撮影は無事に成功した。



【乳房MRI】

強い磁石と電波によって、身体の内部情報を画像化する検査をMRIという。X線やCTスキャンとは異なり、放射線を使用しない。被ばくのリスクが無いのが特徴だ。

乳房MRIは、クッションのようなものを胸の下に敷き、うつ伏せで行う。クッションには、乳房の位置に穴が開いている。うつ伏せになると、穴の中で乳房が垂れ下がる。乳房が圧迫されていない状態で撮影を行うのだ。

撮影時間は約20分。レントゲンに比べるとかなり長い。20分もの間うつ伏せ状態をキープするのは結構キツい。検査が始まる前に、ナースコールのようなブザーを握らされた。具合が悪くなった時に、人を呼ぶためだ。

MRIは大きな音がするので、ヘッドホンを着ける。ヘッドホンからはTRFの曲が流れていた。46歳の小百合が好きそうな曲を選んでくれたのだろう。


小室ファミリーが人気だったころ、小百合は十代後半~二十代前半だった。当時の小百合は、ニルヴァーナとかプライマル・スクリームとかケミカルブラザーズとか、そういうのがカッコいいと思っていた。小室ファミリーの曲は、サビの部分ぐらいしか知らない。タイトルも分からない曲が多い。

それなのに、20代の頃のことを思い出すとき、脳内で再生される曲は小室ファミリーやスピッツやジュディマリなど邦楽のポップソングなのだ。あんなに心酔していた洋楽は、イキっていたイタイ頃の自分しか思い出せない。とてつもなく間違った20代を送ってしまった気がするが、それも人生だと思うことにしている。


小百合にとっての小室哲哉は、渡辺美里の「卒業」や「10 years」などだ。田舎の高校生がジャスコの屋上で告白するような、そんなダサさが好きだった。郊外で育った小百合の心情と、小室哲哉が描く多摩地方の風景は相性が良かったのだろう。

テツヤ・レイヴ・ファクトリーってなんやねん。何カッコつけとんねん。芋臭いお前がワシは好きやったんや。哲哉、お前はもうワシの知るお前やない…


MRIの男性技師と、サポートをしてくださっている看護師の女性はともに20代であろう。小百合の音楽の趣味なんか知るわけがない。この年代はこの曲が刺さるといった申し送りでもあるのだろうか。気を使って下さってありがとう。小百合は心の中で手を合わせた。

15年付き合った元カレと結婚していたら、彼らぐらいの年代の子供がいたかもしれないな。私はもうそんな歳なのだと、小百合は診察台でうつ伏せになってぼんやりと考えていた。


MRIの撮影が始まると、ヘッドホンで音楽を流している意味がないぐらいの爆音が周囲から聞こえてくる。鉄板をハンマーでガンガン叩くような音がしたと思えば、警報ブザーのような音が鳴り響く。横で道路工事でもしているようだ。

小百合は自閉症の影響で、騒がしい場所が苦手だ。幼少期の小百合なら、この騒音には耐えきれなかったかもしれない。

自分を取り囲む筒状の機材の中で、いったい何が行われているのだろう。こんな機械を考える人や、作る人がどこかにいるのだ。人間て凄い。

撮影をしている間、「息を吸って、止めて、吐いて」という指示が何度もあった。慣れない姿勢で息を何度も止めるのは、なかなかにしんどかったが、「たくさんの人たちの手で自分は生かされている」。そう思える時間だった。


【診察】

「菊池小百合さ~ん」

診察室から呼び出しのアナウンスがあった時には、もう13時を過ぎていた。大きい病院は何かと時間がかかる。通院はどれぐらいの期間になるのだろう。初日からすでに気が重い。

乳腺外科の大谷先生は、物腰の柔らかい優しそうな男性だった。年齢は40代だろうか。マスクで顔が半分隠れているので、白髪の量とか目元のシワとかでしか年齢を判断できないが。


外科の先生というのは、良くも悪くも“男らしい”感じの人が多いように思う。分かりやすい「できる男」タイプだ。動物でいったらイヌだろう。ガサガサ、ガツガツしている。

その点、大谷先生はネコのような雰囲気がある。ジッと目を見ながらゆっくりと静かな声で話す人だ。仕事で女性ばかり相手にしているうちに、他の外科医と違う雰囲気を身に着けたのだろうか。


マンモグラフィを見ながら、大谷先生は前回の検査で指摘された箇所を指し「非浸潤癌ということでしたが、破れているように見えますね。たぶん浸潤癌でしょう」と言った。素人目にもそれはわかった。ガンのある場所から、モヤモヤしたものが広がっている。


(マジか…。どんどん悪くなっとるやないか。)


次は乳房MRIの説明である。

「肺と肝臓に影がありますね…」

小百合はドキッとした。小百合は20代の頃、超ヘビースモーカーだったのだ。毎日1~2箱、セブンスターを吸っていた。今はもうタバコは吸っていない。32歳のころ、禁煙に成功したのだ。我ながらよくやめられたと思う。

しかし、お酒はいまだにやめることができない。禁煙したとき酒量がさらに増えた。飲める体質なのもあり、やめるきっかけをつかめないでいる。

「まぁでも、特に問題がある感じではないですね。」

大谷先生の言葉に、小百合は胸をなでおろした。


大谷先生は次に、乳房の温存手術について説明を始めた。ガンの部分だけ切除し、乳房を残す方法である。以下の3つの条件を満たす人に適応できる。


1.ガンの大きさが3センチぐらいまで

2.いろいろな検査で、がんが周囲に広く拡がっていないことが確認されている

3.周囲のリンパ節への転移がないか軽度にとどまっている


小百合は2と3の条件は満たしている。しかし、1に関しては、小百合のガンは3センチあるか無いかいう感じだった。乳がんは手術をしてガンを実際に見てみるまで、正確なことは分からない。もし部分切除を選択して、ガンが3センチ以上あることが分かったら、全切除術をやり直さなければいけない。


それに、部分切除は全切除より取り残しのリスクが高い。小百合の場合、全切除すれば術後はホルモン治療だけで済むが、部分切除を選択するとそれに化学療法が加わる。

(※作者の記憶をもとに書いています。医師から受けた説明とは異なる可能性があります)


それにしても、大谷先生はめっちゃ目を見てくる。すごい目力だ。瞬きしないし、逸らさない。

「お医者さんがパソコンの画面ばかり見て、患者の方を見てくれない」というクレームが多いと聞く。最近のお医者さんは、患者の顔を見ながら話すことを心掛けておられるように感じるが、大谷先生はそういうのではない気がする。例えるならば、キラキラ光るホコリとか小虫とかを見ているネコの目である。


「部分切除なんてヌルいこと言わせないぜ?!」


優しい口調の奥に、そんな強い圧を感じるのである。

小百合は障害のせいで、ぼんやりして見られる。そういう見た目に生まれてしまっただけで、実際はロジカルモンスターなのだが。おとなしそうに見られることが昔からコンプレックスだった。小柄な女性が大型バイクに乗りたがるように、小百合も度胸があるところをつい見せようとしてしまう。


「全切除でお願いします。」


小百合が即断すると、手術の日程もその場で決まってしまった。約1か月後である。長年連れ添った右のおっぱいを失うまで、あとひと月しかない。何だか夢の中にいるような気持ちだった。


そういえば爆笑問題の田中は、片方のキ〇タマを摘出していると聞く。片金を失うのは、片胸を失うようなものだろうか。太田がよく笑いにしているが、田中が気にしているとしたら気の毒な事だな。そんなことを考えていた。


詳細な治療説明は1週間後。

「大事な説明です。必要な方には連絡されてください」

今後の予定表にそう書かれていた。夫にもまた休みをとってもらうことになりそうだ。


診察が終わり、渡された書類を待合室でファイリングしていると、誰かが背中を小突いた。のりおちゃんだろう。

前に目をやると、大谷先生がトイレに行くのが見えた。ものすごい猫背である。静々とした歩き方までネコっぽい。

私の後にもまだ患者さんが控えている。先生はお昼ごはんを食べる時間なんてあるのだろうか。


超人だな…と小百合は思った。

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