のんきな女

菊池小百合は、夫の修二と昼食を食べていた。「民芸茶屋・味蔵」という食事処である。別府市石垣東にある、地元の人気店だ。


修二は「とり天定食」を注文した。


とり天は大分の郷土料理である。唐揚げよりあっさりとして食べやすい。味蔵のとり天は山もり出てくるが、サクサクで軽いので意外にもペロッと食べられてしまう。


小百合は鯖の塩焼き定食だ。


大分県には関サバというブランド鯖がある。味蔵の定食で出されているサバは関サバではないが、ふつうのサイズよりも大きくて脂がのっている。


ディナータイムと土日は、うなぎとかすき焼きとか、ちょっと値の張るメニューが中心となる。お金に余裕がない小百合たちには、平日ランチがちょうどよい。

小百合はホテル勤務時代、味蔵のランチを同僚と食べによく訪れていた。修二もつれて来たかったのだが、修二は滅多に平日休みがない。この日は珍しく有休を取った。


有給休暇の取得日数は法律で決まっているはずだ。しかし修二は土曜の出勤日に取るなどして、平日はなるべく休まないようにしている。仕事はそれほど忙しくない。社員3人の小さな会社なので、代わりの人間がいないのだ。


修二が休みを取った理由は、小百合が乳がん検診で再検査になり、その結果を一緒に聞きに行くことになったからである。別府市では、41歳以上の女性は無料で乳がんの検診を受けることができる。黄色い封筒に入った特定検診の手紙とは別に、乳がん検診の無料クーポンが届く。


乳がん検診には以下の2種類がある。

・マンモグラフィ

・超音波検査


小百合は過去に一度、職場で乳がん検診を受けたことがあったように記憶していた。それは超音波の方だったのかもしれない。マンモグラフィは、アホみたいに痛いのだ。これほど痛い検査を一度でも受診したことがあるなら、忘れるなんてありえない。だから小百合は46歳のこの時、マンモグラフィを初めて受けたのだと思う。


マンモグラフィは、プラスチックの板で乳房を挟んで、けっこうな力で押しつぶした状態からエックス線写真を撮る。もはやSMプレイである。


男性も乳がんにはなるらしい。しかし、女性に比べると一般的ではないだろう。男も乳がんになるのが普通なら、乳がん検診をこんなに痛い方法のままにしておくはずはない。男という生き物全般に怒りがこみあげてくる。それぐらい痛い。


再検査の通知が来たとき、小百合は「またマンモグラフィを撮るのか」と気が重くなった。


別府駅東口にある「山本乳腺外科クリニック」で再検査を受けた。乳腺外科という診療科目があることを、小百合はこの時まで知らなかった。乳腺だけでやっていけるものなのだなぁ。変なことに関心した。


最初の乳がん検診では、右乳房の右上部に小さな“組織の乱れ”が写っていた。この部分にガンの疑いがあるのだという。


再検査ではマンモグラフィ撮影と、疑わしい部分の組織を採取して検査機関に回す。


マンモグラフィは普通のレントゲンの機材を大掛かりにしたような装置で、買うとすれば相当な値段だろう。山本先生は60代ぐらいの男性で、もとは九州大学附属病院の先生だ。独立して開業するのは、きっと大変なのだろうな…。そんなことをぼんやりと考えてしまうぐらい、マンモグラフィはデカい。


相変わらず激痛の撮影を耐え、エックス線写真を見ながら山本先生から説明を受けた。最初の検査で指摘された場所に、繊維が絡まったような感じの、他の部分とは様子の違う箇所が確認できた。


その後は組織検査である。「針生検」と呼ばれる方法を用いる。超音波で異常がある場所を確認しながら、乳房の奥にある組織をトゲのついた針でこそぎ取る。大きめの注射器のような道具で、スイッチを押すと針が飛び出してすぐに引っ込む仕組みだ。「バシュッ!」と大きな音がするが、局部麻酔をしているので痛みはない。小百合はクジラを捕るときの「捕鯨砲」を思い出していた。


組織検査の結果が分かるのは、半月ほど先になる。小百合と修二が味蔵で昼食を食べていたのは、その結果が出る日だった。


診察時間は午後の部の一番最初だ。不安で食事ものどを通らないのが普通なのかもしれない。しかし小百合は「私はガンじゃないだろう」と考えていた。だって、しこりなんかも無いし。もし乳がんだったとしても、薬か何かで簡単に治るんだろう。そんな風に考えていた。食事を終え小百合と修二は、別府駅東口近くの山本乳腺外科クリニックに車で向かった。


山本先生の口から出た言葉は

「検査の結果だけど…残念ながらガンだったわ」

それを聞いた修二はヒッと声を上げた。


再検査のとき、山本先生は「結果を聞きに来られるときは、ご家族の方と一緒においでください。」と小百合に言った。その時すでに、ガンだろうと先生は予想しておられたのかもしれない。ガンと知りショックで動けなくなる患者さんも多いそうだ。それを見越して家族を連れてくるよう言ったのだろう。


しかし、こんな状況でも小百合はのほほんとしていた。それは小百合の姉が子宮ガンの生還者だったという理由も大きい。ガンといっても、みんなが死ぬ訳じゃない。私のはたぶん大したことない。何の根拠もなくそう考えていた。


小百合の病理組織検査の結果は、

・非浸潤性小葉癌

ということだった。


女性の乳房には母乳を作る「小葉」と、母乳を乳頭まで運ぶ「乳管」からなる乳腺組織がある。乳がんは、小葉/乳管の上皮組織から発生する。ガン細胞は、はじめのうちは袋に包まれたような状態で、小葉や乳管内にとどまっているが、症状が進むと外を包んでいる膜(基底膜)を破り、乳腺内の周囲の組織に広がっていく。ガン細胞が乳管内にとどまっているものを「非浸潤癌」、ガン細胞が乳管の外に出たものを「浸潤癌」と呼ぶ。


小百合のガンは「小葉」にできた「非浸潤癌」という見立てだった。乳がんには他のガンとは違い「ステージ0」という病期がある。非浸潤癌はステージ0だ。ガンの中ではかなりマシな部類である。


しかし、そんなマシなガンであっても“手術ありき”なことに小百合は驚いた。乳腺外科の先生は、ずっとそればかり診ているから当たり前だと思っているのだろうが、たぶん一般人の感覚はこうだと思う。


・乳がん発見

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・薬とか放射線とかでどうにかする

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・それでダメなら部分摘出

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・薬や部分摘出で対処できない大きいガンは全摘出


実際にはそうではないらしい。「とりあえず全部取っちゃいましょう」って感じで話が進む。おいおい、待てやコラ!と、小百合は思った。


しかし、今後の治療の流れを聞いた小百合は、手術ありきな理由を理解した。乳がんは、手術をしてガンを直接見てみないと、本当の状態が分からないらしい。簡易的な検査では非浸潤癌となっていても、直接見てみると浸潤癌だったということもありうるのだ。


程度は不明だが、小百合が乳がんなのは間違いない。手術は絶対に必要である。山本乳腺外科クリニックは小さな病院なので、手術の設備はない。別府市には乳がんの手術が受けられる病院が2か所ある。九州大学病院別府病院と別府医療センターだ。小百合の住まいは別府医療センターのすぐ近くなので、そちらに紹介状を書いてもらうことになった。

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