【完結】解説者の秘めた夢
湊 マチ
第1話 和夫とこまち
東京都郊外の静かな住宅街に建つ和風の一軒家。文庫解説作家として知られる斎藤和夫は、そこで妻の美咲、娘の彩、そして愛犬のこまちと暮らしている。
早朝、目覚まし時計のアラームが鳴り響く。斎藤はゆっくりと目を開け、手探りで時計を止めた。「今日も一日が始まる」と心の中でつぶやき、ベッドから起き上がる。
顔を洗い、軽いストレッチをした後、キッチンで簡単な朝食を準備する。トーストにバターを塗り、熱いコーヒーを淹れる。この静かなひとときが、斎藤にとって一日の中で最も落ち着ける時間だ。
「おはよう、こまち」と声をかけると、足元で待っていたこまちは尻尾を振りながら喜ぶ。今日は「静寂の森カフェ」で編集者の佐藤恵美と打ち合わせがある。リードを持ち、こまちを連れて家を出る。
家の門を出ると、朝の清々しい空気が斎藤とこまちを包み込む。こまちは元気よくリードを引っ張り、先を急ぐ。「ゆっくり行こう、こまち」と笑顔で言いながら歩き出す。
近所の住人たちと朝の挨拶を交わしながら、和夫はこまちと共に静かな住宅街を進む。通り沿いの花壇には色とりどりの花が咲き、こまちはその匂いを嗅ぎながら楽しそうに歩いている。
住宅街を抜けると公園が広がる。朝の光に照らされた緑の芝生が広がり、小鳥たちのさえずりが聞こえる。こまちはリードから解放され、自由に走り回る。斎藤はその様子を眺めながら、心を落ち着かせる。
公園を通り過ぎ、再び住宅街に入ると、カフェ「静寂の森」が見えてくる。こまちはカフェが近づくと、さらに足取りを早める。「お、こまちもカフェが好きなんだな」と和夫は微笑む。
「静寂の森カフェ」は、緑豊かな庭園に囲まれた隠れ家的なカフェだ。入口には木製のアーチがあり、ツタが絡みついている。季節ごとに咲く花がカフェの外観を彩り、訪れる人々を優しく迎える。カフェの看板は手作り感あふれる木製で、温かみのある字体で「静寂の森カフェ」と書かれている。
石畳の小道を進むと、玄関には小さなベルが吊るされており、扉を開けると心地よい鈴の音が響く。外にはいくつかの木製のテーブルと椅子が配置されており、天気の良い日はここでお茶を楽しむことができる。庭には池があり、鯉が泳いでいる。自然に囲まれたこの場所は、まさに都会の喧騒を忘れさせるオアシスだ。
カフェの中に入ると、木のぬくもりが感じられる落ち着いた雰囲気が広がる。壁には棚があり、様々な本や雑誌が並んでいる。棚の上には陶器のティーカップや植物が飾られ、家庭的な温かさを感じさせる。テーブルや椅子はアンティーク調で、どれも一点物のような個性がある。
カウンターには、美味しそうな焼き菓子やケーキが並び、ガラスケース越しに見える。奥には大きな窓があり、庭園を一望できる席が用意されている。窓から差し込む柔らかな自然光が、店内を優しく照らす。
音楽は控えめなジャズが流れ、心地よい空間を演出している。カフェの一角には暖炉があり、冬には暖かい火が燃え、訪れる人々を温める。松田幸雄オーナーが出迎えるカウンター越しには、様々な種類のコーヒー豆や紅茶の缶が並んでおり、選ぶ楽しみがある。
カフェに到着すると、オーナーの松田幸雄が和夫を迎える。「おはようございます、斎藤さん。今日はこまちも一緒ですね」と優しく声をかける。
「おはようございます、松田さん。今日は編集者の佐藤さんと打ち合わせがあるので、こまちも連れてきました」と和夫は答える。こまちはカフェの庭で遊ぶことができるので、和夫は安心して打ち合わせに集中できる。
カフェの奥の静かな席に座り、和夫は佐藤恵美を待つ。間もなくして、佐藤が現れる。「おはようございます、斎藤さん。お待たせしました」と彼女はにっこり笑う。
「おはようございます、佐藤さん。さあ、今日の打ち合わせですが...」和夫はメモを取り出し、話を始める。
今回の解説依頼は、人気作家川端真理子の最新作『孤独な旅路』についてだ。川端は繊細な心理描写と深い人間観察力で知られる作家であり、彼女の新作はすでに多くの注目を集めている。
「この作品は、私がずっと書きたかったテーマに近いんです」と和夫は熱を込めて話す。「孤独と再生というテーマは、私自身の中にも深く響くものがあります。」
佐藤は頷きながら、「確かに、斎藤さんの解説はこのテーマにぴったりだと思います。ただ、締め切りが少し厳しいですが、大丈夫でしょうか?」と尋ねる。
和夫は一瞬考え込む。自分の作品を書く時間を確保したいという気持ちがあるが、解説の仕事も重要だ。「なんとかやってみます」と彼は決意を固めて答えた。
打ち合わせの最中、こまちが庭から戻ってきて、佐藤の足元にじゃれつく。佐藤は笑顔で「こんにちは、こまち。今日は一緒に来てくれてありがとう」と声をかけ、こまちの頭を優しく撫でる。こまちはうれしそうに尾を振り、佐藤の手を舐める。
「こまちは本当に人懐っこいですね」と佐藤が言うと、和夫も微笑んで「ええ、こまちはみんなに愛されてます」と応じる。その和やかなひとときが、打ち合わせの緊張を和らげた。
打ち合わせが終わり、和夫は庭で遊ぶこまちを呼び寄せる。「さあ、こまち。帰ろうか」と声をかけると、こまちは元気よく駆け寄ってきた。
帰り道、和夫は心の中で自分の夢と現実の間で揺れ動く気持ちを整理する。家に帰ったら、まず解説の仕事を片付け、その後に自分の作品に取り組む時間を作ろう。そう決意しながら、和夫はこまちと共に静かな道を歩いて帰った。
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