第3話 父

校舎の入り口で見知らぬ人物から呼び止められた。

「遅刻だぞ。マックスフライ」

各教科の教室への移動時は、予め心構えが出来る。

「この次は数学の授業だ。数学の教師と、同じ数学を選択をしたクラスメートたちと席を並べるのだ」と。

こんな風に、いきなり初対面の、でも向こうは僕を知っている、そんな人物から声をかけられるのが一番のストレスだった。

その言葉から、おそらく風紀取り締まり係の誰かなのだろうと推察した。

「えっと、すいません。ちょっと夜更かししてしまって・・、今後は気をつけます」

こういう時は、すなおに非を認め、早目に会話を切り上げるのが一番だ。

それは以前の世界でも、こちらの世界でも変わりない。

「そうなのか。学生の本分の為にも早目に就寝するように。ところで、君はギターをやるのかね?」

肩に通したストラップと、それに繋がる背面のギターケースを見て、その見知らぬ人物が尋ねてきた。

「あ、ええ。そうなんです。以前、少しやってたんですけど、また始めようかと思って・・」

クレー射撃の翌日の日曜日。このギターを求めて大きな街へと車を走らせた。

自分の行きつけだった大きな楽器店は、きれいに消えてなくなっていた。

仕方なく、通行人に別の楽器店の位置を尋ねて、そのドアをくぐったのだった。

お金には不自由しないおかげで、一番欲しかったギブソンフェンダーカスタムを手に入れる事が出来たけれど、馴染みの店も、馴染みの店員も姿を消していたのはやはりショックだった。

そう思いたくはなかったけれど、ロイも、姿を見なくなった友人も、仲の良かった店員も、やはり存在自体が消失しているのだろうか。そしてそれは僕が過去を・・

違う!、違う!、絶対にそれは違う!

”きっと、この世界のどこかで元気に生活しているはずだ・・”、そう自分に暗示をかけ続けていた。

「ギターか・・、まあ学業に支障のない程度にしてくれたまえ。君は我が高校のホープなのだからね」

「ありがとうございます。もう、行っても・・?」

遅刻のチケットを受け取りながら、これ以上この人物が何も尋ねてこない事を願った。

「ああ、あとお父様によろしく。『PTAにも可能な限り参加して欲しい』と、校長が言っていたと伝えておいてくれ」

校長だって・・!!

この人が校長なのか?!、それとも校長からの言葉を僕に伝えているだけって事なのか?!

「どうした?、そんなに驚いて。早く教室へ行きたまえ」

「あ、はい。校長先生・・」

彼が、「うむ」とうなずくのを見て、やはりこの人物がこの高校の長なのだと確信した。

ただし僕の知っているあの禿げ頭の校長とは違う校長だ。

「えっと、少しだけ聞いてもいいですか?」

「何だね?」

「以前に僕に『町外れに住む変人の発明家とは付き合わないように』って言ったのは校長先生でしたっけ・・?」

「いや、そんな事を言った憶えはないが。そんな変人がいるのかね?、この町に?」

「・・いえ、すいません。僕の勘違いでした・・」


一昨日、ギターを買いに行く前に、ドクターの家を訪ねた。

いや、ドクターの家のあった位置を訪ねた、と言った方が正しいかもしれない。

ドクターの家も、研究施設となっていたガレージも、楽器店同様、その存在が跡形もなく消失していたからだ。

背後に不審がる校長の視線を感じつつ、授業のある教室へと向かった。

”ドクター・・”

あの禿げ頭の校長から「あんな変人の所に、まだ出入りしているんじゃないだろうな?」と、そう詰問された方がどんなに良かっただろう。

こっちの世界からは本当に居なくなってしまったのか?

ドクターの存在を知っているのは、世界で僕だけなってしまったのか?

自分がこうして不思議の世界に迷い込んだアリスになってしまったのは、ドクターのせいでもある。

筋違いとは解っていても、やはり少しばかり恨みの感情を抱いてしまう。

何にしても、ドクターとあのタイムマシーンだけが、元の世界へと戻れる頼みの綱なのだ。

いつものように、突然、呼び出しの電話がかっかってきたりはしないのだろうか?

あの年の離れた僕の親友、ドクター・・、ドクター・・、何だっけ?

どういう事なんだろう。彼の名前が思い出せない。

確か、Eで始まる名前だったはずだ。エミリオだったか、エマーソンだったか・・、いや違ったかな?

それを言えば、禿げ頭の校長は何て名前だったろう?、確か、何とかランドだ。

オーランド・・ではなかったし、ガーランド・・?

自分が2人の名前を想起できない事に愕然としたけれど、すぐに思い直した。

いや、よくあるど忘れだ。最近、ずっと混乱続きだから・・

”きっと、そうさ・・”

芽生えた恐ろしい考えに封をし、背面のギターが軽くバウンドするのを感じながら、足早に教室へと向かった。


その日の放課後は、音響設備のある教室でギターを奏でた。いや、奏でまくった。

教室の利用申請をした時の学校の事務員まで、僕の名前を知っていたので、こっちの学内では自分は本当に有名人なのだと認識させられた。

当初は独りで演奏に没入しようかと思っていたが、ジェニーが付いて来たがり、それを断る理由を探している自分がいる事に気付いた。

いや、むしろギターを弾く自分の姿を知ってもらおう。そうすべきだ。

「あなたギターが弾けたのね、マーティン。ちっとも知らなかったわ」

「うん、以前、いとこから習ってたんだ。驚かせようと思って黙ってたんだよ」

楽器店ではスピーカーアンプ、イコライザーも併せて購入し、帰宅してからずっと自室でかき鳴らした。元の自分を取り戻す為に・・

「でもなんだか鬼気迫る感じでギターを鳴らしてたから、ちょっと怖かったわ。マーティン・・」

ちゃんと目の前に存在し、以前の世界と同じに僕の恋人でいてくれる。

そんなジェニーでいてくれる事に、心から感謝した。

ジェニーは僕なんかのどこが良かったんだろう。背も高くない、成績も良くない。スケボーは得意だけど、運動能力が高いって訳でもない。

硬派を気取って「彼女なんて別に欲しくない」なんて吹いていたけれど、本当は周りの恋人のいる友人たちを指を咥えて見ていた。

初めてジェニーに出会った時、「この子だけは、絶対に逃しちゃいけない」と、がむしゃらにアタックして、彼女もそんな僕の想いに応えてくれたのだった。

でもこっちの世界では、ジェニーの方から告白したらしい。

そりゃそうだろう。こっちの僕は成績優秀のエリートで、家は金持ちで、おまけにクレー射撃のオリンピック候補生なのだ。

「なあ、ジェニー」

「なあに?、神妙な顔して」

「もし僕が、本気でミュージシャンを目指したいって言ったら、君はどうする?」

「あらあら、恐れていた事が起ってしまったわ。でも、そうね。あなたが本当に本気なら、私は反対しないわよ。例えそれがオゾンホールの影響だったとしてもね」

「ずっと売れないミュージシャンでも、ついて来てくれるのかい?」

「もちろんよ、マーティン」

ジェニーに瞳をじっと見つめ、「ありがとう」と呟いた。

心からの「ありがとう」を。

でもジェニーの最後の言葉が、逡巡の表情と共にあったのも見逃してはいなかった。


この日、帰宅して自室で手帳を見つけた。

そこに記してある何人かの連絡先は、知った名前もあれば、そうでないものもあった。

知らない名前の者の、顔や外見の特徴が併せて記されていれば申し分なかったのだけれど、さすがにそれは望むべくもないだろう。

そして、手帳にロイの名前はなかった。

ドクターと校長先生の名前は、何度思い出そうと努力しても、どうしても思い出せなかった。

自分が憶えている限りの友人の名前を書きだしてみた。

何人かは、脳裏に顔は思い浮かぶものの、名前はどうしても思い出せなかった。

その『何人か』は、いづれも前の世界にでは友人だったけれど、こちらの世界では姿が見えなくなった者ばかりだ。

過去に持ち込んだ写真からは、兄貴と姉の姿が消えていた。

自分自身も、『深海ダンスパーティー』のステージでのギターの演奏中、手が透けて、自分の肉体が消えてなくなりそうになった。

まさか、存在が消えると、他人の中のその人に関する記憶まで消えてしまう、って事なのか?

”こんな事なら日記でもつけておけば良かったな・・”

いや、違うか。こっちの世界の僕がつけておいてくれなくては意味がないんだ。

そうだ。写真だ。

数時間前、サウンドルームで存分にギターを奏でた後、別れ際にジェニーが思い出した。

「そうそう、この前のキャンプ場の写真の現像が上がったのよ。あなたの分も焼き増ししておいたから」

リュックのサイドポケットから手渡された写真を取り出し、改めてしっかり眺めてみた。

僕はてっきり1955年の過去から戻ったままの服装で眠ってしまい、兄貴の「ジェニーが来たぞ」という呼びかけに、目覚め切らぬ頭で財布だけを手に手に、階下へ降りたつもりだった。

でも、ジェニーから渡された写真の中の僕は、その服は着ていない。

「僕はキャンプ場で着替えたんだっけ?」

「いいえ、施設のシャワーを浴びた後も、同じ服を着たわ。正直ちょっと嫌だった。汗臭いあなたを嫌いになりそうだったわ」

「ああ・・、ごめんよ。着替えを荷物に入れるのを忘れちゃって・・」

「嘘よ。でも今度は着替えを2つ位持って行った方がいいかもね」

ジェニーは茶目っ気の満ちた笑顔とウインクでそう言った。

「ああ、そうするよ」

どういう事だろう?、憶えていないだけで、出かける前にきちんと着替えたのだろうか?

それとも、ドクターと別れて自宅に戻った後、ベッドに入る前に着替えたのだろうか?

夜着でなく、翌日外出する為の服に着替えてベッドに入る・・、そんな訳はないし。

やはり、どこかのタイミングで着替えたのだろう。それ以外に有り得ない。

そして、その1955年から戻った時の前のマーティンマックスフライの服、つまりは本来の僕の服は、部屋のどこにも見当たらなくなっていた。

母さんが断りなく捨てたのだろうか?、確かに少しヨレてはいたけれど、まさか勝手に捨てるとも思えない。

”きっと部屋のどこかに紛れているだけだ。その内、出てくるだろう”

この時は、服の事をそれ以上はおかしいとは考えなかった。


ベッドに横たわり、天井を見上げながら、この数日を思い起こしてみた。

他人との会話は緊張の連続だったけれど、徐々にこちらの世界の人たちと自分との関係が判ってきた。

開き直って、こちらの世界の自分を小説の主人公になぞらえ、その言動を紐解いて楽しもうかとも考えたけれど、それは無理だった。

会話の齟齬は、何とか誤魔化せるようになってきたけれど、誰かと話をすればするほど、そのストーリーの中には自分がいないという疎外感が膨れ上がるばかりだった。

そして、それを悟られないように常に気を張りつめた。

いっそ家族の誰かか、ジェニーに告白してみようか。僕は僕じゃないと、過去を書き換えてやって来た別のマーティンなんだと。

馬鹿を言えマーティン・マックスフライ。そんな事をしたら精神科に連れて行かれるのがオチだ。

”不安なのは今だけだ・・、いづれ必ずこの環境に慣れる。そのはずだ・・”

ジェニーからもらった写真と、そこに映ってはいなかった洋服によって、真の絶望に追い落とされようとは、この時はまだ、夢にも思わなかった。



1955年から戻って1ヵ月半が経過したある週末、出先から帰宅すると玄関前のポーチで、父さんから「話がある」と呼び留められた。話の内容は予想できる。

ポーチに吊るされたブランコに父さんと並んで腰を下ろす。

11月も半ばを過ぎて、ここカリフォルニア州は涼風が吹き始めていた。

朝、姉も兄貴も所用があって帰宅は遅くなると言っていた。

きっと母さんは中で料理をしている。もしかしたら話の邪魔をせぬようにと、父さんから言い含められているのかもしれない。

「マーティン。前回の大会のキャンセルは仕方がなかった。肘を痛めてしまったんだからな。でもクレー射撃自体を止めたいだなんて、一体どうしたんだ?」

「ああ・・、父さん。それを説明するのは難しいんだけど・・」

当惑する僕に、追い討ちがかかった。

「それに学校の成績も落ちているんだって?、補講クラスに通うなんて、今までそんな事なかったのに」

てっきり怒られるかと思っていた。でも父さんからは優しい言葉が告げられた。

「何か悩み事でもあるのか?、父さんに何でも話してくれ」

「僕はあなたの知ってる息子とは違う人間なんだ」そう喉まで出かかって、それを押しとどめた。

「うん。その・・、あと半年位で卒業だろ。人生を見つめ直すっていうか、クレー射撃って本当に自分がやりたかった事なのかとか、色々考えちゃって・・、でも心配しないでお父さん。何も変な事にはならないよ。成績もちゃんと取り戻すから」

瞳を覗き込んでくる父さんに、少したじろぎつつも、しっかりとした回答で安心させようと努めた。

そうだ。せめて勉強はこちらの世界のマーティンと同じレベルにしなくては。

こちらの父は、あの父ほど髪が薄くない、食生活が整っているからだろう。

むこうの母さんの料理はヘルシーとはほど遠かった。

「そうか。まあ郡の大会では優勝できても、州となるとまたレベルが上がるしな。お前の人生なんだ。射撃を止めたいのなら、お父さんは責めたりしないよ。学業はまた以前のように家庭教師をつけたっていいんだし」

”そうか、以前は家庭教師がいたんだ・・、こっちの世界の僕の成績の良さは、その賜物なのかもしれないな・・”

前の父さんはうだつの上がらない、はっきり言って他人からは情けない人間に見えたはずだ。

でも優しかった。他人から、母さんからすら馬鹿にされるような父さんでも、僕は好きだった。

目の前のこの人物も、やはり優しそうに見える。

実際そうなのだろう。もう一人の父さんと同じに、僕を責めたりはしない。

前の世界の母さんは「ミュージシャンなんて大きすぎる夢だ」と呆れていた。

でも父さんは「やるだけ、やってみろ」と、僕の夢を肯定してくれていたのだ。

「お父さんはこんな感じの人生だ。でもお前はいくらでも可能性がある。好きな事をやればいいんだよ」

そんな父さんからの懐かしい言葉が思い出された。

こちらの世界の精悍な父さんも、同様に子供に気を配ってくれる人物である事が喜ばしかった。

しかもビルに苛まれる事もない、高収入の一流誌専属のライターなのだ。

念願だった小説も出版し、その処女作は売れ行きも好調で、今週なぞはどの教科の教師も「お父さんによろしく」と声をかけてきた。

ふいにひとつの懸念、ひとつの言葉が心に浮かんだ。

「誤魔化すなよ、ビル!、ワックスは2回と言ったはずだ!」

この世界に来た最初の朝、この目の前の男性はビルに向けて、そう声を張り上げた。

以前のようにビルに屈したりしない、強気な父さんである事を、その時は頼もしく思った。

でも、少し引っかかる感覚もあった。

次いで、先週の兄貴との会話が、脳裏に蘇った。

「どうして父さんはビルの車体清掃サービスを使ってるの?、昔からの知り合いに頼むのって気まずくない?」

「うん・・、お前も知っておいてもいいのかもな。父さんとビルが同級生なのは知ってるよな?、高校の最後の年、信号で停車していた父さんにビルがシグナルレースを挑んできたんだ・・」

思わずゴクリと唾を飲み込んだ。それって僕の話じゃないのか・・?

あのシボレーノヴァで時々、学校のワルたちからレースを挑まれ、その度に応じていた。

一度、姉貴にその現場を目撃され、両親に報告されて、2人からきつく注意されたんだ。

「そ、それで・・」

「うん、次の交差点で脇から走って来た車と接触してビルの車が横転したんだ。ビルが片足を引きずってるのは気付いてただろう?、それはその時の事故で障害を負ったからだ」

唖然としてしまった。

ビルはどうしようもなく嫌なヤツだ。だからこっちの世界での情けない姿を見て、溜飲が下がる思いだったけれど、まさかそんな不幸に見舞われていたとは。

「彼は本来やりたかった仕事を諦めて、車清掃サービスを起ち上げた。レースを挑んで来たのはビルからだし、突っ込んできた車が脇見運転をしていたから、父さんには責任はない。でも父さんがレースに応じなかったら、あの事故は起きなかったはずだ。だから何ていうか・・、そこに少しばかり責任を感じているんだよ。ビルの事業は苦戦しているみたいだから、少しでも彼の助けになればと、父さんはそう思ってビルに依頼してるのさ」

「そうだったんだ・・」

父さんが、レースに応じなければ、いや、僕が過去を変えなければ、ビルは障害を負わずに済んだって事なのか?!

ドクターは言った。「過去を変えてはいけない。時空に異変が起きる」と。

僕はそれをしっかとやってしまったんだ・・

こちらの世界に来てから、ずっと苦しんでいる。自分と他人との記憶のギャップに。

単に、話を合わせるのが苦痛というだけではない。

自分と同じ経験、同じ感情を抱いたはずの人間が、こちらの世界にはいないのだ。

「父さん・・」

「何だい?」

「僕ら3人の子供の内、誰かがマッチで火遊びして居間のカーペットを焦がした事・・あるかな?」

「いや、そんな事件はなかったさ。ウチの子はみんないい子で、火遊びなんかしないよ。第一、家にはマッチもライターもないだろう?、お父さんはタバコは吸わないし」

「うん、そうだよね・・」

次いで「お父さんが高校の時、ダンスパーティーでスゴい演奏をした人がいた?」そう尋ねたかった。

でも、その言葉は喉につかえて、最後まで声として発する事が出来なかった。


あの禿げ頭の校長からは「マックスフライ家は代々、落ちこぼれだ」とそう揶揄された。

僕は「歴史は変わるものです」と、そう反論した。

それはもちろん「僕が有名ミュージシャンになって世間を見返す」という意味でだ。

そして、デロリアンを駆って過去に遡り、本当に歴史を変えたのだった。

こちらの世界の校長からは、「君はお父さん同様、優秀だ」と、そう賞揚の言葉をもらっている。

この世界で父さんがエリートで、かつ小説まで出版できたのは、僕が過去で父さんに喝を入れたからだと思っていた。

ビルを殴れるような度胸が、父さんをいい方向へ促したのだと。

でも、それは勘違いだったんだ。

僕が過去に戻ってやった行動は、僕自身が別世界の闖入者になってしまった。ただ、それだけなんだ。

こっちの世界の僕は、クレー射撃のオリンピック候補生だ。

でもこの僕は、セブンイレブンのアーケードのプラスチックの銃しか握った事がない。

こっちの世界の僕は、進学重点クラスに籍を置き、その中でもトップクラスの成績だ。

でも時々、赤点をくらって補講教室で四苦八苦しているのが本当の僕だ。

こっちの世界のジェニファーの処女を奪ったのも、僕だけど僕じゃない。

この目の前にいる、凛々しい男性も僕の知っている父親じゃない。

確かに彼はエリートで、優秀な人物で、上梓した本がヒットして全米に名前が知れ渡りつつある。

でもこの男性は釣り道具を持っていない。

こっちの世界の僕は、父さんでなく他の誰かから釣りを教わったらしい。

釣り竿を初めて握った幼いあの日、何も釣れずに落ち込んで泣いた僕を肩を抱いて慰めてくれた、あのお父さんが恋しかった。

あの風采の上がらない、頭の薄い、会社でもうだつの上がらない、ビルにいい様に使われている、あの男性こそが僕の本当のお父さんなんだ。

そんな僕の愛していたあの父さんは、もうどこにも存在しない。

世界のどこにも、いや、時空のどこにも。

オーディションに落ちた僕の肩を抱いてくれたジェニーも、いじめっ子を追い払ってくれた兄貴も、ここには居ない。

その人たちはもう、僕の頭の中にしか存在しないんだ・・

そして、何より・・

そして、何より、この世界のマーティン・マックスフライはどこにいるんだ?

僕は、もう気付いてしまった。

僕が過去を改編し、デロリアンで1985年のこの世界にやって来た事によって、クレー射撃の名手であるマーティンは消え去っているんだ。

いや、それ以上の何人もの人間が・・


ドクターは一向に現われない。もう元の世界に戻るのは無理そうだ。

戻った所で、再び過去を改編した所で、また自分の知らない世界に紛れ込んで孤独を深めるだけなのだろう。

こうなってみて初めて解った。自分は結局、自分以外の人間にはなれないんだ。

そんな想いを巡らせている内に、知らない間に涙ぐんでいた。

ブランコの隣に座る『お父さん』が心配そうに声をかけた。

「どうしたんだい、マーティン。大丈夫か?」

「いや、こっちのお父さんも優しいなって思って・・」

「こっちの?、って?」

「いや、何でもないんだ・・」

あのオンボロのシボレーノヴァは、この世界のどこかを疾走しているのだろうか。

それとも、とっくにスクラップになっているのだろうか。

或いは、こちらの世界では最初からその存在がなかったのかもしれない。

懐かしいあの運転席にもう一度座りたい。

そう切望していた。

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