マーティン・マックスフライの憂鬱

水撫川 哲耶

第1話 違和感のはじまり

すべては快調だった。

2400cc、直列4気筒のターボエンジンは、座席を通じて尾骶骨を震わせ、そのまま魂までも揺さぶった。

フリーウェイの真っすぐ延びる道路をノンストップで回転し続ける4つのタイヤは、アスファルトをしっかりとグリップしている。

アクセルは敏感に反応し、コンピュータ制御が車の状態を読み取り、最も適切な数値をエンジンに伝え、この車の加速性能を遺憾なく発揮させる。

トヨタ4代目ハイラックス、最高の車だ!

周囲を走るどんな車よりも、この僕がハンドルを握る4WDが一番輝いてるように感じられた。

実際に車体は輝いていた。

新車であるという事だけでなく、ビルが2重にワックスがけをしていたからだ。

あのボロボロのシボレーノヴァの外観とは雲泥の差だ。

もう馬力が足りなくて後続車に道を譲るなんて惨めな思いはしないでいいんだ。

しかも、ずっと憧れ続けた走破性抜群のこの車は、父親の所有ではなく、自分の名義なのだ。


視線を横にやれば、助手席にはパーフェクトなガールフレンドが座っている。

先刻、ショートカットの為に有料区間の料金所を通る際、「ここは私が払うわ、ガス代の代わりよ」、彼女はそう言った。

そんな気遣いのできる最高の女の子と一緒になれた自分は本当にラッキーだ。

どうしてこんなにジェニーを好きなんだろう。

ハンドルを小さく刻みながら、2人が出会ってからの日々を思い出しながら、ふと考えた。

”ジェニーが生涯の相手なのだろうか?”と。

昨晩、ドクターが未来へと旅立つ際に、「47歳の僕を見てきて」とそう頼んだ。

47歳の僕も、ハンドルを刻みながら、時々、助手席のジェニーに目をやっているのだろうか。

ドクターが未来から戻ってきたら、是非とも教えてもらう必要があるな。


それにしてもこの新たな人生は最高過ぎる。

憧れの車に、以前のボロ家とは違う立派な家の外装にインテリア。兄貴もパートでなく正規の社員でばっちりスーツを着ている。愚痴と小言ばかりだった母親は「あのお嬢さんとの小旅行を楽しんでらっしゃい」と快く送り出してくれた。

全てはドクターと、彼の発明した車型タイムマシーンのおかげだ

つい昨晩は雷鳴のとどろく夜空の下で、ハンドルを握っていた。

否、僕にとっては昨晩でも、実際には30年と1日前の出来事なのだ。

あの嵐の夜、落雷のタイミングに、その流れる電流に、時速88マイルで疾走するデロリアンをクロスさせなくてはならなかった。

そんな最高難易度の手に汗を握る一瞬を、僕は完遂させたのだ。

続くリビア人たちの襲撃も、ドクターは機転で乗り切った。

本当に、奇跡の連続だった。

その危機を乗り切ったご褒美が、この4WDとジェニーとの小旅行なのだ。

未来から戻って、全ては完璧な方へと変化していた。

今、僕は最高の人生を歩み出したんだ。


「なぁに?、考え事?」

「あ、うん。まあね。最高の車に最高のガールフレンド。僕以上に幸せなヤツがこの世にいるのかなと思ってさ」

「もー、マーティンったら」

笑顔で肩にもたれかかってくるジェニーの頬に軽くキスをした。

一時は未来に戻れず、この屈託のない笑顔と再会できないかもと覚悟していた。

この関係がどこまでも続くように、とそう願わずにはいられない。

「そうね。後は大会で結果を残すだけよね」

「ああ、次こそはパスしてみせるさ。絶対にだ」

この時は、少し違和感を感じたけど、そのままスルーした。

”きっとジェニーは大会(Competition)とオーディションを言い間違えたんだな”と。

先週、学校の講堂でのバンドオーディションに落ちた事は、あまり思い出したくはなかったし。

「ところで、ひとつ謝らなきゃならない事があるのよ・・」

「何だい?」

「バーベキューセットは私が用意するって言ったでしょ?、それを忘れてきちゃって・・、キャンプ場で貸し出ししてないかしら?」

「あー、それは判らないな。でもどの道、食材の買い出しにどこかに寄るだろう?、その時、料理器具も一式買っておこう」

落雷の夜から現代に戻り、そのまま泥の様に眠った。

「ジェニーが来たぞ」と、兄貴に起こされて、寝ぼけた頭で完全に状況を把握しきれないまま、湖にキャンプに行くことだけは思い出せた。

おっ取り刀で、机の上の財布をポケットに押し込み、玄関で待つジェニーに思わず抱き着いてしまったのだった。

「まるで一週間も離れていたみたいね」

ああ、そうだ。ジェニーの姿を見るのは一週間ぶりだったのだ。

そしてポケットに収めた自分の財布はぶ厚かった。

一週間前、ドクターから呼び出されてモールの駐車場へ向かう時も寝起きだった。

だから財布を部屋に忘れたまま、ジャケットの中の小銭だけで過去に遡ってしまったのだ。

幸い30年前のドクターの家に逗留した時は、ほとんどお金は使わなかったし、ドクターがいくらか貸してくれたので、不自由はなかった。

未来から帰還して、変わっていたのは父さんの仕事や、母さんのスタイルだけではない。

僕の財布の中身も高額紙幣がたっぷりのリッチなものになっていた。

多分、調理器具を店の棚ごと買ってもダメージは受けないだろう。

高級取りのエリートで、僕に4WDをプレゼントしてくれた父親に感謝しきりだ。

おまけにその父さんは処女作まで出版したのだ。

過去の彼は作家になる事を夢見ており、それを叶えたのだった。今度は僕がこの世界でミュージシャンへの夢を成就させる番だ。


フリーウェイを下りて、信号で停車するようになってから、発車の際、何度かノッキングしてしまった。

以前の父親の車、シボレーノヴァとはアクセルの踏み代が違うからだ。

否、踏み代の違いというよりは、あのボロ車はアクセルが緩くなっていたのだろう。

これまで、あの車にしか乗ってこなかったので、アクセルを最初から強めに踏むのが癖づいてしまっていたのだ。

それに側方感覚もだいぶ違う。

車体の大きなこの4WDが、サイドのポールに近づき過ぎて、ジェニーが「危ない!」と叫ぶ一幕もあった。

「ちょっとマーティン大丈夫?、何だか今日の運転、いつもと違うわよ」

「あ、ああ・・、まだ慣れなくってさ・・」

「慣れる、って?」

訝しげな顔でジェニーが尋ねてきた。

「いや、ほら、前の車と感覚が違うだろ?」

「前の車・・?、だって免許取ってすぐ、お父さんにこの車を買ってもらったんでしょ?、誕生日前にプレゼントの先渡しだって」

「えっと、つまり・・、ほら、こいつが納車されるまで、練習の為に親父の車をしばらく転がしてただろ?、そういう意味さ」

そう言ってみて気が付いた。

僕は一体、いつからこの車に乗っているんだろう。

今、ジェニーは「誕生日の先渡し」だと言った。

僕は16歳になってすぐ免許を取った。

免許取ってすぐ買ってもらったって事は、今が10月で僕の誕生日は6月だからつまり1年4ヵ月前だ。

それだけの期間、この車のハンドルを握っている事になる。

それでノッキングして「まだ慣れてない」なんて言ったら、ジェニーが訝しむのも無理はない。

「でもあなた。普段はノッキングなんかしてないじゃない?」

「ほら、ふいに昔の習慣が蘇る事ってあるだろう?、多分それなんじゃないかな。最近ちょっと色々あったから、僕の頭もパニックってるんだろうな」

更なる追及を、そんな言葉でかわした。

「ふぅ~ん・・」

ジェニーの顔に納得のいかない表情が浮かんでいるのに気付かぬふりをして、アクセルに神経を集中させた。

途中、大型量販店に立ち寄り、調理器具と食材を買いそろえた。

「割り勘にしましょ」

この分厚い財布からなら、いくら出費しても良かったのだが、そう提案しかけて「男と女は対等でなきゃ」というジェニーの口癖を思い出した。

女性の権利を尊重するのも、いい男の条件だ。


シーズンの過ぎた10月とあって、キャンプ場の客はまばらだった。

好都合だ。2人だけの空間が多く持てる。

もっと寒い、誰もいない時期に来て、貸し切りになって良かった位だ。

標高が高い事もあって湖面からは時々、冷たい風が吹きつけた。

当初、夜空の下に寝袋だけのつもりだったけれど、やはりテントも設営する事にした。

湖畔が眼前に広がる草地でテント張り終えた時、「これが今晩の僕たちの愛の巣って訳だ」と、思わずそんな本音を漏らしてしまった。

「もー、止めてよ。そんな言い方・・」

そう言いながらも、ジェニーもまんざらでもなさそうに見える。

”女子の恥じらいっていいもんだよな・・”

そんな勝手な事を思いつつ、先程から気になっていた事をジェニーに尋ねてみた。

「君がこの車に初めて乗ったのって、いつだっけ?」

「え?、だからこの車が届いてすぐでしょ」

「そうだっけ・・?」

「そうよ。届いてすぐ『ピカピカの新車でドライブに行こう』って。『私を一番最初に乗せたいんだ』って」

「その時も泊りがけだったっけ?」

「もー、何言ってるのよ。さすがにいきなりそんな事にはならないでしょ。親だって許さないわよ・・」

顔を赤らめて、うつむくジェニー。

恥じらいながら、僕が身持ちの堅さを計っているのかと勘違いしたのだろうか、尋ねてもいない事を、彼女はそっと口にした。

「私、今までにあなただけなのよ・・」

ジェニーの頬が更に赤く染まった。


トヨタ・ハイラックスのキャリアボックスを開けてみて、思わず「ワォ・・」と声を漏らした。

そこに収まっていた釣り竿もリールも、以前から欲しかった、でも高くて手が出せなかった超高級品だったからだ。

手に取って「こいつが欲しかったんだ・・」と呟くと、もうこの日、何度目かのジェニーの不審顔が真横にあった。

テントを設営したすぐ先に、湖に注ぎ入る流れがあったので、流水を好むニジマスを狙って、そこで竿を振った。

釣りは父から教わった。

うだつが上がらない父だったが、釣りの腕前だけは達人級だった。その父に仕込まれたのだ。

何度か『アタリ』があったが、慣れない道具のせいか、うまく合わせられなかった。

流れを遡ってポイントを細かく変えて、竿を振り続けた。

一度、あわせが上手くいった時も、ベイト式リールの扱いに手間取る間にバレてしまった。

僕は以前の世界ではスピニングリールしか使った事がなかったのだ。

結局、2時間粘って釣果はゼロだった。

ジェニーの下に戻ると「まあ、そんな日もあるわよ。晩御飯の支度を手伝って」と、慰めの言葉と共に新たな任務を仰せつかった。

予定では意気揚々と、晩餐の追加の一品となるニジマスを手にして、ジェニーからの賛辞を受けるはずだったのに。

「夏の前には60cmのニジマスを釣り上げたんだけどな・・」

「え、そうだったかしら?、あれはヒメマスだったでしょ?、サイズも40cmだったわ」

「いや、そんなはずはないさ。ニジマスの60cmオーバーだ」

「ああ、よくある話(fisherman's story)って事ね」

「そんなんじゃない。本当に釣ったさ!、ニジマスのビッグサイズだ」

2人の皮むきの手が止まって、険悪な雰囲気になりかけたので、慌ててフォローを入れた。

「僕の言い間違いか、君の聞き間違いかのどちらかだね」

大事な夜だ。こんな事で揉める訳にはいかない。

「じゃあ、私の聞き間違いって事で・・」

肩をすくめて作業に戻るジェニーの横顔を見つめながら、何かが喉につかえるような感覚が芽生えた。

刻んだ野菜をダッジオーブンに投入し、同時に売り場で一番高かったステーキ肉をソテーした。

量販店では、リッチな父親と分厚い財布に感謝しつつ、ダッジオーブンも鋳物製の一番高いものを迷わず選んだ。

オーブンは今後もキャンプで使うのだから、それなりの品を持っていてもいいはずだ。

「まあ、普段節約しているから、こんな時位、贅沢しないとね」

「まあ、呆れた。あなたが一体いつ節約なんてしたの?」

「え?、してるだろう・・」

「つい2~3日前も『お金の使い方が荒いわよ』って注意したばかりなんですけど」

「あー、えーっと、そうだったかな」

こちらの世界の僕が浪費家になるのも無理はない。こんな分厚い財布なんか持っていたら、節約なんて無意味だろう。

「お父さんと同じような高給取りになれるとは限らないんだから、あんまり贅沢に慣れちゃダメよ。でもまあ、あなたは有望株よね。みんなもそう言っているし」

「あ、ああ、そうだね。そんな風に言われるなんてありがたい事だ・・」

「そうよ。成績もトップクラスだし、今度の大会だってみんな注目しているわ」

「え?、大会って何の?」

「ちょっとしっかりして頂戴。クレー射撃のよ。決まってるでしょ?」

「クレー射撃だって!!」

僕は驚いて叫び、その声の大きさにジェニーも飛び上がった。

「ちょっと!、どうしたの?、そんな大きい声出して・・?」

頭の混乱を何とか鎮めて、その場を取り繕った。

「驚かせてごめんよ。突然、叫んだらどんな反応をするのかと思って・・」

「もー、今日のあなた本当に変よ・・」

上手くごまかしきれたかどうか、ジェニーの表情を気にしつつ、この事態を飲み込もうと努めた。

どういう事なんだ。こっちの世界の僕はクレー射撃をやっているのか?!!

そうか、さっきの『大会』は、決して『オーディション』の聞き間違いじゃなかったんだ。

その後の食卓では、料理の味が全く感じられなかった。

1955年から帰還してから、まだ24時間も経っていない。

30年前の過去の世界では、未来に戻る為にやらなくてはならない事、考えなくてはならない事の連続だった。

こっちの世界(ホーム)に戻って来て、厄介事の全てから解放されたと思っていた。

トヨタ・ハイラックスのハンドルを握っていた時は、ホームが完璧な世界に変貌したと、最高の人生を手に入れたと快哉を叫んでいたのに・・

いいさ、全てを受け入れてやる。

何といってもハイラックスは僕のものなんだ。

そういえば、まだ父さんの職業が何かを聞いてなかった。

でも、家の様子や両親の身なりからするとエリートなのは間違いない。

それに息子の誕生日にトヨタ・4WDをプレゼントする位なのだから。

多少の混乱、多少の違いはあっても、以前の環境よりはずっと恵まれているはずだ。

きっと家の自室に帰ったら、アイバニーズの使い古したギターなんかじゃなく、最高のギブスンのフェンダーカスタムがあるに違いない。

前の世界では、楽器店で指を咥えて眺める事しかできなかったアレだ。

白け顔のジェニーに気付いて、考え事を中断した。

「そう、大会だよ。そのせいでちょっとナーバスになっててさ」

「ああ、マーティン。気付いてあげられなくてごめんなさい。だってあなた昨日までは自信満々に見えたから・・」

夕食を終え、2人で少し散策して、湖面に月が映るスポットでキスをして、テントの中で、その続きをした。

僕がジェニーと付き合い始めたのは、17歳になる少し前だ。

つまり恋人同士になって5ヵ月位だ。

でも、ジェニーは16歳の誕生日に車が届いてすぐ、この車でドライブしたと言っていた。

じゃあ、こっちの世界では1年と5ヵ月付き合ってるって事なんだろうか?

それとも、こっちの世界の『僕』は、17歳で免許を取ったって事なのか?

そんな複雑な想いを抱きつつ、ジェニーの肌を感じていた。

いや、もう考えないようにしよう。

とにかくジェニーは今、この腕の中にいるんだ。

そしてこの先もずっと。

それでいいじゃないか・・、まずは今晩を楽しもう。

そんな混乱と期待の渦の中、いつの間にか眠りに落ちていた。



喉が渇いたので、冷蔵庫に何か求めようとキッチンへ降りると、そこでニヤニヤ顔の兄貴に捕まった。

「ジェニーと一発、キメてきたのか?」

昨日、キャンプに出掛ける前に見た兄貴はスーツ姿だった。

前の世界ではパートタイムのファーストフード店の夜番だったけれど、こちらの兄貴は正規の社員としての職を得ているらしい。

でも、下品さは変わりないようだった。

「うん、そうだね。キメてきたよ・・」

「そうか、女は最初が肝腎だぞ。あと、避妊もしっかりな。高校生で子供なんかできたら人生が狂うぞ」

兄貴の顔をじっと見つめた。

兄貴が何の仕事に就いているか聞くべきだろうか。或いは兄貴にもガールフレンドがいるのか、とか。

「何だよ?、オレの顔に何か付いてるか?」

「いや、何でもないよ・・」

「ま、オレは前の彼女の方が好きだったけどな」

一瞬、混乱した。

一体、誰の彼女の話なんだ・・

「まっ、前の彼女って・・?」

「サラだよ。まあ、もう随分前だし。過去の女だよな」

それ以上、兄貴の口から何も聞きたくなかった。

兄貴の視線から身を翻して、逃げるように自室に戻った。

ジェニーとのキャンプから戻ったその晩、気疲れしてヘトヘトではあったけれど、改めて自室を見渡す力は残っていた。

未来から戻って家自体が別の立派なものに変わっており、同様に自室も自分の見知ったものではなくなっていた。

昨晩、ドクターと別れてからは猛烈に眠く、電気も点けずにベッドに潜り込んだので、それらの違いに目をやる事が出来ないでいたのだ。

ハンガーに掛かっている服は、自分好みのものとは違っていたし、部屋のインテリアもそうだった。

家族の変化と同様、全体的にお上品な感じになってしまっている。

未来から戻った時、兄貴が不審そうに僕の着衣をまじまじと見つめたのも、それがこの世界の僕の服装とは違いカジュアル過ぎたからだろう。或いは、ぼさぼさの寝ぐせの髪がおかしかったのかもしれない。

CDの棚もプログレッシブロックやハードロックではない、かなりおとなしめのタイトルが並んでおり、クラッシックのCDすら何枚かあった。

そして・・、ギターがなかった。スケートボードもだ。

手持ちの2つのスケボーは自室と玄関の2ヵ所に置いてあるはずなので、玄関に確かめに行ったけれど、やはりそこにもなかった。そもそも僕の知っている玄関じゃなくなっている。

そしてギターとスケボーが消失した代わりに、部屋の一画にはガンロッカーがあった。

不用心にもカギはかかっておらず、中を開くと、そこにはおそらく競技用であろうショットガンが鎮座していた。

取り出して、手に取ってみると、それはずっしりとした手応えがあった。

ショットガンを持つのは初めだ。

そして、それもやはり高価そうな品だった。


昨夜のジェニーとの会話を思い出してみた。

「お父さまみたいな作家を目指すの?」

「いやぁ、あれは特殊能力だよ。誰にでも作品が書けるって訳じゃないだろ?、僕はやっぱりギターで勝負したいんだ」

「ギター・・?、そう、あなたミュージシャンに憧れているのね」

その時、ジェニーが少し呆れたような表情したのは、気のせいだと思っていた。

これで合点がいった。

何てこった。こっちの世界の僕はギターもスケボーも嗜んでいないんだ・・

銀色に輝くギブスンがあると思って、意気揚々と部屋に帰ってきたのに・・


昨日の朝、ビルがBMWにワックス掛けしていた。

間違いなく父さんの車だ。グレードまでは判らなかったけれど、明らかにハイランクだった。

つまり、車も息子も高級な何かに変わってるって訳だ・・

僕が「借りて乗っていた父さんの車とはアクセルの踏み代が違う」と言った時、僕の中ではそれはオンボロのシボレーノヴァがイメージされていたけれど、ジェニーにとっては『父さんの車』は、あのハイランクBMWを意味しているんだ。

最高のガールフレンドとの最高の小旅行のはずだったのに、終始言い訳に追われて心が休まらなかった。僕のちぐはぐな応答を怪しんだジェニーの表情が今でも目に浮かぶ。

そのせいか、テントではあまり眠れず、眠気を抱えたまま帰り道のハンドルを握った。途中、ジェニーに運転を代わってもらった位だ。

そして兄貴は「前の彼女」と言っていた。

前の世界では、僕もジェニーも、お互いが最初のステディだった。

でもこっちの世界の僕は、ジェニーの前に他の彼女がいたんだ。

「そうか、ジェニーにとっても、僕は僕じゃないんだ・・、ジェニーの知ってるマーティンは、この『僕』とは違う人間なんだ・・」

そして僕にとってもそうなんだ・・

「オーディションに1回落ちたからって世界の終わりじゃないわ」と慰めてくれたあのジェニーはここには居ない。

昨晩、抱いたジェニーは、僕のミュージシャンになる夢を応援してくれたあのジェニーとは違うジェニーなんだ・・

その事実に愕然として、しばらく固まって動けなかった。


ふと我に返り、改めて手に感じる重量物を見つめてみた。

こっちの世界の僕は、今までにこいつをどれ位、撃ったのだろう。

ジェニーは「大会が楽しみね」と、そう言っていた。

壁にかかった月替わりのカレンダーを1枚めくると、来月の11月後半に『大会!』という書き込みを見つけた。

僕がクレー射撃だって・・?

面白いじゃないか!、やってやろう!

机の上のレターケース探ると、そこにウッドロー射撃場射撃場からの定期案内状を見つけた。

それがどこにあるのかと、父や兄に聞く訳にもいかない。

電話帳で住所を調べ、次いでその位置を地図で調べた。自宅から車で40分位の所にある射撃場だ。

大会まで、あと約1ヵ月。

とても入賞できるとは思えなかったけれど、せめて形にだけはしなくてはならない。

財布の中のたっぷりの現金で、利用料も楽々支払えるし、弾だって際限なく買えるはずだ。

トヨタ・ハイラックスのアクセル加減には、すぐに慣れた。

クレー射撃は、どうだろう・・、不安感に捕らわれ、ごくりと唾を飲んだ。

いいや、マーティン・マックスフライ。お前なら出来るさ!

こっちの世界の、自分の境遇は完璧なんだ。

トヨタ4WDに、ショットガンに、釣り竿。最高の品ばかりに囲まれている。

それにビルに馬鹿にされる事のないリッチで精悍な父さん、口を開けば愚痴ばかりだった母さんは、スマートな体形に変貌して、ジェニーとの交際にも理解を示してくれる。

兄貴はスーツ姿の正規職だ。

そう完璧な世界に僕はやって来たんだ。

ショットガンをロッカーへと収め、明日からの学校に備え、眠りに就いた。

疲れが不安感を上回り、ストンと感嘆に眠りに落ちた。

”でも一番、大事な何かが足りてないぜ・・”

微睡(まどろみ)の淵で、そんな声が聞こえたような気がした。

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