鏑木の家
「あー……くっそ、あいつら集団で、マジひでぇよな」
鏑木が、殴られ土のついた頬を拳で拭い、血の混じった唾を地面にぺッと吐き捨てた。
「つか、なんでお前がここにいんだよ」
不遜な態度で、鏑木が俺を睨みつけた。
――あの後威勢よく路地に飛び込んだ俺は、その奥で男たちに組み敷かれ、一方的に殴られている鏑木を見つけた。駆け寄る勢いのまま、馬乗りになっていた男を背後から殴り飛ばして引きずり下ろすと、両脇にいた男の一人を蹴り倒し、鏑木を助け起こした。
……と、まあカッコいい感じなのはここまで。
なんせ相手は喧嘩慣れした成人男性五人。俺自身に武道経験があるとはいえ、大勢と喧嘩したことのない俺はさすがに不利で、その後すぐに返り討ちにあり、結局鏑木と一緒にボコボコにされてしまった。
「まあ……たまたま。俺、このへんの居酒屋でバイトしてて、ちょうど帰るとこだったとこをすれ違った」
いってーなと思いっきり蹴られた鳩尾を押さえつつ、俺は制服についた土を手で払う。
ズボンは替えがないから大事に履いていたのに、膝が擦れて少し毛羽立ってしまった。あとリュックも土まみれだ。たぶん、背中はもっと土まみれのはず。白シャツの土汚れは綺麗になるだろうかと、ため息を吐く。
「バイトしてんの? マジかよ」
居酒屋でバイトと聞き、鏑木がへえ~という感心したような声を上げた。
「……で? なにがあったんだよ」
「なんでもいいだろ」
「よくねぇよ。俺が来なかったらもっと大変な目にあってたんじゃねぇのかよ」
「知るか。てめぇが勝手にきたんだろうーがよ」
ブスッとした顔でそっぽを向く鏑木。
しかし小さく「……まあ、来てくれて助かったけどよ」と呟いた。
「……もう大丈夫そうなら俺帰るわ」
バイトの後でこの喧嘩だ。正直、もう帰って寝たい。
くたくただ。やっと鏑木を捕まえたけど、今日はあんまり余裕ないから仲良くなる作戦はお預けだ。
「いってぇ……」
リュックについた土を払って背負い直し、痛めた腹を抱えながら路地を出ようとすると、疲労がかなり溜まっているせいか、足がふらついた。
「……木嶋!」
俺は驚いて、思わず鏑木のほうを振り返った。鏑木が初めて俺の名前を呼んだ。 木嶋って、俺の名前。知ってたのか。
「俺んち、すぐ近くなんだ。寄ってかねーかなって」
「――え?」
「腹! ……いてぇんだろ。家に湿布あっからやるよ」
「いいのか? ……つか、俺の名前知ってたんだ」
「……はぁ? なんだよ。同じクラスだろ、知ってて悪いかよ。……湿布いらねぇならいいけど」
「いるいる!」
クラスメイトと会話することもなく無関心と思えた鏑木が、俺の名前を知っていたことがちょっと嬉しかった。
それに家に招待なんて、これは急激な進歩じゃないか?
さっきまでの疲れなどぶっとんでしまった俺は、歩くと響く腹を押さえつつ、ちょっと浮かれた気分で、鏑木の後をついていった。
「着いたぜ、俺んち」
「……ここ? マジで?」
「ああ」
鏑木が俺を案内した先は、誰がどう見てもザ・スナックという感じのお店だった。
そこは、俺のバイト先から少し離れた夜のお店が連なる通りにある古い建物で、年季が入り所々色の剥げた真っ赤な扉には『スナック るい』というレトロなロゴの看板が掛けられていた。
窓が一切ない、イメージとしてよくある場末のスナック特有の外観に、俺は少し気後れした。
だがそんな俺を尻目に、鏑木は躊躇なくドアを開けた。
「きゃーハルちゃーん! おかえりぃ~!」
薄暗い室内からは、キラキラしたレーザーのような照明と、おっさんが聞きそうな古い歌謡曲。そして香水とタバコと酒が入り混じったにおいが一斉に外へ溢れ出る。
そして甲高い女性の声を合図に、中にいた人々の視線が、鏑木へと集中した。
「……ただいま」
「おーハルちゃん、おかえり。今日もボロボロだねぇ。喧嘩もいいけど、ほどほどにな」
壁際の箱のような椅子に腰掛けた常連と思しき爺さんが、気安く鏑木に声をかける。だが鏑木はそれを無視し、椅子と低いテーブルの間をぬって奥へ歩いていく。
「……今日、友達いっから」
「……」
「えーやだ! ハルちゃんお友達ぃ? めっずらしい! やだ、ちょっとイケメンじゃん!」
鏑木は奥のカウンターでコップを磨いていた、黒ベストに蝶ネクタイ髭面のおっさんに声をかけた。だがおっさんは黙ってこちらをチラッと見ただけで何も言わず、代わりに隣にいた若いホステスらしき女が声を上げた。
「おいおい、若い男とみたらなんでもかっこいいのかよ~」
「え~なんだか体格いいしぃ、カッコよくない?」
「俺だって毎日現場で働いてっから、脱いだらすごいんだぜ~」
カウンターに座っていた男とホステスがギャハハと笑い声をあげた。
俺のことをネタにはしているが、言うほど関心はなさそうだった。
(はー……しかしスナックの中ってこんな感じなんだ……)
店内は狭く、ほのかに紫がかった照明は薄暗い。壁にはどこかの演歌歌手のポスターが貼られ、天井に備え付けれられたレーザー照明が、そのポスターや客たちを妙に派手な感じで回転しながら照らしていた。
カウンター横の大きなテレビにはカラオケの画面が映し出されていたが、誰も曲を入れていないのか、スピーカーからはずっと同じ曲が流れていた。
入り口ドアの前で室内をもの珍しく眺めていると、鏑木が「こっち」と手招きした。その手の示す方向へ、客にぶつからないように注意しながら奥へと進んだ。
「へえ。二階があるんだな」
カウンターの奥にはドアがあり、そこを開けるとなんと階段があった。古めかしい赤い絨毯が張られた木製の階段で、幅はかなり狭く角度も急だ。
「あ、せめーけど、そこで靴脱いで」
俺は小さく「おじゃまします」とだけ言い、鏑木にならって、階段の手前で靴を脱いで上がった。
ドンドンという足音と同時にギシギシと音を立てる階段を上がっていくと、次第に生活臭が鼻をつくようになり、そこで俺はやっと二階が居住スペースなんだなと理解した。
鏑木が上がった先にある引き戸を開けると「中きたねーけど、入って」と言いながら、奥にあるネオンが漏れる窓のカーテンをシャーッと軽快な音を立てながら閉めると、パチンと電灯の紐を引っ張った。
そこは六畳くらいの狭い部屋で、壁のあらゆるところに服がかけられていて、床にはドーナツ状に物が散らかっている。そしてひどくヤニ臭い。机の上には灰が山になった灰皿が置かれているから、そのせいかもしれない。
どこに座ればいいか分からずドアの前で立っていると、鏑木が右側の襖を開けて中に入り、俺に手招きした。
そこは電気もついていない暗い部屋で、かなり狭い。しかもここが寝室なのか布団が無造作に敷かれたままで、そしてヤニ臭さに加え、ややカビ臭く、そして男臭い。
「ほら、これ湿布」
鏑木が暗い部屋の中で、隣の部屋の明かりを頼りに壁際置かれた棚の引き出しを探り、箱に入った湿布薬を見つけると、それを取り出して、俺に手渡した。
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