第48話「はい、ことねです」

 俺はすーっと息を吸い込み、こう言った。


「……うん、俺、中学まで野球やってたんだ」


 そのとき、また胸がちくりとした。色々なことを思い出している。まだ一年前の出来事だ。思い出したくなくても思い出すのが普通だろう。


「……そう、だったのですね、初めて聞きました」

「……うん、うちの高校の人には話したことがなくてね……」

「そうでしたか……でも、『中学まで』というのは……?」


 琴音さんがそう言った後、ちょっとだけ沈黙の時間が流れた。


「……あ、すみません、話したくないことでしたら――」

「……いや、大丈夫。今野球やってないのは、中学三年の最後の大会の前に、怪我をしてしまってね……肘やっちゃったんだ。それまでずっと野球しかしてこなかった俺は、目の前が真っ暗になったよ」


 ふーっと息を吐いて、また吸って、俺は話を続ける。


「……本当はスポーツ推薦で野球が強い高校に行くことも決まってたんだ。でも怪我をして、それもなくなって、なんとかそこから勉強して、知り合いがいない今の高校に合格したんだ。今でもたまに夢を見るよ。思いっきり白いボールを追いかけていたあの頃の……」


 俺は立ち上がり、琴音さんの元へ行く。棚の上にあったボールを手に取った。


「これは怪我する直前、最後に投げていたボールでね、野球部の仲間が持っておけって言って持たせてくれたんだ。あのときのこと思い出すから、あまり見ないように……と思っていたんだけど、やっぱり見ちゃうのは、どこかに未練があるのかなぁ」


 そこまで話して、ふと琴音さんを見ると、ちょっと下を向いていた。まぁ、あまり楽しい話でもないしな……と思っていると、顔を上げた。その琴音さんの目が赤くなっている。


「……あ、ご、ごめん! 変な話してしまって――」

「……いえ、すみません、つい……大河さんが抱えていたことを話してくださって、嬉しかったのです。ありがとうございます」


 琴音さんがペコリとお辞儀をした。


「あ、い、いや、そんな大したことじゃないけど……」

「大河さんが一生懸命野球をされていて、それができなくなって、辛い思いをされて……そう思うと私も胸が苦しいです」


 琴音さんがそう言って、右手で俺の手を握った。

 琴音さんの、手の温もりが、俺に伝わってくる。


「……あ、そ、その……」

「……大河さんが大事なことを話してくださったので、私も……以前どうして私が大河さんに話しかけるのか、気にされていましたよね」

「あ、う、うん……」

「……思い出しませんか? ことねという名前と、私たちが五歳の頃、大河さんのおじいさまの家の前で……」


 ……ん? じいちゃん家の前……?

 そのとき、俺の頭の中に、ある光景が浮かんできた。



 * * *



 俺が五歳の頃だった。

 じいちゃんの家に遊びに行っていた俺は、商店の前でうずくまっている子を見つけた。同じ歳くらいだろうか。俺は話しかけてみることにした。


「ねーねー、なにしてるの?」


 その子は顔を上げた。髪が長く、女の子のような気がした。


「そこにいてたのしい?」


 女の子は何か言いたそうだったが、何も言えないような感じだった。


「あ、じゃあ、いっしょにあそばない?」

「……あそ……ぶ?」

「うん。あ、あとおかしたべない? ここ、おれのじいちゃんちだから、おかしあるよ」

「……おか……し?」

「うん、だいじょうぶだよ。あ、おれ、たいがっていうんだ、おまえは?」

「……あ、こ、ことね……」

「そっか、ことねか、いっしょいこうよ。そこにいてもたのしくないよ」


 俺はそう言って、女の子の手をとって一緒にじいちゃんの商店に入って行った。



 * * *



「……あ、こ、ことね、って……まさか……」

「はい、ことねです。あのときはありがとうございました」

「……あ、琴音さんが、ことね……あれ? でも琴音さんの家って、じいちゃんの家からは一駅分遠かったような……」

「今の家は、小学校一年生のときに引っ越してからなのです。それまでは大河さんのおじいさまの家の近くに住んでいました」

「あ、そ、そうなんだね……そっか、あのときのことねが……」

「私も最初は、『たいが』という名前しか覚えてなかったので、半信半疑だったのです。でも、大河さんのおじいさまの家について行ったときに、確信しました。あのときのたいがくんだと」


 琴音さんが、両手で俺の手を握った。


「……大河さん、私の想いを、聞いてくれますか……?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る