section 16 仙台と神戸の旅
数日後、母から電話があった。
「ピアノはOKよ、貸してくれるって。でもさ、室田さんとこはアンタと同じ年のヘンな兄がいて、そいつが気になるから練習は私が付き添うことに決めた! 暗い眼をした陰気なデキソコナイなのよ。ピアノ室は防音でしょ、危険だわ。私はあの子のピアノが聴きたいからそうするわ」
「ありがとう、母さん、悪いな」
「任せてよ、ヒマだから楽しみに待ってるわ」
夏休みに入り、気乗りがしないまま蒼真は由紀の両親に会ったが、まるで娘のピンチを救った凱旋将軍のような歓待に戸惑った。新鮮な海の幸に夢中で箸を延ばす蒼真に、
「君は恋人だと聞いた。幼い頃から今にも死にそうだった由紀が、普通に男を好きになるなんて考えてもみなかった、娘にはピアノしかないと思っていたんだ。だが、君のような青年と出会って良かった。これから君と由紀がどうなるかわからないが、東京の娘を守って欲しい、頼んだよ」
蒼真はヤバイなあと思いつつ嬉しかった。モジモジと頭をかきながらハイと応えた。
夕食後は由紀のピアノに聴き入った。気のせいか以前より音色が優しくなった気がした。テクニックの上達は当然だが、人の心を包み込む優しさを感じた。両親は溢れ落ちる涙を拭ぐいながら耳を傾けた。
「君の家でこんなに歓迎されるなんて思ってなかったよ」
へへっと笑った由紀の頭をポコンと叩き、たくさんの土産を抱えて、ふたりは神戸に向かった。
母は由紀と会うなり、「まあ、大きくなったわね、でもちっとも変わってないわ。昔の“泣き虫ピアノ”のままだ」と笑った。父には、息子がロンドンまで追いかけた女が特に美人ではなく、色気のある女でもない、色は白いが普通の女子大生にしか見えなかった。息子は女を見る目がないのか、まだ坊やか? 不思議に思った。
ところがその夜、室田家のピアノを借りた由紀は違った。蒼真と両親、室田家族の視線を浴びて、
「指慣らしはショパンのエチュードから始めます。エチュードは練習曲ですが、決して練習曲ではなくて、コンサートでも演奏されます。“作品10-2”と“作品10-5”は2曲で約5分ですが、毎朝これを5回繰り返してからスケジュールに沿って練習を始めてます。今日は1回だけで、その後は“作品10-3”の別れの曲とラヴェルの“夜のガスパール”を弾かせてください」
半音階でメロディのアップダウンを重ね、同時に腕をクロスさせて奏でる美しいメロディに、全員が言葉を失った。最後の曲の“夜のガスパール”は、幻想的で強烈な音色、速いテンポの中で音のウェーブを揃える高度なテクニックと、目の前で舞い踊る魔法の指に驚いた。
「さすが芸大の学生さんだ! 娘とはまったく違うピアノで驚きました。お願いがあります、少しでけっこうですから娘を指導していただけませんか」
「はい、練習の後でいいでしょうか」
それから2時間の練習は蒼真の母がどっかり腰を下ろし、涙を溜めて聴き入った。
「由紀ちゃんのピアノで泣くのは初めてじゃないの。時々思い出すのよ、昔も哀しいピアノだったわ。窓を開けて空を見上げては泣いていた、そうでしょ?」
「はい、いつか拍手してくれた方ですか?」
「そうよ、ピアノは詳しくないけど、キューンと感じたの。後でわかったけど“月の光”だったでしょ」
「そうです。ドビュッシーの“ベルガマスク組曲”の第3曲で、仮面の下に悲しみを隠して戯けるピエロの曲なんです。蒼真さんが私のファースト・ファンだと思ってましたが、お母さまだったのですか! “月の光”を弾きましょうか?」
「いいえ、ポローン、ポローンの哀しい曲はごめんよ。さあ、家でご飯にしましょ。ピアニストは体力が必要よ、吐くほど食べてしっかりした体を作りなさい。わかった?」
次の日は朝から室田家の娘を指導し、しっかり3時間は練習できた。いつも隣には目を閉じて聴き入っている蒼真の母がいた。
「母さん、100万ドルの夜景を見せたいから今日の晩飯はいらないよ」
「あらあ、あの子にいっぱい食べさせてデブデブにしようと企んだのに残念だわ。いつまでいてくれるの? ずっといてくれないかなあ」
「それは無理だ。あと3泊したら東京へ戻るつもりだ。塾のバイトがある」
「そうなの、急に寂しくなるわねぇ。アンタは消えていいから、由紀ちゃんを置いてってよ」
「それは無理だ。自分の部屋に落ち着きたいだろう、自分のピアノで練習したいはずだ。病弱だったせいか世間との交わりが少なかったうえに神経が細い子だ。いきなり単独で滞在するのは無理だ。転校ばかりで環境にすぐ慣れた僕とは違う。母さんの気持ちは嬉しいが、その内また連れて来るから」
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