section 6 ロンドン留学

 8月に入ってまもなく蒼真は由紀からケイタイをもらった。

「由紀です。戻ってきました、会いたいけど時間ありますか」

「はあ? もう戻って来たのか」

「ずっと田舎にいると東京へ戻りたくない気持ちになりそうで。それより蒼真さんは忙しいですか?」

「バイトはあるがヒマだ。いつだったら会える?」

「あの~ 蒼真さんのバイトはどこなんですか、途中で会えませんか」

「バイトは新宿だ。君は新宿や渋谷、原宿は知ってるか? そうだ、渋谷で会おう。若者の街だ。君は中央線で新宿へ出て、山手線に乗り換えて渋谷へ来れるか? 渋谷は乗り換え線が多くて迷子になりそうだから、山手線を降りたらホームで待ってろ」


 3日後、蒼真は渋谷を案内した。

「すごい人ですね。みんなテレビで観るような服の人ばかりで、自分が恥ずかしいです、隠れたいです」

 そう言われると、行き交う女は同じようなケバい化粧に肌を露出したド派手な服と厚底サンダルだ。由紀は普通のブラウスとスカートで襟元に小さなスカーフを結んでいた。「由紀ちゃんの方がずっときれいだよ、自信を持て!」

 蒼真が頬にプチュとキスしたら、由紀は眼を丸くして笑った。

「大学で友だちは出来たのかい?」

「ピアノ科の学生は付属からの子が大半で、なかなかその中に入れません。友だちはみんな地方からの子で、声楽の相川さんとフルートの川崎くんと作曲の竹村くんです」

「僕は友だちか?」

「はい、そうです。憧れてました」

「友だち以上にしてくれないか、君がだんだん好きになってるようだ。無理か?」

「えっ、その~ あの~」

 由紀は顔を真っ赤にして俯いた。

「心配するな、好きだけどまだ愛してはいない。また会いたいだけだ。深く考えるな」

 はあ~ 大きく息を吐いた由紀の頭をポコンと叩いた。

 ファーストフード店に入った。

「お土産があります。牛タンジャーキーです。それと見てくれますか。両親と松島で遊んだ写真です。すぐ近くに住んでるのに遊覧船に乗ったのは初めてなんです」

 ウミネコにカッパえびせんを恐々差し出す由紀が、遠足の小学生のようで可愛かった。そうか、この子は外に出かける事も少なかったのか。写真の中の両親の笑顔が輝いていた。由紀のアップの写真を1枚抜きとり、

「ほーっ、元気そうだな。これは貰っていいか、イヤだと言っても返さないぞ」

 蒼真はさっさと胸ポケットにしまった。


 それからも時々デートした。おひさまの輝きに包まれた深大寺や石神井公園のボートに誘った。まるで高校生のようなデートが蒼真は楽しかったが、次第になぜだか会えなくなった。どうしたんだろう…… 誘いのメールに、「学内でコンクールがあって、そのレッスンで時間がなくてごめんなさい」と返って来た。

 そうか練習か、9月になったらどこに連れて行こうか、人がいない海もいいなあとニヤついたとき、前田からケイタイが来た。

「お前は石原さんと付き合っているのか? 相川さんから聞いたが、彼女はコンクールで1位になったら9月から留学だそうだ。イギリスとか言っていた」

「何だと! そんなことは聞いてない。1位になりそうなのか?」

「やっぱりそうか、付き合ってたのか。好きなんだろ、本人に聞けよ」

 すぐケイタイしたが応答はなかった。練習中かとメールしたら、

「留学は1位になればの話です。そんなのムリ、ムリ! でもせっかくのチャンスだから悔いのないように頑張りまーす」


 何だ、前田のヤツ、脅かすなよとほっとしたが、9月1日、真夜中のメールに驚いた。

「交換留学生でイギリスへ行きます。半年間ですが不安でいっぱいです。レッスンについていけるか、英語は苦手だし、ひとりぽっちになりそうで、考えれば考えるほど胸が痛くなります。でも、蒼真さんがいろんな所へ連れて行ってくれたから、その思い出を抱いて飛び立ちます。ああ、もう、泣きそうです、ごめんなさい」

 おい、俺の前から消えるのか、半年もか…… 待て、やめろ! 行くな! 言ってはいけない言葉を噛み殺すと涙が溢れた。俺はあの子が好きなのか、どうしてこんなに泣けるほど好きなのか…… 考えてもわからなかった。

 翌朝、由紀にケイタイすると、

「仙台にいます。明日、東京へ戻ります。会ってくれませんか、蒼真さんの顔をしっかり心にしまいたいです。東京駅に17時4分に着きます」

「必ず行く、ホームで待っている」

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