第8話:邂逅とその後(後編):文人
綾坂さんと別れた後も、僕はしばらく龍の鱗について想いを巡らせていた。龍がいるだなんて、あまりにもファンタジーすぎて本気にはできない。
そんなに大きなものが、この地球上に生息できるのだろうか。いたらとっくに見つかっている、あるいはネス湖のネッシーのように、影の写った写真の1枚くらい、話題になったっていいはずだ。鱗が現存しているならなおのこと、話題になっていなければおかしいではないか。
いや、本当にいるから隠されている、という線もありうるか。でもそれなら、僕が今まで否定してきた空想上のものごと全てが、はっきり嘘だと言い切れなくなる。なんだか急に異世界に来てしまったような言いしれない恐怖心が、体の芯を冷やしていく。そのまましばらく思考を止めて、僕はおばさんたちとの待ち合わせに向かうべく、椅子に張り付いたようになっている腰を持ち上げた。
おばさんたちとのディナーの時間は平凡な日常の延長線上に乗っかって、何事もなく過ぎていった。
少し落ち着きと小洒落た優雅さのあるレストランで、ワインを飲みながら食事をする。千絵美ももう成人したので、祝いも兼ねてお酒の飲み方を教えるために選ばれた店だ。誕生日はおばさん達の家で賑やかにやったから、次は外で楽しもうという話になっていた。
僕と千恵美は、特別お酒が強いというわけではなかったけれど、嗜む程度に楽しむことはできる。対して、おじさんは酒豪と呼べるほど酒に強くて、ウィスキーをロックで飲んでも素面でいられるほどだった。父さんと母さんも、家にいる時はお酒を楽しんでいたし、家族で外食に行く時も、2人で肩を寄せ合ってお気に入りのカクテルドリンクを薦めあっていた。家にはほとんどいない両親だけど、外での食事の際のテーブルマナーを含め、社会で生きていくのに必要なことは一通り教えてくれたし、会う時にはいつも仲睦まじい姿を見せてくれたからか、僕も千絵美も両親に対してマイナスな心象は全くと言っていいほど抱かなかった。
おばさんたちとの和やかな時間を過ごした後で、僕たちは家でコーヒーを飲むことにした。おばさんたちとは店の前で別れて、それぞれの家までタクシーで帰ることにした。僕たちはバスでもよかったけれど、おばさんたちがタクシー代を出すからと強く勧めるので、甘えることにしたのだ。
家に帰って来ると、一気に眠気が襲ってきた。千絵美がさっそく二人分のコーヒーを入れてくれたので、お礼を言いつつ早々に口に運ぶ。熱い液体の感触が喉から腹へと下っていく。アルコールが入っている体にじんわりと熱が広がり、ふぅと口から息が漏れた。少し心が落ち着いて、次第に頭が覚めていく感覚がある。この感覚が気持ちよくて、僕はいつも、アルコールの後にはコーヒーを飲む。それは千絵美も同じだったようで、両手でコーヒーカップを包んで飲みながら気持ちよさそうな顔でふふっと微笑んでいた。
その様子を思わずじっと見つめていると、僕の視線に気づいた千絵美が「どうしたの?」と小首をかしげながら問いかけてくる。僕は「いや、何でもないよ。」と答えつつも、ふと聞いてみたくなった一つの問いを、千絵美に対して投げかけてみることにした。
「千絵美はさ、龍がいたらって話、信じる?」
「え、何急に。」
「龍だよ、あの昔話とかファンタジーに出てくるようなさ。」
「それは、知ってるけど。」
「そういう、空想上の存在だと思ってたものがさ、実在する可能性ってあるのかな。」
「なぁに?最近そういう本でも読んでるの?」
「うん、いや、そうじゃないんだけど。最近そういう話がよく僕の耳に入って来るんだ。それで、どう思う?」
「そうだなぁ。」千絵美は、うーんと眉根を寄せながら考えるそぶりをしたあとで、ゆっくりと話し始めた。
「いたらいいな、とは思うよ。希少だから出会えないだけで、この世界のどこかにはいたらいいなって。未開の地はないなんて言われてはいるけど、それでもまだまだ人類は知らないことばかりでしょ。科学だって自然現象だって、昔は魔法や錬金術や神さまの為すことだって言われてた。私たちはそれを説明するすべを見つけたけれど、それでも現象自体が変わったわけじゃない。ただ科学を魔法と呼ばなくなっただけで、自然現象を自然現象だと納得するようになっただけ。だからすべてのファンタジーを否定することは私にはできない。だってあまりにも夢がないし、それってあまりにも無知なことでしょう?」
千絵美はゆっくりとコーヒーを口に含み、言葉を探すように瞳を泳がせた後で飲み下した。僕もつられてコーヒーを飲む。そして千絵美はまた言葉を紡ぎ始めた。
「私、もしかしたら見たことがあるかもしれないの。友達が皆瀬村の出身でね、なんにもないって聞いていたけど行ってみたんだ。中学の、時だったかな。珍しいよね、中学で遠くの学校に来るの。で、その時にね、友達と山に向かって歩いて行ったの。村の里山っていうのかな。そういう山があるから少し行ってみようって。それで、今から山に入ろうっていうときに、急に大きな風が吹いて、思わず踏ん張らなきゃいけないくらいの突風で、びっくりして思わず目をつむっちゃって。でもほんのわずかなタイミングだったけど見えたの。何か大きなものが横切っていくような影と、陽の光に煌めいている黒い鱗が。びっくりして、私はすぐに目を開けた。でももうそこには何もいなかった。なんにも見えなかった。私、後悔したの。なんで目をつむっちゃったんだろうって。」千絵美はコーヒーカップの底をじっと見つめたまま話しを続けた。
「だからね、私はあれが幻でなかったらいいと思ってるの。」
「見たのか、龍を。」僕は、まさかと思った。まさかそんなことが。
「たぶんね。そのあと友達にも聞いたの。でも友達は何も見なかったって言ってたし、見間違いの可能性もゼロじゃないんだけどね。それでも私は、あの光景とあの強風が忘れられずにいるの。あやにいの話聞いたから話してみちゃった。参考になった?」そう言って千絵美は笑った。
「僕も、そうだったらいいなと思う。」それは紛れもない本心だった。仮にそれが空想上の動物だとしても、僕の周りにはその存在を信じている人がいて、存在するかもしれない証拠がある。なら、今はそれで十分じゃないか。
「そっか、ありがと。」千絵美はほっとしたようにうなずいて見せた。
「私もう寝ようかな。」
「うん、そうしたらいいよ。カップは僕が片づけるから。」
「分かった、ありがと。」
「こちらこそ。」
千絵美から空のコーヒーカップを受け取る。時刻は10時を回ったばかりだ。シャワーを浴びるのは明日でいい。あるいは明日、行くべきだろうか。例の、山に。
僕は二人分のコーヒーカップを片づけた。明日もし山に行くなら、早めに準備をして家を出なくてはいけない。幸い、皆瀬村まで行く電車には早い時間のものもある。始発は6時台、1時間に1本の田舎だけど、8時台の電車に乗れば余裕で10時ごろには山に登れるはずだ。
時計を見れば時刻は10時半、簡単にキッチン周りを掃除したけどそれでもそんなに時間はかからなかった。今日はもう寝てしまおう。なんだか濃い一日だった。知り合いとの再会や龍にまつわるあれこれなど、僕の日常では滅多にみられないくらいの情報量だったから、さすがに少し疲れてしまった。あくびをしながら2階に上がり、自室の扉を開ける。千絵美はもう寝たのか、隣の部屋からはかすかな物音も聞こえない。部屋着に着替えて、脱いだ服を自室の洗濯籠へと投げ入れる。洗濯物は明日でいいや。そうして僕は、いい夢が見られることを願いながら、ベッドの上へと身を投げた。
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