ACT・9

「サエコ! どうしたの?」


 メイはびっくりして、慌てて彼女の横に座った。


「落ちちゃう――――! 助けて! 怖い! 降ろしてぇぇぇ―――!」


「サエコ? どうしたのよ、サエコ!」


 メイは必死に叫んだが、サエコはパニックを起こしていた。


「助けて! 落ちちゃう! 助けてぇぇぇぇぇ―――!」


 サエコは狂ったように床を這いだした。爪で床を引掻いて、何かにしがみつこうと暴れていた。


「サエコ! どうしちゃったのよ。落ち着いて、サエコ!」


 メイはサエコを押さえた。彼女はメイを認識してるのか、いないのか分からない眼を空中に這わせて、メイの腕に、思いっきり爪を立ててしがみついた。


「助けて! 落ちちゃう。いや! いや! 怖い! いやよぉ―――!」


「い、痛いわ、サエコ! どうしたの? しっかりしてよ」


 メイは何が起きたか分からず、ただ茫然としていた。


「た……助けて! 引きずられる。落ちてしまう! 助けて!」


 再びサエコが自分の頭を掻きむしり、床に勢いよく打ち付けようとした瞬間だった。サエコの身体を抱き上げ、しっかりと抱きしめた男がいた。


「カコウ!」


 メイは半ば泣きながら彼を見上げた。


 カコウは軽く頷くと、再びサエコを包み込むように抱きしめて、優しく背中を叩いていた。


「落ちちゃう! 助けて……。助けて……」


 サエコはまだ狂ったように泣き叫び暴れていた。しかしカコウがしっかりと抱きしめていたので、その抵抗はほとんど役に立っていなかった。


「俺はこれからサエコを部屋に連れてく。おまえはここからすぐドクターを呼べ。鍵!」


 カコウはメイから鍵をひったくると、さっさと歩きだした。メイは展望室に備えられている電話でフロントを呼び出し、ドクターの手配をした。


 急いで戻ると、すでにドクターがベッドに横たわるサエコの診察をしていた。傍らにカコウが立っていた。


「どうですか?」


 メイは、鎮静剤で眠っているサエコと、その傍らで処置を済ませたドクターに近付いた。


「大丈夫ですよ。ごくたまに、こういう体質の方がいるんです。簡単に言えば、極度の高所恐怖症です」


 ドクターが立ち上がった。


「乗船中は、安定剤の投与が必要でしょう。また参ります」


 ドクターがドアの向こうに消えた。


「さて、俺たちはもう一度ラウンジへ行こうぜ」


「でも、サエコが……」


「大丈夫。ドクターが、『半日は眠っているだろう』って言ってたぜ」


 カコウはメイの肩を押した。


「しかし……。いるとは聞いていたが、見たのは初めてだ」


「なに?」


「イカロスさ」


「イカロス?」


 メイは反芻した。


(蝋で翼を作り、空を高く飛んでしまって、太陽に焼かれて地上に落ちたという、あのギリシャ神話のイカロスのことだろうか?)


「サエコみたいなやつのことを、俺たちキャラバンでは『イカロス』って呼んでんだよ」


 ラウンジは、先ほどより空いていた。地球が遠くなり、点在する恒星の輝きだけの風景に飽きてしまったのだろう。カコウはコーヒーを、メイはオレンジジュースをテーブルに置いていた。


「人間はみなイカロスだという。4つ足の動物は、4本の足で大地を踏みしめて生きているだろう? けれど人間は、2本の足で直立した瞬間、その開放された両手を天に差し出し、空を飛びたいと志向した。自由になった両手を空に差し出し高みへと昇る。だが、ある高さまで昇り、ふっと生まれた地球の大地を見降ろして、『自分はなんという高さまで昇ってしまったのだろうか?』とその高さと地球の重力に恐怖する。安住していた大地への思慕と離れてしまった不安を感じて、人は大地に降りるしかないんだよ。イカロスのようにな」


「ふ―――ん」


 メイは、何となくのイメージで聞いていた。高さに怯えるという感覚が分からなかった。


「4つ足のまま、大地に安住してればいいものを、人間は2本の足で立ってしまった。だが、いくら望んでも、天使のように空では住めない。その両方に挟まれ人間は苦悩し不安を持つ。まさに『イカロス』なのさ」


 カコウはコーヒーをすすった。


「サエコだけじゃない。人間ならば誰でも初めて宇宙に出るときには、少なからず不安を抱き恐怖するんだ。たいていの奴はパニックを起こすところまではいかず慣れてしまうが、ごくたまに、地球の重力を強く感じて、空を飛べない奴がいる。そいつらがサエコと同じような症状を起こすらしい」


「そうだったの。あたしは一度も恐怖したことがないから、全然分からなかったわ」


「へぇ、おまえは初飛行の時にも、不安を感じなかったのか?」


「ぜんぜん? 重力を感じたこともないし、地球に落っこちるなんて、考えたこともなかったわ」


 メイの回答にカコウは腕を組んで肩を丸めて笑った。それからゆっくりと上目遣いにメイを見た。


「そういう奴を、俺たちは『エンジェル』って呼んでんだよ」


「エンジェル?」


「そう。これもごくたまに。それこそ『イカロス』よりもずっと少ないが、いるんだよ。地球の重力から解放されてしまった人間だ。重力に全く囚われない、根っからの宇宙人だ」


「へ――――。エンジェルかぁ。そうね。あたしはそうかもね」


 メイはぼんやりと外に広がる宇宙を見つめた。


「あたしは重力に囚われたことはないわ。地球に引きずられるような感覚も一切ない。あたしは自分の意思で降りるけれど、地球に呼ばれて降りるって、思ったことは一度もないわ」


 メイは、テーブルに腕をついて、宇宙にオレンジジュースのグラスを重ねた。


「俺は地球に呼ばれて降りるぜ。地球に帰りたいと思う。旅をするのが嫌いな訳じゃない。だが、旅は旅だ。旅には出発点があり終着点がある。キャラバンは、地球から出発し地球に戻ってくる。明日帰りたいとは言わねぇ。でも俺は必ず地球に帰ってくる。帰るところはあそこしかねぇもんな」


 カコウはすでに恒星と同じ輝きを発している地球を見つめた。


「ふ――――ん」


 メイはグラスを爪ではじいた。


「あたしはこのオレンジ色の違和感が好きなの。オレンジって、青色の補色よね。宇宙空間に全くそぐわないこの色は、あたしにとっての地球とイコールなの。宇宙空間があたしの日常。それにまったくそぐわないオレンジ色の違和感を、地球に降りる時には楽しんでるの」


「おまえにとっての夢の世界はどっちだ?」


「言ったじゃない。宇宙が日常よ。あたしの眼は、宇宙を見てるわ」


 メイはそう言うと、左眼にかけているバイザーを上げた。


「へぇ、左眼は青色だったのか。アースライト・ブルーだな。おまえ、昔からサングラスをかけてたから、知らなかったぜ。眼の色が違うって、不思議な感じだな」


「オッド・アイって言うのよ。まぁ、片目はもう自前じゃないけど」


「仕方ないさ」


「どっちが機械だと思う? MA―Ⅲ《ミ》の端末よ」


 メイはカコウをじっと見た。


「分からねぇな。俺にはさして重要な問題でもねぇし」


「ありがとう。そう言ってくれると思ったわ。でも、あたしにはとっても重要なことなの」


 メイはくすっと笑った。


「なにが?」


 カコウの問いには答えなかった。


「このオレンジ色って、あまりにも宇宙に似合わないと思わない? このチェリーの色なんか、とっても作りものらしい色よ」


 メイはグラスを振って笑った。


「このラウンジでね、地球にグラスを重ねるでしょう? あたしは瞬時にミスティ・ベイを思い出すわ。この宇宙空間に重なったオレンジ色の存在って、あたしの中の地球と同じなの。ミスティ・ベイで過ごした時間は本当に楽しかった。だから、あの風景はいつでも思い出せる。でも、このオレンジ色のように、あたしにとっては日常の色じゃない。あたしが所有している色じゃないの。あたしにとっては『眺めて楽しむだけのもの』と言ったら一番近いわね。地球はただ『傍観』するだけの星だから『他人事』なのよ。そして、宇宙空間は『俯瞰』する世界。つまりあたしはその世界の『当事者』として眺めてんの。地球は安住の地ではなくて、一時いっとき滞在するだけのところでしかなのよ。それでも、オレンジジュースを重ねた瞬間、あたしの眼にはミスティ・ベイの風景がよみがえる。リーンの“サウス・ウィンド”を聴いた瞬間、ミスティ・ベイに置かれた2台の自動車と、遠くで発生している渦を見るわ。あたしはちゃんと覚えてるのよ」


 メイはそっとバイザーを降ろした。


「地球に戻って来い。身体だけじゃなく心もだ」


 カコウの言葉に、メイは寂しそうに笑った。


「地球があたしを呼んでくれない……」


「エンジェルが、本物の天使になれる訳ない」


「うん。そうね。でも、あたしは宇宙のどこかに、自分が安住できる場所がある気がして探してんの。ううん……。本音を言うわ。宇宙空間そのものが、あたしの安住の地のような気がする」


「それは、けっして終着地点じゃねぇぞ? すでにおまえはその中にいるんだ」


 カコウが眉を寄せた。


「そうなのよ。でも志向しているの。ほら、水平線の向こうには何がある? って、何もないじゃない。でも志向する気持ちを押さえられないでしょう? 同じよ」


「さすらい人だな」


「さすらうって悲しいわ。そう言うの、自分で言ってしまうと切ないわ。でもね、カコウ。あたしは信じてんのよ。この宇宙空間に身を置いてたら、あたしはいつかこの空間に同化できるんじゃないかって。いつか安息の吐息をついて、眠れる時が来るんじゃないかと思ってんのよ。あたしの体内に、無限の闇と輝きを感じる日が来る気がするの」


「その思いが、産まれ育った地球への想いより強いのか? 大地に安息する気はないのか?」


「大地に寝ころんだ瞬間、宇宙が恋しくて寂しくなるわ」


 メイはほんの少し笑った。


「さすらうしかないって訳だ」


 カコウが腕を組んで背もたれに体を預けた。


「そういうの、悲しいって言ったじゃない。サエコの地球がね、あたしの宇宙よ」


「しかし、おまえは地球人なんだよ。おまえがそれを忘れない限り、地球もおまえを忘れない。俺がおまえを覚えていてやる。サエコも、けっしておまえを忘れないだろう」


 カコウが明るく笑った。


 その笑顔は、ミスティ・ベイにいた彼と同じだ。


 青い空と青い海。その二つを分ける水平線。2台の車。木々の緑。“サウス・ウィンド”


「ミスティ・ベイが見える。綺麗よ。あの場所の匂いも感触も、すべて覚えてるわ。また、いつか行くわね。あの時間は宝物よ」


 メイの左眼から涙が流れた。彼女は慌てて両目を押さえた。


「いつかまた、あそこで過ごそう」


「そうね。でもあの時間はもう凍結してる。あたしの中では、ただの点の記憶でしかない。今の自分と線で繋がってないのよ。地球に心を置いてくることができなかった」


 メイはやはり呟くだけだった。


「それでも、俺の時間の中でおまえはちゃんと動いている。あの時のおまえが今ここにいる。だから、いつか必ず地球に戻って来い」


 カコウはメイのアッシュグレー色の右眼を見つめていた。



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