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 私が隼人にはじめて出会ったのは、大学4年の病院研修のときだった。薬学部の学生として、実務実習に向けた事前学習で訪れた病院に、彼は勤務していた。


 医師、看護師、薬剤師が合同で行うチーム医療に参加した際、専門研修中だった隼人は私たち学生の面倒を見てくれた。


 隼人はどの学生にも平等に親切だったが、研修最後の日に、こっそりと私の連絡先を尋ねてきて、そのあとから連絡を取り合うようになった。彼にあこがれを抱く同期生は少なからずいて、私は彼との関係を誰にも言わなかった。


 交際を始めてすぐ、彼は将来の展望を語ってくれた。父親が精神科医で、クリニックを開業しているから、いずれ、自分も後を継ぐ、と。それは夢というよりも、当たり前のようになるものだと彼は考えているようだった。


 そうして彼は、当然のこととして精神科医となり、父親とともに働き出したのだろう。


 春が寝静まると、さんざん迷った末に、あさがおメンタルクリニックのホームページにある予約ボタンを押した。


 個人情報を入力している間も逃げ出したい気持ちはあったが、春の寝顔を見ていたら、ただ純粋に隼人に会いたくなった。


 将吾という彼氏ができて、結婚して、子どもも生まれた。結婚生活はうまくいかなかったから不安になることがあるけれど、薬剤師にもなれて、ひとりでも生きていける力をつけたんだって、彼に話したかった。


 そう話すことで、隼人への思いを過去のものにして、将吾との関係を見つめ直すきっかけが作れるんじゃないかとも考えた。


 頭で考えてるようには、うまく話せないかもしれない。でも、まずは隼人に会わなくちゃいけない。予約の確認ボタンを押したときには、そんな使命感のようなものがあったのも事実だった。


 予約の日、春を保育園に預け、車でメンタルクリニックに向かった。


 保育園から自宅アパートに戻る途中の道を一本入った先にクリニックはあった。


 駐車場に停めた車を降りて、クリニックを眺め見る。コの字型の建物が、中庭のような空間を取り囲むようにして建っている。そこには、まだ生育途中の緑の木がたくさん植えられていて、その若い木からは、開業したばかりの初々しさが感じられた。


 クリニックは完全予約制で、時間は30分ほど。2回目以降は、希望すれば、1時間まで話を聞いてもらえるらしい。


 もう一度、来ることがあるのだろうか。そう考えながら、レンガ調の石畳を進む。


 まるで、カフェを訪れたかのような温かみのある色調の建物に入ると、受付の女の人が柔らかな笑みを見せる。それだけで、良い病院だろう、なんてほっとする。


「こちらが受付番号になりますので、待合室でお待ちください。診察室の前にあるディスプレイに番号が表示されましたら、診察室にお入りくださいね」


 受付を済ませると、21番の番号札を受け取り、待合室へと移動した。そこからは中庭の木々が見える。建物がコの字になっているのは、診察室が左右に分かれているからのようだ。


 中庭に向かって左手の診察室には、隼人のネームプレートがついていた。隼人の父である徳人のりひと医師の診察予約は一ヶ月以上先しか空いていなかったが、隼人も人気のようで、予約できる日がぽつぽつとしかなかった。じきになかなか予約の取れないクリニックになるのだろう。


「21番の番号札をお持ちの方は診察室にお入りください」


 機械的な女の人の声が待合室に響き渡る。弾かれたようにソファーから立ち上がり、診察室に向かう。


 姉のすすめがなければ、こうして隼人に会いに来る日はなかった。私たちはいま、会わなきゃいけない。そんな時期なのだ。そう思えて、診察室のドアを開ける。


「ああ、仁科にしなさん」


 隼人の第一声で、私を覚えていたのだとわかった。


 交際期間は短かったけど、私たちは確かに深く愛し合っていた。そう思い出させてくれるような感覚に陥り、泣きたくなった。


 彼にとってはひと夏の恋ぐらいの感覚だったかもしれないのに、そんなふうに美化してしまうなんて。やっぱり、私の心はどこか、壊れてしまっているのかもしれない。


「どうぞ、お座りください。お久しぶりですね」


 柔らかみのある隼人の声は心地がいい。


 隼人と同い年の将吾と結婚したとき、隼人と過ごしたときと同じような安心感が得られるだろうと思っていたが、こうして彼を目の前にすると、雰囲気も何もかも全然違うと思い知らされる。


「はい、お久しぶりです。今日は芦沢先生に会いたくて来ました。診察してもらえますか?」


 これは偶然じゃない。はっきりとそう告げるが、私の決心を軽くかわすように、彼は言う。


「知り合いの方の診察は、医療上の観点から、基本的にはほかの医師をおすすめしていますよ」

「次はもう来ません。そう言ったら、今日だけでもお話を聞いてくれますか?」

「私に話したいことがあるのでしたら」


 隼人はほんの少し、複雑そうに表情を崩した。


 それだけでもう、胸が苦しくなる。言わなくても、隼人はなんでもわかってる。そう思えてくるから。でも実際は、彼は私のことを何もわかってない。


「診察で会いに来るなんて卑怯だって思わないでください。芦沢先生になら、話せると思ってきたんです」


 ひざの上でぎゅっと手を握りしめ、声を絞り出すと、彼はゆっくりとうなずいた。


「わかりました。では、問診票を書いていただきましたが、もう一度、確認するためにお尋ねしますね」


 そう言うと、彼は電子カルテへと目を移した。

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