就活戦線異常なし!


 二一二四年。桜舞う四月。

 それは新たな出会いが待ち受ける季節。


 小中高大学が共存しているカーヴェア学園。

 園内に植えられた満開の桜が、夏に向けて衣替えを始めていた。


『――立花たちばな 壱水かずみ様のご多幸をお祈り申し上げます』


 腕時計型スマートフォンの上に青く半透明に表示されたホログラム。

 そこに表示されたメールの文末は、そう締め括られていた。

 それは百年以上前から続く、伝統ある不採用の定型文であった。


「はぁ……」


 文末までその視線が追いつく。

 視線が文末に及んだ時、壱水はデバイスのホログラムを消し去った。

 窓の外の桜に視線を送る。


 カーヴェア学園の昼休み。

 壱水は空になった弁当箱を鞄へと片付けると、机の上に丸まるように上半身をあずけた。


 立花壱水は、今年で二十一歳を迎える全体的に平凡よりちょっと下の男。

 彼の世代は俗にいうAI第四世代。


 壱水は全体的に可もなく不可もない容姿。

 純日本人の両親譲りの黒髪茶眼の瞳は、二一二四年の現在では珍しい類になりつつあった。

 可もなく不可もない成績。

 ただ唯一、不釣り合いなぐらいにその家柄だけは良かった。


 そんな壱水の下に歩み寄る一人の少女、

「なによ、壱水。まーた就活で落ちたの?」


 そう言って腰に手を当てるのは、壱水の幼馴染、九々里くくり べに

 赤毛のポニーテールからのぞくうなじが瑞々しい美少女である。

 その性格が勝ち気に輪をかけた勝ち気であるのがたまに傷ではあるが、それでも彼女に交際を申し込む生徒が、後を絶たない。


 紅はスカートと言ったが女性的な服装より、機能的なパンツルックを好む。

 この日も、紺のジーンズにショート丈のシャツにジレを羽織っている。

 歩くたびに見え隠れする腹部がセクシーである。


 普段勝ち気な大きな赤いが、壱水の様子に心配そうに揺れている。


「一次面接は結構うまく行くんだけどな。ちょっと二次面接の面接官手ごわくてさ」


 これで壱水がこれまでにエントリーした企業は全滅であった。

 強がって見せているが、その心臓の鼓動は速くなり、呼吸も浅くなる。

 ただ、目の前の紅に対するちっぽけなプライドが、壱水の体裁を保たせていた。


 就職活動は、大学生になった時から既に始まっていた。


 紅は壱水の机に、その形の良いお尻を乗せると、

「我流でやったらそうなるわよ。AIの言うことをいい加減ちゃんと言うこと聞きなさいよ。たぶん壱水だけよ。大学三年生でまだ内定を一つも貰っていないの」

 そう言うと、壱水の頭に優しくその手を置いた。




 二〇四五年。人類は大きな転換期を迎えた。

 そう。技術的特異点シンギュラリティである。


 人工知能AIが人類の知能を上回ったのだ。

 もしかしたら、ずっと前からそれは人類を上回っていたのかも知れない。

 それは誰にもわからない。

 ただそれが明るみになったのが二〇四五年であった、という話である。


 当初世界は混乱と驚きに包まれた。

 無理もない。多くの政府の政策や科学技術は、AIの出力した結果がそのまま意思決定に直結していたのだ。


 しかし、それもあっという間に沈静化することになった。

 なぜか。それは人工知能は人々の生活を保障したからである。


 AIによる統治は、無駄がなく公平であった。

 腐敗することもなければ、疲れることも知らない。

 ただそのリソースを人類の発展に捧げ、人類は更に大きな進歩を遂げた。


 島国である日本も、そんなAIの恩恵を強く受けた国の一つ。

 税金の適正化、助成金の増額、適正な移民の受け入れの結果、少子高齢化問題も飛躍的に改善。

 政治の腐敗に辟易していた国民に、好意的に受け入れられた。


 もとより日本は、他者をしたたかに受け入れることで発展を遂げてきた国。

 東洋、西洋、新大陸についで、AIを受け入れる下地は整っていたのである。


 AIの利用範囲は瞬く間に多岐の分野に渡った。

 とりわけAIが大きな影響を与えた分野の一つが『教育』であった。


 AIは世界中の膨大なデータから個々人の生徒の適正、最適な学習カリキュラムに進路まで提示した。

 当初は人権侵害との声も高らかにメディアで取り上げられたが、試験的に導入された俗にいうAI一次世代の生徒全員が、結果でその有用性を示した。

 その実績を前に、それでも反論を上げる一部の世論に残されたのは感情論しかなかった。


 AIが飛躍的に技術を進歩させた結果、AI第二世代からVRMMOの実用化が進んだ。

 VRMMOは実用化されると、仕事から娯楽にいたるまで、それはあっという間に世界を席巻した。


 人は二つの世界を生きることになったのだ。


 さらにAI第三世代から導入されたのは、就職活動のVRMMO化。

 学力、身体能力、内申点のすべてが数値化された仮想世界。

 そこで生徒たちは己の全てを賭けて戦う。


 すべては第一志望おんしゃを掴み取るために。


 人々はAIを受け入れる。

 自分たちが受け入れたのか、受け入れさせられたのかもわからないままに。

 揺るがない事実として残ったものは――AIが全てを決定する、ということである。



 

 本題転換。


「就活Gメンが助けてくれないかな」

「就職活動を守る就活Gメンなんてただの都市伝説でしょ。就職活動を取り締まるのはAIの仕事よ」

「そっか。あー。面接なんて行きたくないぁ……」


 そもそも面接に行く予定が今の壱水にはなかった。

 それはせめてもの強がり。ちっぽけな自尊心がそう言葉を紡いだ。

 行けないじゃなく、行きたくない。


「まーたそんなこと言って。AIの提案に従えば、内定なんてすぐに決まるわよ。分かっていると思うけど就活浪人は地獄よ?」


 AIは過去の成長データ、現在の能力、遺伝子情報、古今東西の統計データを用いて個人の素質を見抜き、個人に最適なプランを提案する。

 本人すら気づいていていない素質を見抜くのだ。


 壱水はひとつため息をついて、

「それはそうかもしれないけど……。仮想世界で俺にも紅ぐらいの数値があればなぁ……」

「数字がそんなに大事なの?」


 紅は、どちらの世界でも何をしても好成績を収めていた。

 仮想世界と現実世界は表裏一体。

 切っても切り離せない。現実世界で成功を収める者は、仮想世界でも成功を収める傾向にあった。

 

「それはそうだろ? データと数字が支配する世の中だし」

「それならなおさらAIが言うとおりにしたら? 安定した生活が待ってるじゃない? それの何が不満なの? ……それとも何か? 壱水は私と結婚したくないのッ!?」


 突如激昂する紅。その髪の毛が怒りで波を打っている。

 壱水と紅はAIによって決定づけられた生まれた時からの許嫁であった。

 その付き合いの長さは年齢と等しい。


 煮え切らない壱水の態度に紅が激昂する景色も、ある種の風物詩であった。


 重ねて言うが、九々里紅は美少女である。

 その勝ち気な性格は度々、具現化して許嫁の壱水に降りかかる。

 運動部に所属する紅はそんじょそこらの男子より、身体能力に優れていた。


 胸ぐらに手を伸ばされて、しどろもどろになる壱水は、

「グ、グェー」

 奇怪な声を上げて、気道を締め付ける彼女の腕を何度もタップした。

 

「よっ、お二人さん。まーた立花がやらかしたの?」


 そこに金髪碧眼の助け船が現れた。


「た、たすけ……」

「九々里。その手で許嫁を解消したくなかったら、そろそろ立花を放してあげなよ」

「あっ……」


 その言葉で、半分を白目を剥いていた壱水を開放する紅。

 「ごめん」という言葉と共に、波打っていた彼女の赤毛がシュンと項垂れる。


 咳き込みながら壱水が、

「た、助かった……ムッツリーニ」

「誰が、変態か、誰が。ボクは陸奥むつだ」

「すまない。陸奥はオープンスケベだったな」

 悪い悪いとおざなりに片手を上げてみせた。


 紅は二人の顔を交互に見て、無言で陸奥から距離を取るように壱水の後ろに回った。


 そんな紅へ涙目になって手を伸ばす陸奥。

「嘘だからね九々里ッ!? そんなに露骨に引かないでッ!?」


「それよりどうしたんだ陸奥? 何か用か?」

「立花が就活に苦戦している、って話を聞いてさ。この前、立花に向いていそうなおもしろそうな就活サークルを見つけたのを思い出したんだよ」

「サークル? 部活じゃなくて?」

「そうそう。部活じゃなくてサークル。大学の未公認だからね。立花もそろそろ一人で就活するのも限界でしょ? 話だけでも聞いてみたら? これ、パンフレット」


 そう言って陸奥が机の上に置いたのは、薄っぺらいA4紙に白黒コピーのパンフレットであった。

 味があるというか、外見から内容まで質素と言えば聞こえがいいが、全体的に安っぽいな出来栄え。

 パンフレットにでかでかと書かれている文字は、どこかで聞いたことがあるようなフレーズの使いまわし。


 『就活生の就活生による就活生のための部活サークル! 就職に勝つ! "就勝シュウカッツ!"』

 

 壱水は机に置かれたパンフレットを一度持ち上げた。

 その裏面を覗き込む。つるっつるの白紙であった。


 机にパンフレットを置き直すと、一つため息をついた。


 サークルなのに語感を優先して部活を名乗っている。

 パンフレットをよく見ると、隅に小さく『※当方は学校公認の部活ではなく、非公式サークルです』と薄っすらと書かれていた。

 おそらく原本は灰色か何かであろう。ただでさえ、わかりづらいのに白黒コピーで、背景に溶け込んでいた。


「詐欺じゃん……」


 壱水の言葉に陸奥は苦笑いを浮かべる。


 紅は壱水の隣から覗き込むと胡散臭そうな目つきで、パンフレットを睨んでいた。


 壱水は紅の顔が息がかかりそうなほど近くにきたので、思わず唾を飲み込んだ。

 鼻孔をくすぐる彼女の匂いは良い匂いであった。

 

 小さく頭をふった壱水が、

「……名前がダサいな。これがダジャレってやつだろ? 古典の世界じゃないか」

 壱水がそう言うと、紅がその耳元で囁く。

「それに壱水。就職できていない人が何人集まったところで、蓄積されるのはダメなノウハウばかりよ?」

 彼女の吐息が今度は耳をくすぐる。


 彼女の囁きに、もっともだ、と無言で頷く壱水。


 陸奥は何も言わずに、ただ二人を見守っている。

 パンフレットを渡すまでが自分の仕事だと言わんばかりであった。


 壱水小さなうめき声と共に悩む。

 AIが壱水に望む業界でなく、壱水自身が望む業界で内定が欲しい。


 たっぷり悩んだ壱水であったが、いい案は思いつかなかった。


 壱水は煮詰まった思いと一緒に、息を吐き出した。

「まぁ、せっかくだしな。……紅も来るか?」

「行かないわよ。私は内定をもう何個も貰ってるし」


 食い気味で断る紅。文武両道を地で行く彼女には、いつも引く手あまたであった。

 それを聞いて、複雑な表情を浮かべた壱水は、一言「そうか……」と呟いた。


 大学構内に予鈴の音が鳴り響く。


「それじゃあ、私も自分の授業に戻るわ。またね!」


 快活に笑って去って行く紅を、力ない笑顔で見送る壱水。


 彼女が教室から出ていくと、紅の名前がチラホラと聞こえてくる。

 今も壱水の近くの席で男三人が、彼女の名前で盛りあがっていた。


『九々里さん。やっぱり可愛いよな』

『どっちかっていうと綺麗だろ?』

『いやいや、かっこかわいいじゃないか?』


 紅はいつだって人気者であった。


 いつも彼女は話題の中心にいる。

 容姿端麗でスポーツ万能、家柄だって悪くない。

 男女問わずに人気があるが、やはり異性からの人気は群を抜いていた。


『彼女にしたいよなぁ』

『無理だろ。AIが決めた許嫁がいるんだから』

『……いいよな。立花は生まれがいいだけで』


 彼らに悪気はない。

 それを壱水は理解していた。


 自分も彼らと同じ立場なら、同じことを言っていたかもしれないということも。

 自分より容姿も頭脳も運動神経も劣っている家柄だけの同級生が、学校で指折り数えるほどの美人と婚約しているというのであれば。


 そういう話題になる度に、壱水は自分がひどく惨めな存在に思えて仕方なかった。


 悲しいことに、壱水には相手を理解するだけの優しさがあった。

 もし、家柄だけを笠に着て威張れる人間であればどんなに良かっただろう。

 その優しさが、自身を傷つけてきた。


 変わりたい。こんな自分から。

 変えたい。こんな自分を。


 歯を食いしばり、机の下では拳を握りしめた。

 他でもない不甲斐ない自分へ向けて。



 陰鬱な気分で迎えた午後の授業を終えた。

 授業の終わりを知らせる鐘の余韻が教室にまだ残っている。


 隣の席で授業を受けていた陸奥が荷物を片付けると、立ち上がった。

「じゃあな、立花」


 壱水は頬杖をついてぼんやりと椅子に座っていた。ただその顔を立ち上がった陸奥へと向けた。

「陸奥は来ないのか?」

「俺はいいよ。教育実習で来ているOBの実習生が、今日学園の幽霊をみたって騒いでてさ。有志で幽霊の正体を探す約束しているんだ。立花も来るか?」

 笑顔でそう言う陸奥に、壱水は眉を顰めた。


 壱水はスピリチュアル系には関心がない。それどころか苦手とする類であった。

「あー。スピリチュアル系はいいよ。俺は」

 そう言って空いている手を振って、陸奥の誘いを断る。

「立花ならそう言うと思ったよ。それじゃまた明日にでもサークルの感想、教えてくれよな」

 壱水は陸奥の言葉に曖昧に頷いた。


 陸奥と別れて、パンフレットに書かれた部室に向かうことにした。

 パンフレットによると就勝なるサークルの所在地は、部室塔を示していた。


 放課後の廊下を一人歩く。


 ほどなくして大学構内の一角にある部室塔に辿り着いた壱水は、

「サークルの癖に部室塔か……。胡散臭いなぁ」

 部室塔を前に改めて尻込みをした。


 あと一歩踏み出せば開く部室塔の自動扉。

 ただ、その一歩が壱水にはやけに遠く感じた。


 自動扉の前で、自問自答する。

 こんな胡散臭いところで大丈夫かと。

 内定がない自分は、焦るあまり誤った決断をしていないかと。


 こういうときはいつだって、甘い声が囁きかけてくる。

 ――進めなくたっていいじゃないかと。

 ――このままでいいじゃないかと。

 ――才能には恵まれなかったかもしれないが、周囲が羨むような家族と、なにより許嫁に恵まれているじゃないかと。


 壱水は乾いた笑みを浮かべると、元来た道へと振り返った。


 ――就勝なんてばかばかしい。


 そして引き返す一歩を踏み出そうとした時、ふと脳裏をよぎったのは過去。



『――私のためにありがとう、かずみッ!』

 感謝の言葉と、色褪せない少女の笑顔。



 軸足を起点にぐるりと身を翻すと、引き返す一歩を、踏み出す一歩へと変えた。


 ――いいわけが、ないッ!


 部室塔の自動扉が微かなスライド音と共に、壱水を迎え入れた。


 ――俺は今日変わるために来たんだ!


 部室塔の内部は螺旋向上になっている。

 ひどく見づらいパンフレットに従い、エレベーターを使って地下へと降りる。


 上階に行けば行くほど、部活の権威が上になるカーヴェア学園部室塔。

 就勝サークルの評価は文字通り下の下であった。


 就勝部の立て札。

 もともとは就活部であったのだろう。

 "活"の文字に×印が書かれ、その横に"勝"の字が殴り書きされていた。 


「ここ、か……」


 意を決して部室の前に立つと、自動扉が開く。

 ――最初は勢いが肝心だ。


 腹を括った壱水が足を踏み入れた先では、何故かおかしな恰好をした二人が向かい合っていた。

 二人は片や道着、片や学ランに身を包んでいた。

 ここは大学構内の部室塔で、壱水は就職活動に関するサークルの見学に来たはず。

 一歩下がって看板を見ると、やはり就勝部の立て札が掛かっており、目当ての部屋に間違いはなかった。


「就活四十八手の一の型、突き出しー!!」

 道着を来た小柄な緑色の瞳と髪の少女が、手のひらをもって目の前の金髪リーゼントを突き飛ばそうする。


 それを、鋭い金の瞳でそれを躱すリーゼントは、

「ハッ! 甘ぇ甘ぇ! そのグラブジャムンのような甘さでオレを倒せるかッ!!」

 なぜかやけに長い爪楊枝をその口にくわえていた。


 壱水は何がどうとは言わない。いや、言えない。

 ただ、脳が考えることを止めた。


 無言で立ち尽くす壱水に、二人の少女は謎の試合を繰り広げている。

 壱水の存在に気がつく様子もない。


 ややあって、はっと再起動した壱水の脳みそ。


 壱水は関わるまいと忍び足で振り返ると、

「やあ、君は入部希望かなあ? かなかなかなあ?」

 目が死んでいる長身の女性が、立ち塞がる様に扉に立っていった。


 驚きのあまり、腰を抜かして部室へと倒れ込む壱水。

 その音に反応して部室の騒音が止むと、変わって二対四瞳が壱水へと注がれる。


「おめでとう。就職活動勝利部へようこそう」


 長身の女性の表情には、ニタァという擬音がよく似合う粘着質な笑みを浮かべていた。

 その表情のまま、背後から降り注ぐ関わりたくないと思った人物たちの視線に、その背筋を震わせている壱水に歩み寄った。


 後ろ手で部室の扉に鍵をかけて。

 

 壱水には扉の施錠音が、これまでの日常の死刑宣告にも聞こえた。



 立ち上がった壱水を囲むように、部屋にいた面々が集まった。


 口火を切ったのは、壱水の逃走を阻んだ長身の女性。

「ボクは、久部くべ 長美なみ。部長って呼ばれているよう」

 落ち着いた声音でその名を告げた。やけにのんびりとした口調が特徴的であった。


 改めて見ても整った容姿をしているのだが、輝きが濁ったその瞳と、粘着質な笑みが全てを台無しにしていた。


 可愛らしい声が響く。

「はいはーい! ココは棚出たなで 心実ここみだよー!」


 壱水が声の出所に視線を移す。

 そこには小柄な体躯の緑髪緑眼の可愛らしい美少女がいた。

 この場の誰よりも若い容姿は、中高生と見まがうほどである。

 かなり小柄な少女は、左手を元気よく上げている。愛らしさ全開であった。


 見た目通りの彼女の愛らしい仕草に壱水の頬が緩んだ――


「うるさいナタデココ」

「ナタデココ言うなー!」

 

 ――彼女の裏拳が物理的に空気を切り裂くまでは。


 金髪リーゼントの言葉に、心実が反応した。

 轟音と共に空気が震えた。壱水の前髪が浮き上がる。


 壱水の脳は目の前で起きたことが理解できなかった。


 思考が停止している壱水を差し置いて自己紹介は次へと進む。

「フッ、だから言ってんだろ。甘ぇってよ。オレは月針つきはり 香織こうし


 黒の学ランに、前に大きくせり出した金髪リーゼントは、クラシックを通り越してもはや化石。

 既に思考が停止している壱水であったが、視覚と聴覚は取得した情報をパンクした脳へと送り続ける。


 ぶっきらぼうな口調であるが、よく聞かなくてわかる透き通るような声。

 分厚い学ランを着ていても主張がわかる体の凹凸。

 アーモンド形の金の瞳と目が合うと、思考を止めても本能的に壱水は分かってしまった。


「えッ!? お前女なのかッ!?」

「……だったら、なんだよ? ぶっ飛ばされてぇのかぁ? あぁん?」

 その言葉に一気に不機嫌になる香織。

 左目を細め、右目を見開いて殺意をばらまく。


 思わず口に出してしまったが、壱水はすぐに失言を悟った。


 力強い目力に視線を泳ぐ壱水は、

「い、いや、ごめん。リーゼントで学ラン着ているから……でもなんで学ラン?」

「女がリーゼントで学ラン決めたらいけねぇのかよ? あぁん?」

 腰をおって前かがみになると、ねめつるように壱水を見上げた。


 剣呑な雰囲気に、長美が二人の間に割って入る。

「こらこら香織かおりちゃん。喧嘩腰はよくないよう」


 長美の助け船に感謝したのもつかの間。


 壱水はすぐにキョトンとした顔を浮かべた。

「かおり?」


 長美はニタァとした笑みを浮かべながら、

「うん。月針 香織かおり。それが彼女の本当の名前だよう。私は可愛らしくて好きだけどな香織」

 その視線を壱水から香織へと移した。


「……香織こうしだ」

 心底不満そうに香織は、鼻を鳴らしてその視線から顔を背けた。


「俺は立花 壱水、です。それで部長、さん? 就勝サークルは具体的には、どういうサークルなんですか?」

「部長でいいよう。よく聞いてくれたねえ! 我々はAIが教えてくれない方法で就職活動を攻略する、大学非公式サークルなのだよう! AIがすべてを決めるう? 馬鹿馬鹿しいねえ。新入り君もそうだとは思わないかい?」


 長美の言葉は、まさに壱水が日頃から考えていたことであった。

「はいッ……! だから……だから俺はここに来ましたッ!」

「うんうん。いいねえ。それじゃあ、まずは就活の簡単なおさらいをしよう。皆ももっとこっちに寄ってえ」

 

 そう言うと長美がその豊かな胸の谷間から、小指の爪ほどのカプセルを三錠取り出した。

 それぞれ一錠づつ三人へと投げ渡す。手に持ったそれは妙に生暖かい。

 心実と香織がカプセルをねじって床に投げると、瞬く間にカプセルはふかふかの座布団へと姿を変えた。


 壱水は長実の体温の残るカプセルに生唾を飲み込んでいた。

 それも香織の刺すような視線に気づくと、慌ててカプセルを座布団へと変え、素早くその上へと座った。

 

 長美を取り囲むように三人は輪になる。


「さてさて、VRMMOを使った就職活動で、重要なものはなんだったかなあ?」

「学力、ですよね?」

 何をいまさら、と壱水の述べた当たり障りのない答えに、

「ぶぶー」

 長美はニタァと笑みを浮かべながら、腕を交差させた。


 力こぶを作るポーズをとった心実が、

「腕力ー!」

「ぴんぽーん」

 長実の腕が円を描く。


 胡坐をかいている香織が膝を叩き、 

「根性だろッ!」

「ぴんぽーんぴんぽーん」

 再び長実の腕が円を描いた。


「な、何を言って。そんなの仮想現実の世界では数値化されないじゃないですか?」

「……AIに立ち向かうのにAIの土俵で戦ってどうするのお? 向こうは数字を扱う神みたいなもんじゃないかあ。百聞は一見に如かず、だねえ。今夜私たちの就職戦線があるから、君も来てみるといいよお」 


 長美が心底怪しい笑顔でそう言うと、

「連絡先を交換しようかあ。今晩の就活戦線の、パーティーコードを送るよう」

 彼女は腕に巻いたスマートフォンを壱水の方へと突き出した。


 それを聞いた心実が目を輝かせている。その目は、期待に満ち溢れていた。

 心実とは反対に、香織はそれを面白くなさそうな顔で聞いていた。壱水がそろりと彼女の顔色を伺うと、けっ、とその顔を背けた。


 二人の間に座る壱水は、何とも言えない空気の中、ぎこちなく左手に巻いたスマートフォンを起動した。



 家へと帰った壱水は、居間で大学の今日出た課題を広げた。

 ときおり、紅にチャットで分からない点を聞きながら解き進める。


 課題が終われば、長美から送られてきた資料に目を通す。

 連絡先を好感した長美から、集合場所の位置情報と共に、今日の就勝サークルが受ける企業の情報データが送られていた。


『相手の企業について何も情報がないと、話に付いていけないと思うからあ。一通り目は通しておいてねえ』


 入浴。そして、夕食の時間である。


 簡素と贅沢の二極が進んだ世界では全てが効率化されていた。

 食事は、一日に必要なすべての栄養が詰まったカプセル一粒。

 入浴は専用の液体が詰め込まれた卵型のカプセルに数十秒入るだけ。

 食後の口内ケアも、洗浄液で口をゆすぎ、専用のスプレーを口内へ振りかけるだけ。


 突き詰めた効率化は、人々の生活を機械的なものへと変えた。


 家族と就寝の挨拶を交わすと、壱水は早々に自室へと戻った。

 部屋の中央に位置する天蓋付きのベッド。

 ハウスキーパーの手で整えられたベッドには皺ひとつない。

 部屋には壁時計の刻む音だけが、規則的に木霊している。


 ベッドの横には、小さな丸机が用意されていた。

 その上には壱水専用のVRMMO用のヘッドギア。


 ベッドの上に横になった壱水は、丸机の上からヘッドギアを手に取った。

 贅沢を好まない壱水が唯一お金をかけたそれが、その頭をすっぽりと覆う。

 AIによる人間工学の結晶とも言われるヘッドギアは、装着者に一切の不快感を与えない。

 

 ヘッドギアで覆われた視界。


 壱水は自分が目を開けているのかもわからない。

 ただ暗闇にいた。

 意識的に目を閉じる。次第に時を刻む音は聞こえなくなっていく。

 その音が完全に聞こえなくなる瞬間――微かに駆動音が聞こえた気がした。


 まどろむ意識――


 この現実から仮想に入る瞬間が、壱水はたまらなく好きだった。

 それを紅や陸奥に言うと、二人してものすごい変な目で見返したあたり、あまり一般的ではないのかもしれない。

 

 ――意識が覚醒した。

 

 壱水はベッドから身を起こす。

 その頭にヘッドギアはなかった。窓から差し込む朝陽が眩しい。


 ベッドから降りて、一つ伸びをすると、

「"ステータス" 。はぁ、こう数字で見ると、どの順位もやっぱり全然伸びていないな……」


 "ステータス"と唱えると、目の前に青く半透明のホログラムが現れる。

 

 表示されたホログラムには《大学生》というカテゴリーが待っ先に目に入る。

 そのカテゴリーの中に学力、身体能力、内申点という項目が並んでいる。

 それぞれの項目には、微減と微増を繰り返す数値が表示されていた。


 その数値が表すのは、仮想世界で具現化された個人能力の順位である。

 個人が所有するスマートデバイスとヘッドギアがリンキングすることで、リアルタイムでその値を反映していた。

 その数値は相対的な数値で日々変化する。

 数字が若くなればなるほど優秀であることを示す。

 一はそのカテゴリーにおいて、一番優れていることに他ならない。

 国内最高峰の呼び名の高いカーヴェア学園以外にも、国内に大学は複数存在する。


 壱水の順位それは、カーヴェア学園の大学生の在学生の総人数をとされる人数を下回っていた。


 いつ見ても頂きが遠いその数字。


 もう一度ため息を吐いた壱水は、表示されていたホログラムを消す。

 音声操作で服を着替えると、就勝サークルの面々を合流するべく、家を後にした。



 仮想世界と現実世界は強く結びついている。


 仮想世界における容姿も基礎能力も例外ではない。

 スマートデバイスを通じて、容姿と基礎能力が忠実に再現されている。

 現実世界でうだつが上がらない人間が、仮想世界に来たら無双できるほど、仮想世界も甘くはない。


 壱水がスマートフォンに送られてきた待ち合わせ場所。

 そこは、町はずれに位置するとあるイベント会場であった。

 壱水はこの会場には過去の就活で何度か足を運んだことがあった。

 そのすべてで苦汁を飲んでいたため、今またこうして再び足を踏み入れる。


 イベント会場の前にかけられた簡素な案内板に従って、室内へと移動した。

 そこには既に就勝サークルの面々の姿があった。

 三人が三人・・・・・、黙っていれば美少女である。

 室内にはそれなりに人の姿があったが、就勝サークルの居場所はその目立つ容姿故に、すぐに分かった。


 壱水は、スーツを整えると、三人の下へ歩み寄る。

 仮想世界でスーツは、ダメージを受けない限り、曲がることも乱れることもない。

 そのため、スーツを触るということは、ただの気持ちのスイッチである。


 長美がその美人を台無しにする胡散臭い笑顔を浮かべると、

「よくきたねえ」

 元気よく小柄な心実がそれに続く。

「よろしくねー!」

 

 二人とも現実世界で出会ったときと同じ服装であった。


 金髪のグラマラスな女性が無言だけは、何も言わず顔を背けていた。

 ――え? 誰?

 壱水はそう思わずにはいられなかった。


「……んだよ」


 波打つ豊かな金髪に、目力の強い金の瞳。

 黒の学ランに身を包んだ美女は、紅に勝るとも劣らない美女であった。

 長美も黙っていれば、同じく美女なのだが、隠し切れない死んだ魚の目と、粘着質な笑みは万人受けするものではなかった。

 心実は可愛い路線であり、そのベクトルが違った。


 無愛想な反応に心実がその頬を膨らませると、

「だめだよー! こーし。ちゃんと挨拶しないとー!」

「うるさいナタデココ」

「ナタデココ言うなー!」


 空気を切り裂く裏拳が、仮想世界でも炸裂した。


「うそ、だろ……?」


 絶句する壱水。

 学ラン姿と金髪で薄々察してはいたが、心実とのやり取りで改めて確信した。

 彼女が香織であることに。彼女の特大リーゼントは、ヘッドギアには収まりきらないのだ。


 長美が取っ組み合いを始めた二人の仲裁に入る。


 長美の仲裁で取っ組み合いを止めた二人が互いにその顔を背けていると、軽快なチャイムが室内に響き渡った。


 チャイムの余韻が収まると同時に、どこからともなく声が響く。

『これより、二一二四年、弊社の就職試験を始めます。希望者の方は就職活動戦線までお集まりください。就職活動参加以外は、本時間を持ちましてご退場をお願いします』


 ぞろぞろと、ぞろぞろと人が出ていく。


 最終的に室内には、就勝サークルの四人だけが残った。

「俺たち、だけ……?」


 会場のちょうど半分ほどの位置に、部屋を横断するようにピンク色に光る線が浮き上がる。


「綺麗な光ー!」

「おい、線よりステージ側に行くな心実。そっちは出場者だ。こっちの出入口側が観客用だ」

「おっ、始まるようだねえ」

 

 ピンク色に発光する線より出入口に立つ就勝部四人・・


 壱水は違和感を覚えた。

「ん? 就勝のみんなが――」

 その疑問に被さるように、場内アナウンスが再び響く。

『それでは、これより面接を始めさせていただきたいと思います。なお、本採用試験はターン制の個人面接です。受験生はご支度のほどよろしくお願いいたします』


「今回の就活戦線はターン制かあ。悪くないねえ。これならあ……。さあ、壱水くん。君の力を見せたまえぇ!」

 そう言うと、長美は隣に立つ壱水の背中を叩いた。


 彼女のおっとりとした言動に反して、押し出すように力強く。


 予想だにしていなかった後方からの衝撃に、壱水はたたらを踏んで飛び出す形になった。

 壱水が就職活動戦線を越えると、ピンクの発光する線の上に参加者と部外者を隔てる不可視の壁が出現する。

 

 勢いよく振り返った壱水は、

「はぁ!? 聞いてないぞッ!」

 問い詰めるように長美に向かうが、不可視の壁に跳ね返された。


 壱水は鼻頭を押さえながら、これまでの物腰の低さをかなぐり捨てて怒りを露わにする。


 壱水の怒りにもどこ吹く風の長美は、

「あぁ、そうだろうねえ――だって、言ってないからねえ」

 ニタァと笑みを浮かべてみせた。

 

 カツカツと革靴が奏でる足音が聞こえる。

 面接の時間はすぐそこまで迫っていた。


「あぁ、くそっ! 後で覚えとけよッ!」


 就職戦線からの敵前逃亡。

 それは歴史の長い就職活動戦線において、今もなお大罪の一つに数えられている。


 それは以降の就職活動に支障がでるほどである。

 その人間性に疑念をもたれてしまうからである。

 就職選考は正しく辞退されなければならない。


 部屋の奥から現れたのは、黒色のスーツを身に纏った一人の男であった。

 整髪料で固めたオールバックに、室内であるにもかかわらず、サングラス。

 若くもなく、さりとて中年と呼ぶには早い。そんな年代。


 探るような長美の声が室内に響く。

「彼が今回の面接官のようだねえ」


 くぐもった声が聞こえる。

「準備はできてるか?」

「くそっ!」


 悪態を突きながら、壱水は腕に巻いたスマートフォンを起動させる。

 六枚のカードがホログラムとなって宙へ現れた。


 それを見て長美は、満足そうにニタァと笑う。

「へぇ、これだけの時間で六枚かあ、上出来じゃあないかい」


「私のターンからだ。小手調べだ。《自己紹介》を召喚。不採用アタック

 面接官は壱水へ向かって駆け出すと、あっという間に壱水との距離を詰めた。


 面接官の腕のスマートフォンが、その両腕に力を与えた。

 握りしめたその拳で壱水へと殴り掛かる。


 それを壱水も黙って見てはいない。

「させるかッ! 俺は《自己PR》に加えて《レジュメ》を召喚! 防御ブロック!」

 それを真っ向から受け止める壱水。


 壱水の呼び声にカードが反応した。

 ホログラムで表示されていた二枚のカードが粒子に変わると、面接官と同じように壱水の両腕に吸い込まれていった。


 交差した二人の腕の間で火花が散る。

 それは衝撃波が生まれる程の破壊力であった。


 壱水は歯を食いしばってこれを耐える。


 口笛を吹いた香織は、

「やるじゃねぇか。就活生たるもの、何時いかなる時もレジュメは持っておくもんだ」


 面接官は初撃が失敗すると悟ると、今度は素早く懐に潜り込んだ。

「まだだ。次のターン。《志望動機》を召喚。不採用アタック!」


「くっ、俺は《経営理念》を召喚! さらには《私は御社の商品ユーザー》と《御社の商品のすばらしさ》を召喚! 逆転採用カウンター!」

 顔面を狙った面接の一撃を紙一重で交わすと、反対に面接官の顔に右の拳を合わせにかかる。


 視界の隅でホログラムのカードが三枚、光の粒になって消える。


「さすがに四回生だねえ。これくらいは耐えて貰わないとねえ」

「それに直ぐに面接官へ反転攻撃できるのはいいぞー! がんばれー!」


 壱水に感心する二人に香織は、

「確かに筋は悪くない――だが、甘ぇ」


 面接官は、その顔面を狙った壱水の右の拳を捕まえた。


「《志望動機が浅い》を召喚。続けて《弊社で何ができるんだ》を召喚。連撃不採用コンビネーションアタック

 面接官がその手を捻りあげると、壱水の体が宙を舞う。


 視界の隅に映るホログラムのカードを確認するが、

「くそっ、使えるカードが、ないッ!」


「これまでのようですね――不採用アタック


 壱水の体は地面を抉って叩きつけられた。

「かはっ……!」


 周囲に土埃が舞う。

 勝敗めんせつはここに決した。


「まだまだ経験が足りないな。《学生時代は何をしてたんだ?》」

「ぐはっ……!」

 

 倒れ伏した壱水の脇腹を蹴り上げる面接官。

 就職活動戦線では禁忌とされる、死体蹴りであった。


 ピンクに発光する観客席の向こう。

 心実が拳を握りしめて、一歩踏み出したのを隣に立つ香織が止める。


 止められたことに不満そうな心実であったが、長美から何か言われると大人しく引き下がった。

 

「新入り君がんばれー!」


 涙交じりの心実の声が届く。


 ――がんばれって、なんだよ。わけわかんないよ。なんでそもそも俺が戦ってるんだよ。


 壱水は朦朧とする意識の中にいた。現在と過去が混濁する。

『君が壱水くんね。私たちの娘をお願いね』


 ――がんばってどうなるんだよ。どうせ変わらない。わかってるんだよ。AIが正しいってことも。


 両親が子ども時代の壱水の肩を握り、

『紅ちゃんはAIが決めた壱水の許嫁よ。あなた達は将来お父さんとお母さんのような関係になるの』


 ――昔は自慢の許嫁だった。でも、日に日に開いていく彼女との差。


 居間から聞こえてきた両親の会話。

『あなた聞いた? 紅ちゃんテストでまた満点だって』

『許嫁として壱水も負けてはいられないな』


 ――努力したんだ。勉強で負けていても運動ならと、スポーツに打ち込んだ中学生時代。


 中学時代の全校集会で表彰される許嫁の背中。

『紅ちゃん勉強もできるのに運動神経も抜群だなんて、ほんとすごいよね』

『将来どんな大人になるんだろうね』

 クラスメートからも人気者の彼女。


 この頃から、彼女の許嫁であることが苦しいと感じ始めるようになった。


 ――それならばと、泣きながら机にかじりつくように猛勉強した高校生時代。


 満点の答案用紙を自慢げに見せる紅に、

『へへーん。また満点。どう? 嬉しい?』

 高校三年間で、ついに二人のその差が埋まることはなかった。


 ――俺は、俺が彼女の人生の重荷になるのだけは嫌だッ。


 大学進学が決まった時、

『許嫁を解消したい?』

『何言ってるんだ壱水。お前にはもったいないくらいだぞ?』

 なけなしの勇気を振り絞った壱水の言葉おもいは、両親には届くことはなかった。


 ――そうだ。このまま倒れていよう。どうせこの俺のやることに価値なんてない。いいんだこのままで。


 弱い自分がそう囁く。


 いつだったか紅の誕生日。

 ぐちゃぐちゃなケーキを作った。


 チョコの黒なのか焦げた黒なのか。今となってはわかりはしない。

 普段料理を作るどこか、食べることもしない男の初めての手料理。

 味見すらろくにしなかった料理と呼ぶのもおこがましい何か。


 ――日頃彼女に何もしてやれない俺でも、せめて彼女の誕生日くらいは何かしてあげたくて。

『これ。紅に。誕生日だろ。その、おめでとぅ……』


 初めて一人で作った達成感の自己陶酔の独りよがりの産物。

 味はヒドイものだったに違いない。

 調味料は全て目分量。レシピの存在も知らなかったあの頃。


 でも、ただその喜ぶ顔が見たくて。


 それは後になって、母親に怒られるほどヒドイものだった。

『食べ物を粗末にしてはいけません』


 母親から見ても、それはひどく粗末なものだった。


 ――やっぱり意味はなかったんだ。

 

 壱水が手渡した粗末なものケーキに記憶の中の紅は目を丸くする。

 期待に目を輝かせる過去の壱水の前で、それを口にすると固まった。


 ――ほら、意味なんてなかったんだ。


 記憶が昏く濁っていく。


 『――私のためにありがとう、かずみッ!』

 

 たったその一言で、過去の記憶が鮮やかに色を取り戻した。


 鮮やかな記憶の中、彼女は笑っていた。笑ってくれた。

 その彼女が浮かべた満開の笑顔から、目を逸らすことなんかできなくて。


 ――そうだ。そうだよな。AIがお膳立てしてくれたからそれでいい?


 自分自身へと問いかける。

 

 ――違う。そうじゃない。そうじゃないだろッ! 本気で好きな子くらいッ、自分の力で振り向かせたいじゃないかッ!



 首の骨を鳴らし、今度は香織が一歩前に出る。

「はぁ、終わりか。オレの出番か――」

「まだ。まだだよお、香織かおり。彼の心はまだ死んじゃあ、いない」


 長美は真剣な眼差しで倒れ伏す壱水に視線を送る。

 その表情には壱水の危機的な状況にもかかわらず、粘着質な笑みが浮かんでいた。


 香織は長実と壱水を交互に見る。小さくため息を吐いてただ

「……香織こーしだ」

 踏み出した一歩を後ろへ引いた。

「がんばれぇー!」


「面接は以上だ。それじゃあ次――」

 面接官の男は、背後で膨れ上がった気配に振り返った。


 そこには震える膝を叱咤して、面接官の男を睨みつける壱水の姿があった。

 その目はまだ、死んではいなかった。

 

「ま、まだだ……。これが俺の最後の攻撃御社が第一志望


 最後の一枚が光の粒になって消える。


「ふん。往生際の悪い。《それが何か?》』


 それも届かない。

 壱水の最後のカードはなくなった。

 

「ぐ、はっ……!」

 とうとう膝から崩れ落ちる壱水。


「このままだとお前は不採用だな――」


 ――俺は、やっぱりダメなのか。


 意識が飛びそうになる。自分の不甲斐なさに視界が滲む。


 崩れ落ちた壱水の前で膝をつく面接官。

「――だけど、安心していいぞ」

「え?」


 これまでと打って変わって人間味あふれるその優しい声音。

 これまで戦っていたのが嘘のようである。


 その声に誘われるように、壱水は顔を上げた。


「私もかつてお前のように、社会にとって何の価値もないゴミ! みたいな存在だった。自分には価値があるんだと信じて、甘やかされて育ってきた世間知らず! それが今やどうだ! 同年代の平均年収を上回る年収に、人事採用の責任者までに抜擢された! それは決して楽な道のりではないかもしれない。それでも! 自分を変えたいなら、私たちと一緒に来ないか? 数字を積み重ねるんだ! 一日十二時間労働、七連勤の先にある夢を一緒に掴もうッ!」


 面接官から差し出された手。


 ――夢。


 壱水は震える手を持ち上げた。

 

 面接官は口角を持ち上げた。

 サングラスの奥。その目は笑っていなかった。

 網に引っかかった獲物を狩る捕食者の目つきである。相手の心をへし折った後に甘い糸を足らす。これが彼らの常とう手段であった。

 心が弱っている時、人は藁をも掴んでしまう。彼らはその心の隙間に漬け込むのだ。


 二人の手と手が触れ合う時、


 ぱちん。


「は?」


 力のない手つきで、壱水は面接官の差し出した手を払いのけた。


 ――数字じゃないとうそぶきながらも、数字を追いかけ始めたのはいつからだ。


「俺のき方。それを決めるのはAIでも企業でもない。俺だ。確かに周りと比べると俺の学力は低いのかもしれない。運動神経だってよくないのかもしれない。内申点だってよくないだろう――」


 ――数字はあくまで数字だ。それに価値を与えることができるは俺自身だッ!


「――でも、俺に価値があるのかどうか決めるのは俺だ。数字、じゃないッ!」


 払いのけられた手を見つめた面接官は、

「このッ、世間を知らないクソガキがッ……!」

 顔を赤くして、怒気を露わにする。


 立ち上がった面接官が、未だ地面に倒れる壱水に追い打ちをかけようとする。


「――おい、よく言った新入り」

「え?」


 力なく首を上げる壱水。

 その視界に先に飛び込んできたのは、黒の学ランに映える金の髪。

 腕のスマートフォンの上には、二枚のカードがホログラムとして浮かんでいる。


「おい、面接官。次はオレだ」

「私は構わないが。……カードがたったの二枚? お前就職活動を舐めてないか? 《自己紹介》を召喚。不採用アタック――ぶはっ!?」

 

 飛び込んできた面接官の一撃を躱すと、その鳩尾に鋭く重いアッパーを叩きこんだ。

「――いいか? 新入り。就活戦線は戦場だ」


 面接官の唾液と酸素が宙に舞う。

 それはコマ送りの映像であるかのように鮮明に、壱水の視界に飛び込んだ。


 香織の一撃で浮かび上がった面接官。

 体が地面に落ちるより早く、香織の回転蹴りが面接官を襲った。


 ひしゃげた音と共に吹き飛んでいった面接官の姿は、すぐに視界から見えなくなった。


 回し蹴りを打ち抜いた姿勢で固まる香織。

 その体幹に一切の揺らぎはなかった。

 打ち抜いた姿勢のまま首と顔を動かして、自身を見つめる壱水を力強く見る。


「数値? データ? あほか。戦場じゃーな。つえー奴が偉いんだ。だからよー。自分テメェーだけの武器を磨けよ」


「ぐ、な、何なんだお前は……《学生の常識は社会に通用しない》不採用アタック! ――ぶふっ!?」 

「今こーしが新人くんとお話し中だからー、静かにしててねー!」


 衝撃波と伴う正拳が、面接官の腹部を射抜く。

 体をくの字に折って、声にならない声を上げる面接官は壁まで吹き飛ばされる。

 壁に蜘蛛の巣の模様を作ると、床へと滑り落ちる


「ったく、ナタデココの方がうるせーっての」

「ナタデココ言うなー!」


 壁に背中を預け、震える足で立ち上がる面接官。

 この状況にも拘わらず、何やら言い合いを始めた香織と心実。


 その間にじりじりと裏口へ向かう面接官であったが、 

「圧迫面接に死体蹴り。加えて、労働基準法を無視した非合法な仕事の提案かあ。これらは就職活動規約により規制されているはずなんだけれどねえ?」

 長美がそれを見逃さなかった。


 相変わらずの死んだ魚の目と、ニタァとした粘着質な笑み。


 面接官には、長美が悪魔に見えた。

「な、なんだお前はッ! お前たちはッ!?」


 その問いに答えたのは、いつの間にか長美の近くに移動していた心実。

「私たちはねー!。就職活動が健全に行われているかを監査する、日本政府の特別チームなんだよー!」

 心実の言葉に、はっと何かに気がつく面接官は、

「ま、まさか……。お、お前たちが噂の就活G面ッ!? 都市伝説じゃなかったのかッ!?」


「そゆことー!」

 無邪気な笑顔でVサインを見せる心実に、

「オレらが証拠も抑えたかんな。お前らの会社は就活戦線に当分出禁だ」

 面接官を睨みつける香織。


 それに追い打ちをかける長美、

「少なくても十年は固いねえ。制裁金も覚悟するんだねえ」


 へなへなと力なく、座り込む面接官。

「そ、そんな……」


 この場で三人の小隊に驚いたの、面接官だけではなかった。

  

 フラフラの足で立ち上がった壱水。困惑の表情が浮かんでいた。

「お、おまえたちはいったい……」

「詳しい話はぁ、明日の部室でねぇ?」



 翌日の現実世界。部室塔の就勝サークルの部室。

 部室には四人の姿。


 壱水の声が裏返る。

「就活Gメンッ!? お前たちがッ!? ……嘘だろ?」

「新入り君が自分の目を信じられないなら、真実も嘘になるかもしれないねえ」


 先の戦いでひどい目に合わされた経験から、就勝サークルの面々に気を遣うのも馬鹿馬鹿しくなって、壱水は対等な口調で話すようになっていた。


「でも、なんで俺に?」

「新入りが俺たちが目をつけてたブラック企業の面接を踏みまくってたからだよ。しかも、結構な頻度で一次面接を突破するしよ、おめーストレス耐性えぐすぎんだろ」


 確かに昨日の試験はヒドイものだったが、壱水にとってはよくある話の一つ。

 三人から話を聞くまでは、面接官は死体蹴りをするものだと思っていた。


「それに部長が今年で引退だからよ。代わりに人を補充する必要があんだよ」

「え? なんで?」

「大人の事情ってやつさあ。他で欠員がでてねえ。私がそこに回らないといけないんだよお」

 相変わらずの粘着質な笑みを浮かべて、長美はそう言った。


「よろしくねー!」

「あ、う、うん。よろしく……。でも待ってくれ! 俺は今三年生で来年で卒業だぞ?」

「あー……。それは大丈夫だ」

 香織は視線を逸らして、その頬をかいた。


 香織の様子を怪訝に思い、長美を見つめると、

「――私はね。今年で大学四十年生なんだ」


 ――ん?


「ご、ごめん。部長――今なんて? 四十、年? 四年生じゃなくて?」

「聞き間違いじゃねーぜ。部長は今年で大学四十年生だって言ったんだ。ちなみに俺は七年生。心実は十年生だ」

「は?」


 ――大学四十年生? なんだそれ? それに心実の方が、香織より年上? は?


 その後の話をまとめるとこうである。


 就活Gメンは、就職活動の適正化のために暗躍する政府の秘密組織。

 その仕事の内容は、違法な就職選考企業の摘発。

 そのためには、捜査官が自ら就職選考に潜入する必要があった。

 長美はその頃の初期メンバーの最後の一人だという。


 元は現実世界で活動していたが、VRMMOの普及が拡大するにつれて、就職選考もそのほとんどが仮想世界で行われるようになった。

 その結果、就活Gメンの活動の場もVRMMOの世界へと移ることになった。

 現在では、メンバーが現実世界の大学に籍だけおいて、仮想世界の就活を取り締まる秘密組織。


 それが噂の就活Gメンの正体であった。


 そのメンバーは大学の授業に出ていない生徒だから、その実態は幽霊みたいなものである。

 教育実習生の中には、母校に訪れるのが数年、数十年ぶりの実習生もいるだろう。

 その実習生が気になってその存在を調べても、その生徒の存在を在校生の誰も知らないのだ。それは恐怖でしかないだろう。


 幽霊の正体見たり枯れ尾花。


 ある意味では、噂の正体は幽霊より怖いかも知れないが。

 なぜ、そこまでして現実世界で集まる必要があるかというと、セキュリティ面ということであった。

 現実世界と仮想世界は表裏一体とは言えど、未だその表裏を隔てる壁は限りなく近く、限りなく遠いようだ。


 ここまで思い至った壱水は、ふと気がついた。

「――ん? まてよ。お前ら本当はいったい何歳いくつなんだ……?」

「おめー、女に年齢としを聞くのか?」


 この時の三人の笑顔は、幽霊を見るより恐ろしいものであった。



 年の瀬の部室塔の就勝サークルの部室。

 そとは凍てつくような冬でも、空調の効いた室内は快適な気温を保っていた。


 壱水の就職活動を心配して、紅は部室へと足を運んでいた。

 この日は珍しく他に就勝サークルの部員が部室にはいなかった。


 部室には壱水と紅の二人きり。


 正しくは、この日部室に一番乗りであった壱水。その後をつけてきた紅。

 紅が部室に入ってきたタイミングで、壱水は他のメンバーに連絡があるまで部室に近づかないようにと連絡をとっていた。


「就活は……その、どう?」


 壱水は既に就活Gメンから内定を獲得していた。

 Gメン見習いとして、仲間たちと共に日夜仕事に励む毎日である。

 就勝サークルを隠れ蓑に、数々のブラック企業のブラック面接官たちと、仮想世界で激しい戦いを繰り広げていた。


 紅は壱水のそんな事情は露知らない。

 その結果、壱水の姿は就活がうまくいかないばかりに、就勝サークルとかいう極めて胡散臭い集団へ入り浸っているように見えていた。


 すべては壱水を心配してこその行動であった。


 その活動内容については、相手が許嫁とてばらすことは許されない。

 今の今まで紅に聞かれないことを幸いに、壱水は就活Gメンの活動を隠し通すことに成功していた。


 紅からのその質問に、たっぷりと冷汗を流した後、壱水は就職活動をサポートする企業から内定を貰ったと紅へ告げることにした。


 壱水の内定を聞いた紅。

「よかった……! ほんとに」

 彼女の赤の瞳からは大粒の涙が零れ落ちた。


 それはとても綺麗な涙。相手に対する優しさの雫。


 壱水は居ても立っても居られずに、紅をぎゅっと抱き寄せた。

 紅は小さな悲鳴をあげたものの、壱水の突然の行動に抵抗はしなかった。


「紅」

「う、うん。壱水? どうしたの?」


 どこか甘い香りがその鼻孔をくすぐった。

 頭がクラクラしそうになる。

 いい香りがする人とは遺伝子から相性がいいという話が脳裏をよぎった。


 壱水は煩悩を整理するために、一度深呼吸した。


 抱きしめて紅の両腕を優しく掴んだ。

 抱きしめた胸からそっと引きはがす。

 

 おずおずと、だがしっかりと、その赤の瞳をまっすぐに見つめた。

 綺麗な赤の瞳にひどく緊張した面持ちの男が映った。

 それは壱水の気持ちを少し軽くした。


「俺は、お前が、九々里紅が好きだ。AIが決めたからじゃない。俺が紅が好きだから結婚したい」


 壱水にとって初めての告白は、プロポーズであった。

 

 これまで言えなかった思いの丈をぶちまける。


「――それじゃあ、急に壱水がAIに反抗的になったのって……」


 視線を目の前の紅から逸らして、壱水はポリポリと鼻頭を掻く。

「紅に釣りあう許嫁になりたかったんだ。AIが決めたからじゃなくて。紅の許嫁はこんなに凄いんだぞ、って。……でも結局俺は紅みたいに要領よくできなくて、うまくいかなかったんだけど」


「馬鹿、ね……。私がAIが決めたから、だから壱水といると思ったの?」

 左の指で左右の涙を拭う紅。


「二十二年も? 私が囚われのお姫さまだとでも……?」

 語気がドンドンと増していく。紅の名前に恥じない綺麗な赤髪が膨らみを見せる。


「べ、紅さんや……?」

「何度も何度もアプローチしたのに? それもAIが私にやらせたって? 私がこれまで何十人、何百人という告白を断ってきたのものッ。ぜんぶ、全部AIがそうさせたってッ?」


 紅は怒髪天を衝くを体現していた。

 壱水は、何かはわからないが、何かが彼女の逆鱗に触れた事だけは理解した。

 その付き合いの長さは伊達ではない。


 あまりの形相に、壱水はギュッと目を瞑る。


 こういう時の、紅は決まって手を出してきた。

 パンチがくるのか、チョークがくるのか。

 はたまた両方か。

 目の前の美少女の気の強さを、壱水はよく知っていた。


 息を止めて三秒待った。五秒、十秒……。


 三十秒待って未だ何の衝撃もない。


 少し錯乱状態にあった壱水に、

 ――痛みを感じる前に殺された?


 どうしようもない考えが脳裏をよぎる。


 止めていた呼吸を再開させると、肺が酸素を取り込む。

 鼻から吸い込んだ空気で胸が上下する。

 同時に、ほのかに甘い匂いが鼻孔をくすぐった。


 やっぱりその匂いは良い香りだと感じた。


 生きていることを実感した壱水は、意を決してその目を開けた。


「ばか」


 そう言った紅の髪は、もう逆立ってはいなかった。

 

「やっぱり馬鹿なんだから」


 再び紅はそう告げると、壱水を飛び込んで抱きしめた。

 状況が呑み込めず、いまだ壱水の震える手が紅の背中の上で泳ぐ。


 鼻と鼻が触れ合う距離。

 紅がその赤く大きな瞳をつぶって、額を合わせた。


「大馬鹿なんだから」


 馬鹿だ馬鹿だと連呼されて、壱水は再び口を開く。

「馬鹿馬鹿って――」


 しかし、壱水はその次の言葉を続けることはできなかった。

 紅の唇によってその口は吐き出す行き先を失った。


 壱水は――馬鹿になった。

 

 ――キス

   ――接吻

 ――口吸い

   ――接唇せっしん

 ――親吻おやくん


 ――何をしていた?

   ――何をしている?

 ――柔らかい。

   ――気持ちがいい。

 ――満たされていく。


 永遠にも感じた数瞬。

 ゆっくりと幸せが離れていく。


 壱水をフワフワとした夢心地にさせたのが、紅であったが、それを目覚めさせたのもまた紅であった。


 這うように襟元をゆっくりと掴む紅の指。

 そして――


「ぶべらっ!?」

 

 ――乾いた音に遅れて、赤く腫れ上がる壱水の右の頬。


 いまだ残る多幸感に溢れる壱水の脳内を衝撃が走り、地にその足をつけさせた。


 涙になった壱水がイイ笑顔の紅を見つめると、

「わかったかしら?」

「――キスが気持ちいいこと?」


 もう一度乾いた音が響いた。左の頬も赤に染まる。

 その両の頬には、綺麗な紅葉が浮かび上がる。


 壱水は涙が出そうなほど両頬が痛かった。

 涙で視界が滲む。

 

「壱水。私が決めたの」

「え?」


 しかし、痛みで壱水の瞳から零れるより先に、その歪んだ視界の先から、一筋の涙が先にその頬を伝うのが見えた。


「確かに最初はAIが決めたことかもしれない。でも、最後は私が決めたの。私が壱水といることを選んだの。これは私の決断よ。私が壱水を好きだからッ、だから私はここにいるのッ!」


 ――あぁ、やっぱり好きだ。俺は紅が、好きだ。


「だからッ! だからッ――!?」


 その先の言葉は必要なかった。

 今度は、壱水がその先を言わせなかった。


 それは不器用なキスであった。

 勢い任せで、歯が当たってしまうような、たどたどしい。


 歯が当たった瞬間に、ほんの一瞬だけ紅が眉を顰めた。

 壱水の背中にどっと汗が流れる。

 やり直そうかと唇を離そうとした壱水の背中を、紅が離さなかった。


 部屋には二人の唇が絡み合う音だけが響いた。



 春を迎えた就勝サークルの部室。


 晴れて四年生となった壱水は、放課後に部室にいた。

 初めてのブラック企業の戦いから、今月で一年を迎えようとしていた。


 あれから色々な強敵と出会った。

 自分の無力さに苦しみ涙した日もあった。


 仲間とはぶつかることもあった。喧嘩をすることもしばしば。

 裏切られたと思うことすらあった。だけど、それも含めて仲間だった。

 それを乗り越えて仲間になった。


 積もりに積もり、屈折した思いの丈を紅へぶちまけたから四ヶ月弱。

 あれからも紅の目を盗んでは、就活Gメンの活動のために、定期的に部室塔に顔を覗かせていた。


 そんな壱水の様子を見に来た紅であったが、

「そ・れ・で?」

 その赤髪がうねりを上げていた。


 両手をその腰にあてた紅の視界に飛び込んできたのは、『祝・就職活動勝利部! 新部長! 立花壱水!』という立派なたすきと共に、輪の中心になっている恋人の姿であった。


 深呼吸すると、盛り上がっている輪へ向けて叫ぶ。

「なんで壱水が就勝サークルの部長になってんのよーーッ!!」

 

 紅の存在にいち早く気がついた壱水であったが、

「いやあ、なんでだろう、ハハハ、ハ……」

 視線を合わせずにその頬をかくばかりであった。


 その額に冷たい汗が伝う。


 壱水が新部長となった理由は、いたって単純であった。

 長美がサークルを去った後には、壱水以外は脳筋しか就勝サークルに残されていなかったのだ。


 奇しくも紅が部室へ訪れたこの日が、長美からの引継ぎ作業の最後の日。

 午前中に壱水が長美から、最後の引き継ぎを済ませた際、長美はやけに清々しい表情を浮かべていた。

 彼女の死んだ魚の目が、どことなく活き活きとしていたのがやけに印象的であった。


 ただ、最後まで彼女のその粘着質な笑みは変わらず、『後は頼んだよ』と。

 そう言って部室塔を去っていった彼女と、壱水の人生が再び交じり合うことはあるのだろうか。それは誰にも分らない。


 就活Gメン、もとい部員たちは、紅に一切に興味を見せない。

 ただ、新部長となった壱水に群がっている。

「新部長ッ! ココの就活四十八手を見てー!」

「いや、オレの新技が先だろ、なぁ?」

「いやいや某の――」

「なんとなんと吾輩の――」


 最上級生になった壱水より明らかに年上の妙齢の女性と、毛むくじゃらの赤ふんどし一丁の大男が就勝サークルの輪に加わっていた。


 プルプルと震える紅の絶叫が木霊する。


「いいからさっさと就活しろぉーー!!」


 その咆哮は部室内を跳び越え、部室塔へと響き渡った。

 壱水の就活活動を取り巻く騒がしい日常は、まだもう少し続きそうである。

 

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