魔法が解けるまで

酔夫人

魔法が解けるまで

「ニーナ、子どもって好き?」

「好きでも嫌いでもないかな」


 エドガーが唐突な質問をするのはいつものことだけれど、子どもとは意外だった。

 子ども……好き嫌い以前に私の身近にいなかったから『分からない』。


「友人から子どものナニーを探してほしいって頼まれたからよろしくね」

「は? ちょっと、エドガー? 好きでもないって言ったよね?」


 なにを聞いていたの?


「エドガーじゃなくて、今は私で『エディス』だから」

「それは髭を剃ってから……って、そうじゃない。ナニーなんて無理だから」


 エドガーは心は女性という男性で、女性のときは『エディス』と名乗っている。


「起きたばかりだもの。認識阻害って『エドガー』を知っている人には効かないのよね」


 認識阻害は相手に見せたい姿を見せられる便利な魔法だけれど、思い込みに近いやり方だから相手が元の姿を知っている場合は不発に終わる。


「魔力が勿体ないから、今は私たちだけなんだし認識阻害は解いたら?」

「気分の問題よ。それに認識阻害は大して魔力使わないわ。それにニーナほどじゃないけれど馬鹿みたいに魔力あるから、私」


「エディスが『馬鹿』なら私は?」


「『化け物』。だから、はい」

「何これ? プレゼント?」


 エディスが私の手首に付けてくれる腕輪に首を傾げる。ただの装飾品にはない圧迫感を感じる。


「魔力制御の腕輪。私の手作り、ニーナ好みで可愛いでしょう?」

「可愛い! いや、違う、何で魔力制御!?  いや、ちょっと外れない!!」


 エディスが楽しそうに笑う。


「無駄よ、付けた私にしか外せないわ。大丈夫、付けていても魔法師団員並みの魔力は使えるから。暴漢に襲われても問題なしよ」

「騎士や魔法師に囲まれたらどうするのよ」


 私の反論にエディスがため息を吐く。


「戦地に送り込まれたり、本格的に暗殺される心当たりがあるの?」

「ない! ……というか、本格的に暗殺される心当たりのある人ってどんな人? 国王様とか?」


「恋愛絡みでもあるわよ、女の嫉妬は怖いんだから。さて、ナニーの話に戻るわ。子どもは二人。上は二歳の男の子、名前はアルバートで愛称はアルト。下は一歳の女の子、名前はブランシュで愛称はブラン。どっちも大人しい良い子よ」


「良い子ならエディスがナニーをやりなさいよ」

「いろいろ私も忙しいの。いいじゃない、やってみたいって思わない?」


「やってみたいなんて思うわけ……」

––– 会いたい。


 頭に響いた声に反射的に私は言葉を止める。

 どこか懐かしく感じる女性の声は不意にこうして語りかけてくる。


「エディス、これは失った記憶に関係があるの?」


 日常生活には影響ないけれど、ふとした瞬間に自分の記憶に空白があることには気づいている。

 ただ困らないから普段は放っておくけれど、頭の中で声がしたらなんとなく従うようにはしている。


「さあ」


 肩を竦めるエディスにため息が出る。

 こうなったエディスが絶対に何も教えてくれないことを知っているから。


「子どもに関して教えられることは?」

「二人ともエドワード・コレヴィル侯爵の実子として戸籍に登録されているわ。アルトの母親は最初の妻、ブランの母親は最近離縁が成立した二番目の妻ね」


 コレヴィル侯爵のことはニーナも新聞で読んで知っている。

 二十代後半のまだ若い侯爵で、二番目の妻との離婚裁判が始まる前から「三番目の妻になりたい」という令嬢や未亡人が後を絶たない資産家のイケメンだという。


「侯爵家で働くには身分とマナー教育が私には足りないと思うけれど?」

「マナーの心配はないわ。エドワード、私は彼の友だちだからそう呼ばせてもらうけれど、エドワードは屋敷を出て子ども二人とアパルトマン暮らしだから」


 住所を聞くと、アパルトマンは貴族街と商業街の混じり合う地域にあった。


「侯爵閣下が子連れで家出?」

「エドワードは母親と折り合いが悪くてね。あの母親は私から見ても『ないわー』ってくらいの毒親だから。エドワードの一番目の奥さんに暗殺集団を送って殺させたのは彼女と二番目の奥さんだし」


「本当にあった、本格的な暗殺案件!」

「そうなのよ。エドワードはそれですっかり人間不信、特に女が大嫌いの偏屈になっちゃって。まあ、頑張って!」


 何をどう頑張れと?


「自分に惚れ込む女が嫌いなだけだから、惚れずにナニーに徹すれば大丈夫よ」

「惚れるって、私が侯爵閣下に? あり得ないわー」


「事実は小説より奇なり、って言うでしょ?」

「あり得ない夢物語よ。二十歳を過ぎてそんな夢を見るのは痛いでしょ」


 エディスも「そうね」と肩を竦めた。


「エドワードの最初の奥さんは亡国だけど一国の姫君だったし、二番目の奥さんも侯爵家のご令嬢だったしね」

「亡国の姫君が侯爵夫人に……」


 故国を思って泣いて暮らす姫君を慰めているうちに恋に落ちたとか?


「ちなみにその姫には儚げなところは一切ないから。それはもう逞しくて図々しい、自分の可愛らしさも武器にする恐ろしい女はなんだから」


「お姫様が?」

「姫といっても北の隣国アイシアの国王の庶子で、アイシアがうちに戦争をふっかけた責任をとるため十割捨て駒でこの国に人質としてきたんだけど、国王様に直談判してうちの魔法師団に入団してアイシア相手に遠慮なく魔法をぶっ放した人だから」


「強っ! なんでそんな人が殺されるわけ? 返り討ちにしそうなものだけど」

「子どもを人質にとられたらしいわ」


 エディスの痛まし気な表情を見て、エドワードの友だというエディスは彼女とも仲がよかったのだろうと思った。


「侯爵閣下は、最初の奥さんを殺した首謀者を知らなかったの?」

「知らなかったわ。そうじゃなければ……知ったときはブランにも手をかけるのではないかと本気で心配するほど荒れたのよ」


 えー……。


「父親としてヤバいじゃない」

「ヤバいのよ。激怒する姿を見たせいでアルトもブランもエドワードを怖がっちゃって、子どもたちに怖がられてエドワードも落ち込んで。だからそう簡単にはやられないナニーを紹介するって約束したの」


 それが私か……納得しかねる点があるけれど理解はできた。


「それなら何で魔法制御なんて」

「うっかりエドワードを返り討ちにしちゃったら流石にまずいでしょ」


「それは……まずいかしら?」


 肉親はいない。

 異国からの移民だったので親戚縁者を名乗るものもいない。


 友だちも目の前のエディスだけ。


「エディスに迷惑かけるだけね」

「それが困るから腕輪を付けたのよ、馬鹿者!」


 なるほど。


「仕事はいつから?」

「これから」


 は?


「急いで準備して。準備ができ次第、エドワードの書斎に飛ばすからそのつもりでね」


 ***


「なるほど。それが君が私の書斎に突然現れた理由か」


 この説明で納得する侯爵閣下を見て、彼がエディスの友人だということは理解できた。


「ちなみに荷物は?」

「住み込みだと説明されたのが飛ばされる直前で、夜帰ってきて私がいなかったら採用されたと判断して荷物を送るそうです」


 おそらくに。


「送り先は私の書斎ここだな」

「お手数をおかけします」

「いや、それがエドガーだしな」


 エディスのやることに驚いていたら身がもたない。そう言う侯爵閣下に深く共感した。


「話が変わってしまったが、君を子どもたちのナニーとして採用したい。契約書も用意してある、確認してくれ」


 契約書に書かれたので仕事内容は子どもに関わること全般であるが、家事については通いの使用人がいるから一切やらなくていいことが書かれていた。


「この部屋の入口と窓には侵入者を防ぐ結界をエドガーに頼んで施してもらった。害意のある者は入れないから安心するといい」

「害意のある者がそんな頻繁に来るのですか?」


 侯爵閣下の口元が皮肉気になる。


「扇情的な夜着にコートを羽織るだけの姿で突撃訪問。侍女姿で媚薬入りワインを持ってきた者もいるかな。誰かの胤を仕込んだ体でやってきて私に襲われたと訴え出る者もいた」


 狂気の沙汰だ。

 そこまで狂う女が怖いのか、それともそこまで狂わせる目の前の男が怖いのか。


「怖がらせるのはここまでにして、子どもたちを紹介しよう。名前くらいは聞いているか?」

 

 やはりわざと怖がらせていたのか。

 警戒もここまでいくと気の毒だと思った。


「アルバート様とブランシュ様と伺っています。愛称でお呼びしても構いませんか? 長いと舌を噛んでしまうので」


 私は早口言葉が苦手だ。

 だから魔法の詠唱も『着火』とか『爆破』とかなのだが、これについてはエディスに「詩的じゃない」「ロマンが足りない」と言われている。


「魔法師ではないのか?」

「魔法は使えますが、魔法師ではありません。強いて言うなら、魔女?」

「でも魔法を使うのだろう? それなのに舌を噛む?」


 信じられないものを見ているような呆けた顔をする侯爵閣下に苦笑してしまう。

 侯爵閣下も魔法詠唱は長く、ロマンがあるものを好むのかもしれない。




「お父様」


 子ども部屋に案内されると中で遊んでいた一人、アルトと思わしき少年が顔をあげた。

 その顔にニーナは唖然とした。


「白銀の髪に美しい顔立ち、アルト様は天使ですか!? あ、でも瞳の色は閣下と同じ紺青こんじょう色の瞳ですね」

「なぜそこで落ち込む? 天使など想像だろう、実際に見たことでもあるのか?」


 そんなメルヘンな体験はないはず、きっと。


「目の色だけは私に似ているが、あとは妻によく似ている」


 妻といった瞬間、侯爵閣下の硬質な雰囲気が一気に柔らかくなった。


 おそらく彼女を思い出しているその表情。

 侯爵閣下は最初の妻をいまも愛しているのだろう。



「お父様?」


 自分が放っておかれることに痺れを切らしたのか。

 侯爵閣下の上着の裾を引っ張るアルト様の小さな手、とても可愛い。画力はないが絵に描いて残しておきたい程の可愛さだ。


「アルト。ナニーのニーナだ」


 侯爵閣下の言葉にアルト様は無垢な目をキョトンとさせたあと、楽しそうに笑った。

 分かる。


「ナニーのニーナ。ナニーノニーナって魔法みたいですよね」


 私の言葉に共感を得られたとばかりにアルト様が駆け寄ってくる。

 またまた侯爵閣下が唖然としているところをみると、やはり侯爵閣下は魔法の詠唱にロマンが必要だと思うタイプなのだ。


「アルト様、『ナニーノニーナ』がどんな魔法かはあとで一緒考えましょう。先に小さな淑女の紹介をお願いできますか?」


「お父様?」

「構わない、お前が紹介してやりなさい」


 侯爵閣下の許しが出るとアルト様はホッとした表情をした。

 なるほど、エディスが言っていた侯爵閣下に対する怯えがアルト様に垣間見えた。そしてそれをアルト様も戸惑っている、と。


 うん、これはよくない。


「アルト様、お願いします」


 アルト様の背を押すつもりで声をかけると、アルト様はお絵かきをしていた女の子に肩を叩いた。


 また違和感。

 こんな近くで誰かが話していて気にならないものなのか。


 まだ一歳を過ぎたばかりの幼児だから?

 それともお絵かきに夢中だったから?


「ニーナ、妹のブランシュだよ。ブラン、ナニーのニーナだよ」


 まだ魔法の言葉のくだりが尾を引いているらしく、アルト様は楽しそうに私を紹介してくれた。

 しかし言葉の最初と最後で言葉のスピードが違う。

 ブラン様に一音一音ゆっくり話すのは相手がただ幼いからだろうか?


「ニーナです。よろしくお願いします、ブラン様」


 アルト様に習ってゆっくり話しかけながら、ブラン様の容姿に内心首を傾げる。


 父親と同じ黒髪に、父親の紺青色より黒に近い勝色かついろの瞳。

 ブランシュの要素がない子どもに付ける名前に違和感がある。


「この子の本来の髪の色は白金なのだが、諸事情で赤ん坊のときに黒く染められてしまった」


 突然頭上から降ってきた侯爵閣下の声に慌てて顔を上げる。


「成長すればもとに戻るらしいがな」

「なぜ私にそんな説明を?」


 侯爵閣下が肩を竦める。


「疑問が顔に出ていた。変に不思議がられて詮索されるより先に説明しただけだ。あと、気づいたかもしれないがブランは少し耳が遠い。言葉をかけても気づきにくいから、アルトのように触れてから話しかけてやってくれ」


 言われた内容に虐待を疑ったが、侯爵閣下に抱き上げられたブラン様の様子から「父親ではない」と判断した。

 残るは母親と祖母だが、現時点でブラン様に脅威がないならば問題ないだろう。


 ***


 アルト様とブラン様のナニーになって半年、私はナニーが自分の天職ではないかと思う。

 ここでの仕事が終わったら次もナニーになろう。


 先日の休みに会ったエディスに相談したら「子どもによるんじゃない?」と言われてしまった。

 確かに一例のみ結論を出すのは確かに危ないが、アルト様とブラン様に感じる愛情みたいなものを思えば次のところでも上手くやっていける気がする。


 ナニーという仕事のイメージが違ったものある。


 ナニーと言うと常に待機していなければいけない、休みなしの過酷な職だと思っていた。

 しかし事前に侯爵閣下に休みを申請すれば代わりの人を用意してくれるし、帰宅後は侯爵閣下が率先して子どもたちの面倒をみるから私の夜の仕事はあまりない。


 それなのに一般的なナニーに支払われる賃金以上の賃金が支払われている。

 貰い過ぎかと最初のうちは思ったが、侯爵閣下が私の予想以上に金持ちだったので遠慮はやめた。


 支払い能力のある相手に遠慮をするほうが失礼だ、きっと。



「どうした?」


 それに最近なぜか子ども二人が寝たあとは侯爵閣下の晩酌の相手をしている。

 相手が侯爵閣下でなければ『飲み友だち』と勘違いしてしまいそうだ。


 うん、これも仕事だと思う。

 時間外勤務だ、やっぱり支給額は満額受け取っておこう。


「今日のワインは軽めだと思いまして」

「君は重めが好きなのか」


 今度はもっと重いのを買ってこよう。

 そう言うエドワードはどこか楽しそうで、こっちとしては苦笑が漏れる。


「リリアーナも重めのワインが好きだったんだ」


 こうして一緒にお酒を飲むことに違和感がなくなった頃から、侯爵閣下との会話の中に彼の最初の妻の名前が出るようになった。


 それがいつかは覚えていないが、そのときのことは覚えている。

 喉がグッと絞められて、頭から冷水を被ったような気がしたからだ。


 『駄目だ』とリリアーナ最愛の女性の名前で牽制された気がした。

 

 それなのに侯爵閣下は我侭だ。

 侯爵閣下は私に奥様リリアーナと同じところがあると懐かしむように目を細める。


 その目に宿る恋慕に、思わず勘違いしそうになる。


 思い返すと恥ずかしいが、実は『妻の代わり』を求められることを警戒したことがある。

 しかし侯爵閣下に求められたことはない。


 女性としての魅力が乏しいと言われているようで少々悔しいが、侯爵閣下が我慢や無理をしているようでもない。

 もしかしたら侯爵閣下と奥様は友だちでもあったのかもしれない。


「閣下は……」

––– 駄目。


 たびたび『リリアーナ』の名を聞いているのだから、侯爵閣下と奥様の馴れ初めを聞いてもいい気がするのだが何故か聞けない。


「お友だちが少なさそうですね」

「何だ、突然。不敬だぞ」

「処罰したいならどうぞ。飛ぶ首は二つ、残り一つはエディスですし」


 そう言うと侯爵閣下は楽しそうに笑う。


「とばっちりだと騒ぎそうだ」

「騒ぐでしょうね」


 騒ぐエディスが容易に想像できて二人で笑ってしまった。


 笑い過ぎて乾いた喉をワインで潤す。

 ああ、美味しい。


 まだ笑っている侯爵閣下から夜景に目を移す。

 周辺の建物より高い位置にあるこの部屋からの眺めは素晴らしく、満月の光が街をふわりと包み込んでいるように見える。


 なんてロマンチック。


「エドガーは早口言葉が得意だから、文句も長いし早いし……とにかく煩いんだよな」


 会話にロマンチックな要素はない。

 魔法にもロマンを求めて長い詠唱を好む(たぶん)のに、こんなロマンチックな状況で交わす会話に甘さは微塵もない。


「閣下……」

「そう言えば」


 もう少しロマンチックになりません?


 そう言おうとしたのが分かったんだろうな。

 侯爵閣下の笑顔は一枚の絵のように美しく、無機質だ。


「リリアーナもよくエドガーが煩いって文句を言っていたよ」


 ……本当に上手く牽制してくれる。

 自分はいまもリリアーナを愛しているだと、『自分に恋をするな』と牽制してくる狡い男。

 

 誰がこんな男に恋をするもんか。



「閣下、昇給をお願いします」

「なんでこのタイミングで昇給なのか分からないが、何か昇給に相応しいことでも?」


 胸の中でだけ生きているリリアーナの話を聞いてあげているではありませんか。


「アルト様がブラン様の絵です」


 可愛い二人の姿に抑えきれなかった私の絵を描きたい欲。

 それを余すことなくぶつけた大作を侯爵閣下に差し出す。


「可愛いですよね、お礼の形はぜひ昇給で」

「惜しい。君の画力でなければ交渉成立だったが」


 丁寧に向きを変えられ、「お返ししよう」と手元に戻ってきた。

 解せない。


 見れば侯爵閣下は口を片手で覆って必死に笑いを堪えている。

 大笑いしたいのを堪えている。


 悔しい!


「全く、君は昔から下手の横好き……」


 絵をポケットにしまおうとしていた手が止まる。

 昔から・・・


「閣下……」


 侯爵閣下がハッとして、口を手で覆うと強張った顔を背ける。

 どう見ても『言ってはいけないことを言ってしまった』という状態。


「閣下……」

「あっと……すまない、リリアーナと間違えた」


 奥様と?


「リリアーナも絵が下手で。いや、描いてあるものは分かるのだから下手ではないのだろうが、ああいう絵を前衛的とでも言えばいいのか」

「ああ、そうでしたか」


 なんだ、そういうことか。

 奥様と似ていて混乱しちゃったのか。


 ん?


「閣下、私も絵も前衛的という意味ですか?」


 そう問いかけると、侯爵閣下はワインを飲み損ねたのか咽る。


「気にしないでください」

「す、すまない」

「月が綺麗な夜ですもの、月に惑わされて失言なさったことにします」


 そう言って満月を見た。

 本当に今夜の月は綺麗で、とても大きくて近くにあるように見える。


 こんな月を前にも……


「そうだな、今夜の月はとても綺麗だ」


––– 月が綺麗だ。


 思い出したのは、そう言う侯爵閣下。

 目の前の侯爵閣下に軍服姿の彼が重なる。


 反射的に夜景に目を向ける。

 目の前に広がるのはさっきみた美しい都ではない、月だけが明るい灯り一つない荒涼とした都。


 そしてあのとき隣にいたのは。


「エディ……」


 捻くれ者で、「好きだ」も「愛している」もなく月の美しさだけを褒めて口付けをしてきた不器用な男。


「ニーナ!」


 違う、私はニーナじゃない。

 月に飲み込まれるように、視界いっぱいが白一色になる。


「駄目だ! 違うっ、やめてくれっ、思い出さないでくれ! 頼む、リリアーナ!!」


 白い世界にエドワードが私の名前を呼ぶ声だけが響いた。


 ***


「リリィ!!」


 顔を上げるとエディスがいた。

 いや、いまは男の恰好だからエドガーか。


 魔法師団長の格好のまま、つまり王城でエドワードにつかまったか。


「エドワードが会議に乗り込んだのでなければいいけれど」

「ギリギリ大丈夫……というか、大丈夫か?」


 エドガーが私の手首にぶら下がっている壊れた腕輪を見た。

 なにが魔力制御のための腕輪だ。


「記憶が戻った衝撃で魔力が溢れて、この腕輪についた転移魔法で行き先考えずに飛びまくった。ワイン飲んでいたし、魔力も切れたしで、とにかく気持ち悪い」

「そうだと思った。魔力ポーションを持ってきたから飲んで」


 魔力ポーションは美味しくないが、この際は仕方がない。


「よくここが分かったわね」

「君はどこだと詰め寄るエドワードから逃げながら君の魔力の痕跡を追って……と言えば格好いいけれど、その腕輪に君の現在地が分かるように陣を仕込んでおいたんだ」


「怖っ」

「そう言うと思って黙っていたんだよ。備えあれば憂いなしだったね」


 そう笑ってエドガーは壊れた腕輪を取り、魔力を込めて完全に壊してしまった。

 「念のため」というエドガーの疲れた姿に、よほどしつこくエドワードに追い回されたことが想像ついた。


「ごめん、迷惑かけた」

「大丈夫、こうなると分かっていたし。あのエドワードがそう長く素知らぬ振りを続けられるとは思っていなかったから」


「いつから知っていたの?」

「ニーナがリリアーナに似ているって話が出たのは直ぐだったけれど、死んだ君を恋しく思っているがゆえの錯覚だと思っていたみたい。ただ認識阻害は思い込みだからね、そこからはあっという間さ」


 どうしてそれを教えなかったかは聞く必要はない。

 まだリリアーナが知る段階ではなかったからだ。


 『リリアーナ』の記憶を封じるようにエドガーに頼んだのはリリアーナ自身。

 ただ記憶を戻す条件はエドガーが決めた。


 そしてこうして記憶を取り戻せば分かる。

 私がエドワードに昔も今も愛されていることを理解したら『リリアーナ』としてのときのことを思い出すようにしていたのだ。


 ただ、記憶の操作は暗示だ。

 リリアーナであることを思い出して終わる可能性もある。


「エドガー、恋愛感情は記憶を取り戻すきっかけになりかねないってエドワードに教えたでしょう。とても上手に牽制されたわ」

「あいつも必死だったんだよ。エドワードを思い出しても、エドワードが君をずっと想っていたことを理解できなければ無意味。それどころか君はアルトを連れて姿を消しかねない。だから……リリアーナの気持ちが分からない以上、君の傍にいる唯一の方法はニーナのままでいてもらうことだと思ったんだろうね」


「消極的ね、エドワードらしくない」

「君に関してはいつもそうさ。それで、これからどうするの? ずっとこの穴倉に隠れているわけにはいかないでしょ?」



 エドガーが『穴倉』と呼ぶここは、暗殺されそうになった日に瀕死の重傷を負った私が逃げ込んだ場所。

 一か八かの賭けにでて暗闇で崖下に向かって飛び、下に川が流れていたのは幸運でしかなかった。


 治癒魔法で細々と命を繋ぎ、動けるようになるまで三ヶ月かかった。

 誰が味方か分からなかったから万が一の裏切りにも耐えらえるように戦う力を戻すのに数カ月かかり、一年くらいたってエドガーに連絡をとったときはこっぴどく叱れて大泣きされた。


 そしてエドガーからエドワードがグレンヴィル侯爵令嬢マーガレットと結婚したと聞いた。



 エドワードと最初に会ったのは戦場だった。

 幕僚会議の場で連れていかれた私は母国相手の戦いに参加していた。


 それは私の意志であり、私の復讐でもあったが、エドワードはそれを『とち狂った姫君の酔狂』だと鼻で笑った。

 そんなエドワードに私は決闘を申し込み、「酒の肴に丁度いい」と将軍たちがワインの瓶を片手に観戦する中でエドワードと戦った。


 私にはエドワードのような剣の腕はなかったが、魔法師団長のエディスが『化け物』というくらい魔力があったので物量で押し続けた。

 夕方から始まった決闘は深夜を越え、エディス(当時はエドガー姿)が真っ青な顔で「引き分けにしよう、引き分け!」と言って終わりになった。


 こんな始まりだったから、当然直ぐに仲良くなるわけない。

 普通に話していることのほうが少なく、基本的にけんか腰で話しをしていた。


 戦争はそれなりに長く続いた。

 エドワードに助けられたことは数知れないし、私がエドワードを助けたことも数知れない。


 なんとなくニコイチで扱われることが増えて、我が憎しい故郷の城を落として戦争は終わった。

 ゼロではないが民衆の被害者も少なく、私としては満足のいく結末だった。


 戦争に貢献したということで子爵位を賜ることに決まったが、どうでも良かった。

 戦勝の宴に馴染めず少し離れたところで月を眺めながら、このままどこかに姿を消してしまおうかと思った。


––– 月が綺麗だ。


 突然かけられた言葉に振り返るとエドワードがいた。

 近づいてくるエドワードの唇を避けずに受け入れて、重なる唇の熱に『生』を感じて、生きていることを実感したくて。


 月の光も届かない暗がりで力強く揺さぶる男のはだけた背中にしがみつき、爪を立てた。


 その後は……恋人同士、だったのだろうか。

 「お前たち、いい加減に喧嘩はやめろ」と周りに叱られてばかりだったから、二人の関係は傍目には変わらなかったと思う。


 でも人目がなければ唇を重ね、野営地から抜け出してはひっそりと肌を重ねた。

 密かに関係をもつ人はそれなりにいたから私たちのことは目立たなかったのだろうし、知っている人も私たちが割り切った関係だと思っていたに違いない。


 ただ私が知らなかっただけ。

 エドワードに婚約者がいることを知ったのは王都に帰還したその日だった。


 エドワードと婚約者のマーガレットは、エドワードが戦争から無事に帰ったら結婚することになっていたらしい。


 大勢の兵士が家族に迎えられる中、煌びやかなドレスを着たマーガレットがエドワードに抱きつき「お帰りなさい」と口づけた。


 隣でそれを見る者の気持ちになってほしい。

 マーガレットを引きはがして私に何か言おうとしていたエドワードを殴り飛ばしたことを私は後悔していない。


 国王様もいる場だったので魔法は使えなかったが、長い軍人生活で私の体術もそれなりになった。

 左頬を殴り、がら空きになった腹に拳をめり込ませて満足した。


 しかし、私は妊娠していた。


 その後のことはまさに修羅場。

 当時『戦女神』や『姫将軍』と民衆に人気のあった私をコレヴィル侯爵家は無碍にはできなかったのだろう、エドワードは責任を取る形でマーガレットとの婚約は破棄して私と結婚した。



 だからだろうか、この穴倉から出て二人の結婚を知ったときショックでもあったが安堵もした。

 偽善だが、あの日エドワードの無事を喜んでいたマーガレットにずっと申し訳ないと思っていたからだ。


 子ども、アルトのことさえなければ私はあのまま姿を消しただろう。


 自分ではない者がアルトの母親となることに哀しみはあったが、自分に憎悪と殺意を向けていたマーガレットが『エドワードの子ども』として優しく接してくれていれば私がニーナになる必要もなかっただろう。


 しかしエドガーの話はエドワードの再婚だけではなかった。

 エドワードが侯爵邸を出てアルトと二人でアパルトマンで暮らしていると言うのだ。


 あのとき私はあの坊ちゃんが子どもを育てられるのか大丈夫かと心配になった。

 しかし侯爵邸に古くから仕える使用人が交代でアパルトマンにいると聞いて安堵した。


 しかし、なぜと不安が多いエドワードの再婚生活。

 エドガーに「自分で確認してみれば?」と言われたから、アルトのためにエドガーの家に押しかける形で王都で暮らし始めた。


 その頃、マーガレットがエドワードの第二子となるブランを生んだ。


 別居の理由は痴話喧嘩だったのか。

 第二子が生まれたことで別居は解消となるだろうと思っていたら、エドワードがマーガレット相手に離婚訴訟を起こして別居は継続。


 乳幼児二人を連れてエドワードが家出をするような形になった。

 ナニーも頻繁に代わるし、アルトは大丈夫かと本気で心配になった。 


 だからエドガーから「エドワードたちを助けて」と言われたときは、自分が生きていることを公表してアルトの親権を奪って自分で育てようと思った。


 エドガーには「エドワードとブランは?」と言われたが、そこまでの義理はないと思っていた。

 自分を殺そうとした人たちと関わり合いたいと思うような物好きではない。


 しかしエドガーから二人はアルトの大事な家族だと言われて、『ニーナ』になってエドワードを見極めてみてはどうだと提案された。


 それで何か変わるのか?

 結局、過去の繰り返しではないか?


 そう言う私に「変わらなければそれまで」とエドガーは笑ったが、この結果を見るに賭けにのった時点でエドガーは勝ちを確信していたのだろう。



「エドガー、死んだ人間ってどうやったら生き返れるの?」

「普通に『生きていました』でいいんじゃない? 一般的には本人だと証明するのって難しいけれど、君の見た目と化け物みたいな魔力なら簡単に説得できるよ」


「爵位と死んだときに持っていた個人資産は?」

「爵位も君の個人資産も全てアルトが継げるようになっているよ。それを戻す手続きをすれば、晴れてリリアーナ・マジフォード・コレヴィルになるね」


「死亡前に離縁しているからリリアーナ・マジフォード子爵になるわ」

「あ、離縁が先なの。エドワードも前途多難だね」


 そうなの。

 なぜかリリアーナはエドワードの妻のまま死んだことになっているけれど、離縁したのが先なのよね。


「参考までに、何で離縁したの?」

「売り言葉に買い言葉で」

「ああ、そう。君たちだもんね、そうだよね。まあ、もうどっちでもいいや、とにかくハッピーエンドだし」


「あなた、本当にエドワードのことが大好きね」

「違うよ。エドガーはリリアーナを愛しているし、エディスはエドワードを愛しているんだ」


 胸を張って答えるエディスを「浮気者」と睨むと、エディスは「だから君が好きなんだ」と楽しそうに笑った。



「さー、王都に戻って、色々手続きして生き返らないと」

「忙しいねえ」


「嫌になっちゃうわね。もう少しここでバカンスしていこうかしら」

「やめてあげて。あいつが待ちくたびれて侯爵邸の地下にいる母親と元妻を殺害しかねない」


「あら、二人ともそんなところにいたの。道理で見つからないわけだわ。あっさり殺したらつまらないわね、エドワードを止めなきゃ」


「僕もエドワードもこんな女のどこを愛しているんだか」


 ため息を吐きながら出したエディスの手にリリアーナは笑いながら自分の手を重ねた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る