第2話 女神の愛し子
こちらを振り返ることなく馬車に乗り込んだレイモンドを見送り、フェリシアはさっと踵を返した。馬車が見えなくなったのに見送り続けることは、もうしない。
屋敷の皆の、痛ましそうな、はたまた、婚約破棄への憤りを見せた視線を受け流し、側近のヴィクターに声をかけた。
「手合わせに付き合って」
ごふぅっ、と何かがつぶれるような息を吐き出した後、ヴィクターは恐る恐る、そして切実に頼んだ。
「お嬢、殺さないでね」
「先に謝っておくわ。ごめんなさい」
ヴィクターの悲痛な叫びと、仲間たちが彼へ激励の声をかけているのを耳にしながら、フェリシアは手合わせの準備に向かった。
◇◇
木剣を構える。
目の前にはやや強張った表情のヴィクターが同じように構えている。
自分はどのような表情になっているのだろう。
そんな疑問を薙ぎ払うように、フェリシアは間合いに飛び込んだ。ヴィクターの剣は、木剣のときは速さが増す。集中しなければ怪我をするのはフェリシアだ。
いつもなら、必然的にヴィクターの動きに意識を集中できるのに、今日は意識が彷徨ってしまう。
――なぜ婚約破棄をされたのかしら。
どうしても消えない疑問が、この時にすら付きまとってしまう。レイモンドは「このまま婚姻することはできない」と何の説明にもならないことしか告げなかった。
もちろん、前代未聞の賠償についても説明はなかった。
フェリシアがはじめは賠償の内容に慄いて辞退したいと思った瞬間、伊達に8年の時間を積み重ねていなかったのか、機先を制され、レイモンドの都合によるものだからと、頑なに賠償することにこだわった。
――では、一体、何が悪かったのかしら。
婚約者の身を護るためと称して、公爵家の手の者を送り込み、密かに頼み込んでレイモンドが浮気をしていないかも探ってもらっていた。
浮気を報告されたことはなかったけれど。
――探らせていたことが、悪かったのかしら。
ヴィクターの剣を打ち下ろしながら、フェリシアはそれを否定した。
それで、あそこまでの賠償を用意するとは思えない。むしろこちらが賠償を求められてもいいぐらいだ。
そもそも、レイモンドは探られていることにとうの昔に気づいていた。家の者に頼み込んですぐの二人でのお茶の時間に、見惚れてしまうほどの笑顔を向けられたのだ。
『私のことを、気にしてくれるんだね』
探らせていたことを、それも女性の影がないかを探らせていたことまで知られてしまった事実と、レイモンドの極上の笑顔に固まってしまったフェリシアに、彼はくすりと笑った後、手を伸ばしてフェリシアの手を握った。
心臓が手に移動したのではないかと思えるほど、手は熱を持ち、自分よりも大きなレイモンドの手に視線が囚われてしまう。そこにそっと囁きが落とされた。
『私もフェリが気になるよ。フェリの周りには男性が多いから』
ヴィクターの剣を躱し、少し間合いを取ったフェリシアは、過去から引き戻されたものの、すぐにまた疑問が生まれてしまう。
――では、何が悪かったの?
考えても、答えは浮かばない。気がつけば、寸止めをし損ねてヴィクターに打ち込んでしまい、ようやくフェリシアは剣を下ろした。
呻き蹲るヴィクターに、皆が駆け寄り健闘を称えている。
遅ればせながらヴィクターに謝ろうとして、ふと過った考えに足が止まった。
――落ち込んだ時に手合わせを選ぶ、この性分が悪かったのかしら。
フェリシアは世にも稀な銀の髪をかき上げると、空を仰いだ。
銀の髪と紫の瞳――、この国の守護神である女神と同じ色を持ってフェリシアが誕生したとき、女神の愛し子、女神の祝福を受けし者の誕生だと、ウィアート家だけでなく国中が歓喜に沸いた。
フェリシアが王太子レイモンドと婚約したのは、公爵家という出自だけでなく、女神の愛し子というこの立場も考慮されたはずだ。
この国の女神は戦神であり、遥か昔、国に敵が攻め込んできたとき、光と共に戦場に降り立ち、銀の髪をたなびかせ、加護を与えた人間たちと共に敵を追い払ったとされる。
ウィアート家一門はフェリシアを溺愛し、彼女に道を強制することはなかったけれど、――どちらかといえば、彼女に怪我をさせることを嫌がる者もいたほどだが――、彼女は一身に浴びる周囲の期待に副うべく、幼いころから武芸に励んだ。
そして、幸か不幸か、彼女は武芸との相性が良かったのだ。
落ち込んだ時に手合わせをしたいと思うほどに。
――8年耐えていたというのかしら、それは、もう――、
脳裏に、会うたびに見せてくれたレイモンドの包み込むような柔らかな笑顔が過る。
その笑顔が大好きだった。
『フェリ』
笑顔に見惚れるフェリシアに、彼は一層笑みを深めて、柔らかな声で名を呼んでくれていた。その声が大好きだった。
フェリシアがヴィクターとよく手合わせをすると話してからは、レイモンドは時間を作ってフェリシアの手合わせに付き合ってくれるようになった。王城だけでなく、ウィアート家にまで来て付き合ってくれることも度々あった。
その優しさが大好きだった。
とめどなく押し寄せた柔らかな記憶に、フェリシアは瞳を閉じた。
今日は、前代未聞の婚約破棄をされた――、それだけ分かれば十分のはずだ。それ以上のことは明日から考えればいい。
もう一度髪をかき上げて柔らかな記憶を振り切ると、今度こそヴィクターの下へと足を進めたのだった。
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