『Terra Dei』〜異世界に憧れた男、転生初手で詰みかける〜

Taimanman

あなたはなんの為に命を賭けますか?

 ――あなたはなんのために命を賭けますか?


 多くの人はこの質問に対して面食らってこう答えるだろう。


 ――そもそも命なんて賭けるものじゃない。賭けようと思ったこともない。そんな酔狂なことしようとするもんじゃあない。


 個々人によって違う話し方だろうが、まあだいたいこんな感じの返答が返ってくるのではないか?

 一般人なんて言ったって定義がよくわからないが少なくとも世の中の大概の人はそんな軽々しく生物の生存本能というものをかなぐり捨てはできないだろう。というか捨てれたのならば多分直ぐに電車凸撃者が溢れかえる社会に変わるのではないだろうか?

 人生ってのは8割ぐらいは苦でできているのだから。


 ――あなたはなんのために命を賭けますか?


 大多数の人間、平均的な感性をもった所謂”普通”の人々。その反対に位置する人も少数派マイノリティではあるが確かに存在している。

 そもそも命を賭けるなんて言葉がある時点でそういうイカれた人が居ることは分かっていたことで。

 そういうやつらは命の危機を感じながらも、それを上回るほどの好奇心や使命感、人によっては義務感なんかの感情に突き動かされて生存本能ってやつを踏み越えていく。


 そんな彼らの返答は様々だろう。


 ――まだ見ぬ景色を誰よりも先に見るために。


 ――誰かの涙を止めるために。


 ――自分に課せられた使命を果たすために。


 端から見ればイカれた発想が彼らの背中を蹴り飛ばして突き進ませる。


 ……”普通”では見れない光景を数多くその目に焼き付けて回りたい。他の誰も見ていない光景を誰より先に独り占めしたい。


 ……護れる生命があったなら、自分とは違う”普通”の誰かを助けられるならば、ちっぽけな自分の全てで守り抜きたい。


 ……この世界に産まれた自分の役割があったならば、神がそのために自分を創ったというのならば、くだらない”普通”の世の中を維持するために走り抜かなくてはならない。


 様々な思惑によって己の命をチップに突き進む者達が人間の中には確かに居る。


 多分彼らは特別な何かが欲しかったんじゃないか?

 普通を嫌い、他の人に誇れるような、誰かに自慢できるような、胸を張れる何かが欲しかったんじゃないか?

 誰もがきっと、心の中で抱いている特別な何かになれた自分に憧れて走っている。


 ……だとしたら俺はどうだろう?

 大学ニ回生今年で20歳彼女なし友達なし趣味はジャパニーズサブカルチャーで好きなタイプは銀髪碧眼妹系。果たしてそんな俺はどうなのだろう?

 いったい世界に何を求め、何を願い、何に魅入り、何に突き動かされるのか?


 ――あなたはなんのために命を懸けますか?


 普段ならば言葉に詰まること請け合いのこの質問に、今ならば確信を持って答えられる。

 そう、今この時は。


「――死にたくなぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああいっっ――!!」


 全てこの一言に尽きた。

 ほぼ3mほどのサイズ感で、目の前のあらゆる障害を薙ぎ倒して突き進んでくる爆進猪くんに追い掛けまわされている現状でそれ以外の選択肢は全て寝言だ。

 命を賭ける? ナニソレオイシイノ?

 死が目の前に迫っている状況で、それでもっ! とか言える決意なんて俺にはございません。

 別にやり残したことがあるとかじゃないしそも何が何でも成し遂げなきゃいけない使命みたいなものなんて一つも持ってなかったが、それでも死にたいわけじゃない。

 生きていたいなんて思ったことはないけど、死ぬのは嫌だ。怖い。そう思っている。

 普段は人生なんてつまらないとかほざいておきながらいざ死の間際になればこうなんだからやっぱり人間って都合がいいものだ。

 まあ今そんなこと言ってる場合じゃないんだけど。


「ヴゥウウウウウウッ!!」


「ホァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!?」


 ヤバイ、死んだ。こんな森の中誰の助けも来るはずもなく一人こいつに轢き殺されて樹木の肥やしにされるんだ。


 バッドエンド確定演出。日頃から異世界行きたい行きたい言っておきながら行ってしまえばまあこんなもので。都合のいい成長イベントとか神をも堕とす古代兵器とか万物を滅ぼすチート能力とかそんなものある訳もなく、ただモンスターの餌になるだけの自殺志願と変わらなかったんだ。


 ああ、なんであんなこと願ってたんだろう。ぶっちゃけ異世界行きたいとか考えたら普通こうなるだろうことぐらい分かってたのに。

 転生ものの物語の末路なんて大抵は前世でなにやらかしたんだってぐらいの艱難辛苦かんなんしんく尽くことごとくを押し付けられるだけなのに、一部の超つまんねえ理由もなく唐突にチート能力が芽生えるか超都合良く展開が進んでチート能力を貰えるかのどっちかに憧れてやれ転生させてください転移させてくださいとまあバカみたいに毎日祈ってたわけで。

 異世界行けるんならチートなんてなくても、どんな苦しい状況からでも構いません! 例えどんな苦しい試練があっても乗り越えてみます! とかフィクションに憧れすぎなんだよ。

 もう、ホンっとうに今すぐにでも出戻りシュタイン○ゲートしてあの頃の自分をぶん殴ってきてやりたい。

 いやそれだとまた戻ってくるか。


 今更過ぎるしほんとにどうでもいいことを考え出している辺り走り続けて体が疲弊して集中できなくなりだしている証拠なんだけど、自分でそんなことには気づかない。

 ただ限界が着実に近づいてきているという予感だけはあった。


 ――始まりは簡単だった。

 通っている大学から帰宅して食事入浴その他の雑事をちゃちゃっと終わらせやっと遊べる時間になったと時刻九時頃を指す掛時計を睨みながらベッドに寝っ転がって、VRゲームのヘッドゴーグルを装着したところで意識が吹き飛んだ。

 その後の記憶が飛んでいて、気づけば薄暗い森の中でお目覚めだったというのだから西洋アニメお得意の無助走垂直跳びギャグジャンプかというほど思いっきり跳び上がって大慌てしてしまった。

 それだけならまだしも大声で叫びまくって色々取り乱していたものだからわりかしと近くに居たモンスター猪くんに見つかってしまったというわけだ。

 大声で刺激してなければこんなに追われることもなかったんじゃないか?

 ……もう何を言っても、後の祭り状態まで来てしまっているケド。





「はぁ、はぁ、はぁ、ふぅ~、まだ追ってきてるぅうううううううううーーっ!?」


 走った。捕まりたくないという一心で、暗く不安をあおってくる鬱蒼うっそうとした森の中をひた走った。

 夜の暗幕は降りていないもののそれとはまた違う、密集した木々が生み出す独自の薄暗がりが広がっている。

 進んで進んで進み続けて、一呼吸とともに目まぐるしく変わっていく風景。揺れる視界に映るのは似た地形ながらも確かに変化を見せる木々の集まり。

 下は落ち葉や枯れ木と茂った山草で踏みしめずらく、何度も足を取られそうになる。

 どちらに行けばどこに辿り着くとかそんなことは当然一つもわからない。

 ただ追いつかれないように前へ進むより他になかった。


 一つ幸運だったのはこの場所が森であったこと。もしも草原だったり岩地だったりの平原だったなら、遮蔽物しゃへいぶつなしの状態で猪とチキチキ・短距離走『追いつかれたらオ☆ワ☆リ』を開催する羽目になっていただろう。

 良くてき肉、悪いと紅いぐちゃぐちゃを地面にばら撒きモザイク必須の放送禁止映像をそこに来た誰かに見せることになるだろうか。

 その点で言えば、足下が不安で周りも良く見えないとしても相手が木々を薙ぎ倒していき、段差だったり倒木だったりの障害物分のタイムロスがあるここはまだ逃げやすかった。


 それでもまあいずれは捕まるだろう。なんとかしてかなければ数分後にも突進一発で大木を傾かせる猪にかれるであろう未来は避けられそうもなかった。

 この暴走車は切符を切れないのだから。


(どうする、このまま走ったところで体力と魔力切れで捕まるのがオチだろ)


 野生動物、しかもモンスター相手に持久力勝負は無謀が過ぎる。


 追いかけられ始めた時は恐怖と混乱でぐちゃぐちゃになって何も考えずめちゃくちゃな走りになっていたけど、いつも遊んでいたゲームのくせで反射的に魔術を使ったらそれが成功してなんとか今まで逃げ続けることができている。

 それから既に時間が経って流石に落ち着いてきた今、考えればまだ動けているのは魔法でブースト掛けてるのと生物のリミッターが外れているのもあるだろうけど、それ以前に基礎的な体力が意外とあったんだろう。

 日頃の大学通学時間片道約二時間には意味があったらしい。

 夏の糞暑い炎天下を自転車で走り、駅から大学までを歩いてきたのは全てこの為にあったことだったのか…………?

 あの無駄にしか思えなかった往復四時間は異世界転移への伏線だったのか。


 だがどのみち、スタミナも魔力にも限界はあることに変わりはない。


(問題は逃げる場所も隠れる場所もないってことだ。この状態が続くのは本気でまずい……ってあっ……!!) 


「ぐえっ……!」


 考えて、考えて、足がもつれそうになって、何回か少し湿気った土に手をつきながらも、必死に考え続けていた。

 なにか状況をよくするための案を、できる限り後ろの暴走車から距離を取るための案を、そして生き延びるための方法を考えていると、地面から少し出た木の根に足を取られて落ち葉の上に勢いよく放り出されてしまう。お陰で変な声が腹から漏れた。

 山や森は経験のないものが勢いよく走っていい場所ではなかったらしい。足下が不安定で何度も足元を掬われてしまう。


 さっきから何度か躓いてはきたものの、ここまで派手に転んだのはまずい。猪に追いつかれかねない。

 慌ててバッと顔を後ろに振り向ける。追いかけ続けた縄張りの侵入者がとうとう倒れ、猪はどんな顔を見せているのか。

 喜び弾んでいるだろうか。それとも手間をかけさせたことへの怒りで荒れているのだろうか。はたして振り返った先にいた猪の姿は――――――――――見当たらなかった。


「えっ? はぁ……? …………どこに行った? いやなんでいない?」


 いつのまにか撒いていた?

 そういえばさっきから木がへし折られるあのメキメキという音がしなくなっている。

 鳴き声も聞こえてこない。いつのまにかいなくなっていた?


「……いや、そんなことあるか?」


 アニメの世界ならともかく生身の身体で猪から逃げ切るなんてそんなこと人間にできるものだろうか。

 確かに異世界なんてファンタジーに来はした。

 そしてこの世界がなんなのかということを考えるまもなく猪に襲われて、半狂乱で逃げ出すときに反射的にいつもゲームで癖になっている身体能力強化の術を使ったらあっさり使えちゃってゲームの世界に転生したのだという事実を知ると共に、それからずっと身体能力の嵩増かさましを行っていたりもした。

 よって当然これまで素の身体能力だけで逃げてきたわけではない。


 ――だけどあの猪はさっきまで普通についてきていた。

 あれだけしつこくしつこく追いすがってきていた。ずっと全力で引き離そうとしてきたのにだ――――。

 それなのに突然なんの理由もなく振り切れた……なんてそんな都合がいいことあるだろうか?


 森の中を走り回った。その中でところどころに出てくる大木に感謝と謝罪をしたことは一回二回ではない。

 雨か何かで泥濘ぬかるんだ地面に恨み言を向けたこともあった。デコボコな土砂に普段の舗装ほそうされたアスファルトへの感謝を思い出させてもらったことも、朽ちた倒木の上を飛び越えたら真下にヤツが突撃してきて心臓がキュッと音を立てたことも。

 なんなら一回追いつかれてホントにつっこんでくる横ギリギリすれすれを掠めたこともあった。

 変に湾曲わんきょくした牙が脇腹を掠めて服を裂いていったときは多分ホントに数秒息をしてなかったと思う。


 それらを統括とうかつして、本当になんのあてもなく只管ひたすら走り回っていただけであの猪くんから逃げ切るなんて奇跡起こせるものだろうか?


(いや、無いだろ――)


 あの猪にはまだ幾分も余裕があった。あれだけ走り回っても俺と違ってピンピンしていたあのスタミナが急激に失われることはない。

 このゲームのモンスターは基本元となっている生物の特徴を受け継いでいるので、猪ならば嗅覚とて侮れないはず。俺を見失うなんてありえない。

 それらを考慮して結論を出すと、可能性は3つある。

 一つが、単純に縄張りから離れたので元の場所に帰っていったというパターン。

 正直これが一番嬉しいけど、きっとそんなに都合良くはないだろう。だってそれならばこんなに長く追い回されたりしないだろうし。

 2つが、隠れてこちらの隙を伺っているというパターン。

 猪がそんなことしてくるとも思えないけど、モンスターである分知能も増している可能性は否定できない。

 そして3つが、あまり考えたくないけれど一番ありえると思っているパターン。


 ――だってここだけ、空気が違う。


 いつの間にかたどり着いていた少し開けた空間。森の中をひた走り続けてきた中で異質なその空間は、少しの静謐さと、それ以上の不気味さを放っている。

 考えたくはない。考えたくはなかった。でもどうやらこのパターンが正解のようだ。


 木々の揺れる音がした。

 影が揺らいだ。

 森がざわめく。

 視線の先にはなにも写ってはいないのに。故に気づいた。

 この魔物は木の上にいるタイプだと。


 見たくはなかったけど、ほんとに仕方無く上を見た。

 見なければ死ぬと分かっていたから、泣く泣く俺を殺しにくるヤツを目に映しにいった。


 ――そして見たことをすぐに後悔した。


「うぁ………………マジかよ……………………ツイてねぇ…………………………………」


 黒い八本の細長い脚。それらが左右対になって卵型の頭部からとび出ている。頭の後ろには丸い腹部があってこの二つで体が構成されており、口元からは対の鋏角が見える。その特徴的なフォルムを見れば誰だって瞬時にあの虫が頭に浮かんでくるだろう。

 ゲームでは『ケミラ』と呼ばれる巨大な蜘蛛型のモンスターだ。


 このモンスターは種類によってサイズ感もまちまちではあるけれど、こいつはどうやら人喰い可能な大きさではあるらしい。まあ3.5メートルってところだろうか。


「逃げるのは…………無理か」


 詰んだ。完全に詰んだ。

 こんな頭上すぐ近くまで忍び寄られてしまった時点でもうどうしようもない。

 逃げようったって俺が走り出すより先に上から飛びかかってくるほうが絶対に速いからだ。

 何よりさっきまで散々走り回ってきた脚がとうとう悲鳴を上げ始めた。

 脚はガクガク、身体もボロボロ、息も絶え絶え、心だってもうブレブレだ。

 怖い、本当に怖い。さっきまでアドレナリンドバドバでなんとか心を保ってたのに一回落ち着いちゃったせいでもう限界だ。

 よりにもよって蜘蛛なのがヒドい。糸でぐるぐるになってドロドロに溶かされてバッドエンドとか一番嫌な死に方だろ。

 必死に逃げてきた先でこれとか運命の女神サマ絶対俺のこと嫌いだ……。

 まあ誰かに好かれるような性格してるとは思ってないけどさ。


(――ああ、これで終わりか)


 随分と短い異世界生活だった。

 こっちに来てやった事といえば森の中で猪から走って逃げるしか思いつかない。

 もっと色々やりたかった。こんな終わり方だというのにまだ俺は異世界に憧れているらしい。

 これで最後にしたくない。

 まだこの世界を見て回りたい。そう思い続ける自分がいる。


 息を呑むような心動く体験がしたかった。

 涙を流し合えるような心繋がる出会いがしたかった。

 ひと目見ただけで生涯心に残るような美しき自然を目にしたい。

 誰もたどり着いたことのない場所まで行って世界の美しさを知りたい。


 そんな願いがまだ、俺の中で叫び続けている。


 ――そうだ、俺はまだ終わりたくないんだ。


 生への想いとは裏腹に、無慈悲に蜘蛛は俺を影で覆い尽くしにきた。

 飛び掛かって八本の脚を使い、俺の全身をまるで巨大な口でもって捕食するかのように包みこんでくる。

 その顎がガッチリと締まりきって牙に貫かれる寸前、俺が見ていたのは走馬灯ではなかった。


 死の直前、生への最大の執着と共に頭に浮かんでいたその考えは、ついさっき思いついたばかりで、確証も何もなく、死を恐れるあまりそうであってほしいとこじつけた好都合なものなのかもしれない。

 けれど状況を考えれば確かにありえるかもしれない最後の博打でもあった。


 だから俺は、最後の悪あがきをしに自分自ら蜘蛛に向かって手を伸ばした。

 きっとその時、感情なんてまったく伺えないはずの蜘蛛の無表情から、確かに動揺を感じたのは間違いじゃないだろう。

 そして念じる、そっと聖女が祈るような静かなものではなく、戦士が戦闘直前に己を鼓舞するような、そんな全身全霊の念。

 全てを賭けた、全てを込めた、全てを捧げた魂の気迫。まさしく全霊……!

 推定では使える状態な筈のその力を呼び起こす。


 特異能【破魔ノ浄ブレイクタッチ


 (頼むから、発動してくれぇえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ――ッ!!)


 既に魔法が使えることは判明した。そして恐らくはこの世界はいつもプレイしていたゲーム『terra dei』の世界であろうことも。

 ならばひょっとして、ゲームで会得していた能力も使えるんじゃないだろうか…………?

 そしてそうだとすれば、とある異能なら絶対にコイツを殺せる。

 念じた特異能【破魔ノ浄ブレイクタッチ】、その効果は触れた汎ゆる魔力を霧散させるというもの……!

 全身を、全力を、全霊を賭けたその思いを伸ばす手に載せて、とうとう俺はその脚に触れた……!


「ギッ……」


 短い、本当に一瞬の叫喚があがった。そしてそのままそれが断末魔となる。

 俺の中指と触れあった右脚三脚目が起点となって、一瞬で体が霧散していく。

 本当にあっけなく、さっきまで上手くいっていなかったのが嘘みたいになんの捻りもない幕引き。

 モンスターは全身が魔力によってできており、それを触れただけで霧散させることのできる俺の異能なら理論上どれだけ強力なモンスター相手でも一瞬で殺すことができるというただそれだけのことが起こっただけ。

 もともとそういう能力で、使えたら勝ちなんだからこうなったのは当たり前だ。

 ……当たり前、なんだけども。


「――ハァ――ハァ……」


 勝ったという事実を前に、生き残ったという喜びを前に雄叫びを上げる、なんてそんなことはなかった。

 魔力の霧となって消え去った黒蜘蛛を横目に、俺の身体も限界を迎えていた。

 張り詰めていた緊張の糸が切れ、意識が緩むと共に、全身の虚脱感や倦怠感で一気に息が途切れ途切れになる。

 元よりずっと森の中を走り回ってきたことによる蓄積された疲労に加え、長時間命を狙われ続けてきたことによる心理的疲労ストレス、更に思考を回し続けてきた脳の酷使状態、これらが気の緩みによって一気に押し寄せてきたわけだ。

 人間本当に限界を超えてしまった時はそれなりの跳ねっ返りがあったらしい、それを今回身を持って知ることになった。


「あれ、傾いて……」


 目に映る森が傾いている。

 木々も落ち葉も空に映る鳥までも、みんな揃って傾いていく。

 地面も森も空さえも全部が全部俺を残して傾くものだから、天変地異でも起こっているのかと、そう考えているととうとう立っていられないほど傾いて地面と俺がぶつかってしまった。

 それでようやく他が傾いているんじゃなくて俺が倒れたのだと気づいた時には、俺の目の前は真っ暗に塗り替わっていた。

 森の中に、意識が消えていく。


(ヤバ――――こんな――とこで…………)


 頼むから、起きた時にはモンスターに囲まれてるなんてことがないように……。そんなことを最後に考えながら、俺の思考はとうとう停止した。

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