街は無慈悲な数奇の女王

千田伊織

file.1 水槽の中の猫

1 緒言

 人とは過ちを犯す種族なのだ。

 安達郁人あだちいくとがそれをはっきりと理解したのは中学一年生の冬。いつもバレーボールを担いでいる、額に湿布を貼り付けた一つ下の男の子に口づけられた時だった。

 生産性のないキスに何の意味があるのか、ませた中学生ごときがカップルの真似事をしてそれが何を意味するのかが分からない。

 端的に言えば郁人はお子様だった。

 日々の喧騒がフラッシュバックした。飽きることを知らないのか思春期真っ盛りの同級生たちはいつも同じ話題でもちきりだったことを思い出す。


「──さんが可愛い」

「──さんって発育いいよな」

「──さんって──と付き合ってんだって。キスしたのかな」


 下品に歪んだ笑みを浮かべてひそひそと話が飛び交う。

 郁人は無意識に耳を塞ぎ、それ以上の言葉はいつしか耳に入らないようになっていた。

 過保護な環境によってその類のものに触れることはなかったし、知ることもなかった。無菌状態に慣れた人間は抵抗力が下がる。まさにそうだと思う。それを性嫌悪と呼ぶことすら知りもしなかった。

 だから当事者になるなんて思ってもみなかったのだ。


──対象にされている


 混乱した。

 まだ人を好きになったことがない。まだ他人に性的な魅力を感じたことがない。だというのにその感情をぶつけられている。

 不安で気持ち悪くて、なのになぜか嬉しさを覚える自分がいた。それが妙に醜く感じた。

 乾燥でかさついた温い唇同士が重なって離れて、少年の黒い目は郁人の目の奥を覗いていた。じっと見つめられて真剣さがひしひしと伝わって、なんだかあれらとは違う感情にも見える。見たいと思っている自分がいる。

 寒空の下で体温が上がっていく。

 しかし郁人がその感情を咀嚼しようとする前に、脳は強制的にシャットダウンを行っていた。

 名状しがたい焦燥感のせいだ。郁人は首を振って口走っていた。


「……わからない」


 何が、どこが、なぜ。それらが失われた、ついて出た言葉だった。

 でもおそらくその言葉は誠実に本心を告げるよりも、強く酷い断り文句に聞こえたのだと思う。理解できないと、あまりにはっきりした拒絶に思われたに違いない。

 それから一年後、無知で無垢な安達郁人はその世界から姿を消した。


──小指に青い糸を結んで布団にもぐって「まじかるばなな」! きみの望んだ世界が待ってるよ

(小田真昼役 花房さくら ドラマ『まじかる☆ばなな』より)

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