選択1
お前は選ばれたのだ。
父上はそういうと嬉しそうに言って私を抱きしめた。私の肩を抱く父の震える手をまだ覚えている。天に昇られた母上にも今日のお前の姿を見せてやりたいといって送り出されたあの日をたまに夢の中で思い出した。
西の国で暮らす父上は今も元気だろうか。
ハイエルフは西の国の庇護を神明と契約していた。西の国の加護と引き換えにより人間界に番人を送らなければならない。
最初は良かった。
だが、長命のせいなのか子孫を残そうという欲のないハイエルフは徐々にその数を減少させていく。
そして長い年月の中で番人として選ばれるハイエルフはなるべく美しく、なるべく若い者が選ばれ始めるようになった。若い、といっても人間の平均の寿命は優に超えているのだが。
それは公平に平等にくじで選ばれた。
私は選ばれたのだ。
これはとても、喜ばしいことなのだ。
西の国から一度も出たことのない私は亡くなったハイエルフの跡を継いでこの森の番人となった。朝に神明への朝餉を供し、夜には昇る月や幾多の星々を見送った。
そしてやがては自然と一体となり、私はこの森そのものとなるのだ…それは、とても。
◇◆◇◆
静かなところだ。
まるで生き物の気配がしない。
この前ヴァルと共に葬った梟の森も静かであった。それは動物たちが行く末を見守るかのような息遣いが聞こえてくるようだった。それと比べるとここは老いて迎える死を待ち侘びている。
この森は全ての生き物から遺棄されてしまったのだろうか。
「あ、あれは…」
バッシュが声を絞り出した。
震える指で示した先にあったのは樹木と化したネモフィラ夫人とその枯れた幹に取り込まれるようにぴったりとくっついたエドワルド三世の亡骸であった。
「嘘だろ。そんな…こんなことあるワケが…」
咳き込むシュヴァイツァーが信じられないとばかりに首を横に振った。
エドワルド三世の亡骸はまだ40代に達するかどうかの若さを保ちながら、完全に命が失われていた。それもつい先ほど息を引き取ったばかりだというように、まだその体には温かい血が留まっているようだった。
「それに、あの腹は…」
一同は不自然に膨らんだネモフィラ夫人の腹部に目を奪われた。それはまるで子供を宿しているかのような、あの夢の国から覚めたばかりのバッシュにはまさかケガレが寄生してしまったのではないかと不吉な予感が頭の中を駆け巡った。
横にいるヴァルの様子をちらりと伺うと黒衣の葬儀屋は警戒することもなくごくごく自然体で夫婦の亡骸の前に立っていた。その黒真珠のようや瞳はじっと夫婦の姿を見つめて、細部に至るまで記憶を焼き付けるかのような真剣さに、バッシュは声を掛けるのを躊躇った。
程なくして白髪の葬儀屋が「あれは」と言った。エドワルド三世とネモフィラ夫人から少し離れた場所にうつ伏せに倒れた老人がいた。シュヴァイツァーが足早に駆け寄ると、少しして項垂れた。おそらくはシュヴァイツァーの古くからの友人で、1番最初にここへ辿り着いた老人葬儀屋に違いなかった。
シュヴァイツァーとヴァルは老人の亡骸を仰向けに体位を変えた。シュヴァイツァーは老人の両手を胸の上に置き「来るのが遅くなってすまんな」と言ってその見開いた瞳を休ませるようにそっと瞼を優しく撫で下ろした。
「コイツには悪いが、まずは番人の葬送儀礼からやらんとな」
「ああ、友を亡くしたというのにすまないシュヴァ」
「お前が謝ることじゃない。これがオレたちの仕事さ」
シュヴァイツァーは平気さという身振りをしたが、それが余計に堪えるように見えてならなかった。
「しかし…あの腹部は」
シュヴァイツァーが指摘するとネモフィラ夫人の膨らんだ腹部がわずかに動いた気がした。気のせいか。いや…動いている!
「…驚いたな」
東方の国では死んだ女の腹から産まれてくる赤子は凶兆とされる。しかし、彼ら自身がこれから逃げずに向き合うことで燃える火中から新たに生まれる不死鳥となるのかもしれない。
ヴァルが誰に言うでもなくそう言った。バッシュにはなにを意味するのが分からなかったが、目の前では動くはずのない白く枯れたネモフィラ夫人の腹部がミキミキと音を立てて割れていく。まるで柘榴の実が熟した内部の圧力に負けて弾けるように。
割れた腹部からおそらく2人分の左手と右手の指が絡んでピッシリと繋がれていているのが見えた。割れ目が大きくなってくるとようやく肩と頭部がずるりと現世に姿を露わした。人間にしては長いその耳を見つけると思わずバッシュは呼びかけた。
「ピピとププ!!」
生きていたのか、いやこれは生きているのか?
惰性でずるずると2人の体が外に出てくると地面に突っ伏した。シュヴァイツァーが脈を確認するとどうやら2人は生きているらしく内心ホッとした。もうこれ以上誰かが死ぬのは嫌だった。
「ううっ…」
「なんだ…」
程なくして意識を取り戻した2人は、すぐにネモフィラ夫人とエドワルド三世の亡骸に気がついた。あの夢の国の中ほどピピは取り乱す様子はなかったが互いに慰め合い震える肩を後ろから見ているしかなかった。2人が落ち着くとヴァルは葬送儀礼について説明をし、手伝って欲しいとお願いした。
涙を拭うと2人は了承して、手伝わせて欲しいと請われた。お互い夢の国では嫌なやり取りしかしていなかったが、ピピとププも長年抱えすぎた荷物を下ろして今はホッとしているようにも見えた。
簡易な手持ち松明を作るとヴァルを除いた5人が松明を持ち、順々に火をつけていく。巨木を囲むようにして5人が等間隔で並ぶとヴァルがリヒトに声を掛け、その光球から白く輝くペンを取り出す。ゆっくりと、力強く空に向かって文字を綴られていく。
「ここに宣言する。
森の番人の逝去に際して生前の功績を讃え、葬送儀礼を開始する。縁故者は番人に敬意を表し、集いたまえ。
葬儀執行者…我が名はヴァル=キャリア」
ヴァルが自分の名を刻むと空に浮かんだ文字の一つ一つが輝き出した。弓で射られた矢のように空に向かって勢いよく飛び出す。光の矢同士がぶつかって粒子が飛び散ったかと思うとやがてそれは数千数百の蝶々となって森の上を舞い踊り、夜空に飛び出した。バッシュは最初に手紙を貰った時に押されていた封蝋の印を思い出した。蝶はエドワルド三世の紋章…夫婦は2人でこの森の番人をしていたのか。
3人の子供を亡くし、人間の従者がいなくなり、俗世からは忘れ去られ自分の記憶も現世と夢の境界線が消えてもなお、互いに離れずにこの森を守ってきたのか。自分たち以外の足のある生き物はここを捨てていったというのに。
「あの時みたいに鐘とか、そういう音は鳴らないんだな…」
空を覆うように舞う銀色に光る蝶々の群れをただ見つめていたバッシュの独り言にヴァルが答えた。
「ここには既に番人を弔う人がいる」
ヴァルがバッシュの松明をそっと受け取ると、その灯りを向けた。ププとピピの方へ。
頼りない松明の灯りに照らされた2人は入り乱れる感情を顔いっぱいに露わにした。悲しみ。懺悔。後悔と不安。
「というよりか、正しくはこの森には君たちしか他にいないんだ」
老いから自由になったエドワルド三世が囚われた夢の妄執が番人の力のあり方を狂わせ、命の輪転から外れたこの一帯は長い年月の中で意思のある生き物は数を減らし、ついにはいなくなってしまった。
見送られる事のない葬送の主役はやがてケガレに飲み込まれるーーー梟の森で聞いた話をバッシュは思い出しながら、ヴァルの背中越しに双子のエルフを見つめた。
双子は夢の中にいた時よりも弱々しく見えた。
自分たちがなにをすべきなのか、どうすれば良いのか。導きを乞える主人はもういなかった。自分たちで考え、自分たちで行動しなくてはならなかった。ププとピピは互いにそっくりな顔を見合わせた。
「ば、番人…?姉上様が言っていた寝物語は本当だったの?」
「ププ。それなら姉上様は西の国からやってきたんだ。次の番人がエルフの国からやって来るのでは…」
「…それが夫人の危惧していたことのひとつだろう。西の国のエルフ達は自然の理から外れたものを嫌うと聞く」
「それって…」
バッシュは探るような目で一同の顔を見た。
青白い顔をしたピピの背中をププが宥めるようにさすった。
ゴホンっと咳払いをしたシュヴァイツァーの方を全員が見た。
「まず、間違いなく人魚の肉を食べたそこのエルフの坊やは真っ先に殺されるだろう」
「殺すって…同じエルフの仲間同士じゃないか!」
「人間と同じでエルフの中でも色々あるんだよ。」
シュヴァイツァーはキランの方を見てから言った。
「…私たちは半分エルフの血を引くハーフエルフ…西の国で暮らしていた姉上様のようなハイエルフとは違う」
オレたちは雑種なんだよ。ピピが吐き捨てるように言った。その言葉の強さから双子のハーフエルフのこれまでの人生を想像するのは容易かった。
「じゃあ、どうするんだよ」
黙って殺されるのを待つというのだろうか。
確かにピピがしたことは自然の摂理から離れたことだ。死別を恐れた結果とはいえ、黙って人間に人魚の肉を食べさせたという倫理的な罪。
「方法は2つある」
ヴァルがププとピピの方へ体の向きを変えた。
「ひとつはこの森から遠く離れること。ただし、おそらく追手が出るだろう。西の国と通じている国家間で手配書が出回るかもしれない」
「そんな…」
「もうひとつは」
ヴァルは手に持つ松明でピピの顔を照らした。
松明はヴァルの手の中で制御されていながら原始的な明るさでピピの青白い顔を照らす。
「ピピ…君がここの番人となるんだ」
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