霧のお茶会

私の弟が失礼をしました。

ネモフィラ夫人のか細い声は注意深く耳を傾けないと霧の中に紛れてしまいそうだった。ヴァルとバッシュはププに促されて白い柱に囲まれたガゼボに足を踏み入れた。


丸いテーブルの上には金の縁取りのされたカップが置かれている。ププがカップと同じ柄のポットを手に持って傾けた。

空のカップに暗い赤みある黄色の液体が注がれる。カップから立ち上る湯気と霧はけして混じり合うことがなかった。


「お手紙を送ってくださったのは貴方ですね?」


ヴァルは静かに問う。

ネモフィラ夫人はその問いかけに真っ直ぐにこちらを見つめていた。髪と同じくらいに青く澄んだ瞳にバッシュはどきりとした。


「…番人の葬儀屋さま。貴方に手紙の差出人は私です」

「姉様!」


「ピッピ。それにププも…あなたは私たちの為によく働いてくれました」


しかしもう時間なのです。

ネモフィラ夫人は諭すように話した。子供が駄々をこねるかのようにピピは暫く抵抗したが、ネモフィラ夫人の頑な態度にようやく観念したのか拗ねるように背を向けた。やがてその背中がすこし震えた。


「私の命はもう長くありません」


ネモフィラ夫人は腕にはめた長手袋を摘むとゆっくりと抜き取った。


ネモフィラ夫人の指先から二の腕にかけて茶色く変色しそれは木の幹のように見えた。実際、ネモフィラ夫人の腕は木に変わっていた。しかも夫人の木の腕は指先が白く乾き、おそらく枯れ始めていた。

ネモフィラ夫人が指先をぎこちなく擦り合わせると簡単に樹皮が剥がれ落ちた。


「樹木病です。…やがて心の臓に達するでしょう」

「樹木病…初めてみました」

「この病気は私のように寿命を迎えるハイエルフしか発症しません。あなた方人間やこの子たちのようなハーフエルフには害はありません」


「ハーフエルフ?」


バッシュは聞き慣れない言葉に反応した。分からない事があると口に出して疑問を持つ癖が出たのだ。ネモフィラ夫人は柔らかに微笑むとバッシュの疑問に優しく答えた。


「エルフと他の種族との間に産まれた子のことです」

「でも、姉上って…」

「私たちに血縁関係はないのです。私達夫婦がここへ住むようになった頃この子達が迷い現れ、今ではこのように世話をしてくれているのです」


だから耳の長さが違うのか。

確かにこうして見るとネモフィラ夫人とピピ・ププの容姿は似ているところが一つもなかった。


「少し前に…私の手紙を受け取ってくださった番人の葬儀屋様が看取りのために来てくださいました。しかし…」


途端にネモフィラ夫人は悲しみに溢れた。それがどういう意味なのかバッシュには最初分からなかった。だが隣に立つヴァルの眉間の皺が険しくなるのを見ると、事態が深刻であることを悟った。


番人の葬儀屋の目的は番人の葬儀をあげることだ。この森の番人であるネモフィラ夫人はこうして生きている。つまり葬儀は執り行われなかったのだ。簡単なことである。


ならばヴァルたちが来る前に来たという番人の葬儀屋はどこに行ってしまったのだろうか。この広い城のどこかにいるのだろうか。人の気配を少しも感じられない城のどこかに。

---いや、そもそも生きているのか?


「私の力が及ばずに大変申し訳ないことをしました」

「一体なにがあったのですか?」


ネモフィラ夫人は下唇を僅かに噛んだ。

言葉を探すように視線を右往左往していたが、やがて搾り出すような声を出した。


「私の力は…完全に塞がれてしまいました」

「塞がれた…?」


いったい、なにに?

ヴァルとバッシュ。2人の疑問は頭の上に浮かんだが、それはすぐに男の大きな声に霧散してしまった。


「ああ!ネモフィラ、ここにいたのか!」


愛しの人よ!

霧の中からエドワルド三世、ネモフィラ夫人の夫がにこやかや笑顔で現れたのだ。


---


エドワルド三世は快活さそのものだった。裏表のない性格でしかも人好きの話好きだった。それは太陽のような人相からも溢れ出ていた。


「おや、お客人がいらしたのか。これは失礼」

「えっ?」


初めまして、とエドワルド三世はまるで初めて会ったように2人に挨拶した。

ヴァルは眉間の皺を一瞬だけ増やし、バッシュはきょとんとした。


エドワルド三世が握手のために手を差し出したので、つられて目の前にいたバッシュは手を伸ばしてそのまま握手をした。

バッシュは握手をしている間にネモフィラ夫人を見ると樹木と化した腕を隠すように長手袋を嵌めていた。ネモフィラ夫人は固く唇を閉ざしたままだったが、気持ちを切り替えるように顔を上げると悲しみを隠しきれないまま歪に微笑んだ。


「そういえばピッピ。ウォルトを見なかったか?あいつ、私の従者のくせにどこにもいないんだ」

「あ、兄上様…ウォルトは…」


ピッピは言い淀んだ。

目頭が赤くなっている。


「ウォルトは台所にでも、行ったのでしょう」

「ああ、あいつめ。また台所でつまみ食いをして腹でも壊したのか」


そこでまた霧が風に流されて、一瞬だけ視界が明けた。ガゼボの周囲は特徴的な石が芝生の上に無数に並べられていた。よく見ればその石の一つひとつに文字が刻まれているのを、ヴァルは見逃さなかった。


“ウォルト ここに眠る”


バッシュもそれが墓石だと気がつくのにそう時間は掛からなかった。

気がついて、後退りした。


バッシュが顔を青白くさせている側ではエドワルド三世はネモフィラ夫人の手を取って手袋の上からキスをしていた。

それはまるきり昨晩の宴席でみた通りの仕草だったので、バッシュは足元からぞわぞわと不安が波のように押し寄せてきた。その不安はやがて背筋を通って恐怖に変わる。


---なにかの勘違いかもしれない。

バッシュは体が不安で押し潰されないように自分の腕で体を抱きしめた。

どうしてこいつは昨夜と同じことを言っているのだ?どうしてオレたちのことを忘れているのだ?なぜ夫人やエルフの従者たちは同じことを繰り返す主人になにも言わないのか。


疑問が頭の中を駆け巡る間、瞬きをするのも忘れていたが、それが別の意味に捉えたのかエドワルド三世はふふんっと呑気に鼻を鳴らした。


「ふふっ少年よ。私の妻に一目惚れでもしてしまったかな。いや、なにも言わないでくれ。彼女の美しさは世の男全てを堕落させる」

「…旦那様。なんだか悪魔的な言い方ね」

「そうだ。君の美しさは悪魔的だ。私は心臓を奪われてしまった哀れな子羊だよ」


「…えっ」



バッシュの恐怖に押し出された小さな叫びもエドワルド三世の耳には届かないらしい。

エドワルド三世とネモフィラ夫人は昨晩同様に一語一句、全く同じ言葉を紡ぎ、それから自分と妻との愛の逃避行について話し始めたのだった。

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